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~ 3 ~

※性的暴力に関する表現が混じりますので御注意ください


 フェンネル・ハイザーが教会に来なくなった。


 最初の二、三日は忙しいのか具合でも悪いのだろうと思ったものの、それが一週間と続けば、流石にローゼスも気になった。ここまで音沙汰が無いと、何かあったのではないかと心配になる。

 夕暮れ時になるとローゼスはどうも落ち着かなくなり、ここ数日は飲みたくもない白湯を口にして誤魔化す日々が続いている。

 一日の務めの全てを終え、就寝前の読書をしようと本に手を伸ばしても中身が全く入ってこない。ローゼスは枕元の教本を開き、訓示欄を熟読した。そうして心を落ち着けてみても、燭台の明かりを消して横たわれば、彼女の事ばかり考えている。


(欲とはよくできているものだ)


 自分の事ながら感心してしまう。急に会えなくなったことで、より一層思慕が強くなっている。

 二年間毎日のように聞いていた声は、今やローゼスにとっては甘い蜜と同じだった。

 鈴を揺らしたような声を思い返すだけで心がざわつき、ローゼスは目元を覆って溜息をついた。

 



 一週間を挟んで八日目の夕刻。

 ようやく、呼び鈴と共に聞き覚えのあるノック音が聞けた。


 葡萄酒色のビロード布を挟んだ衝立の向こうに腰を下ろし、入ってきた彼女が口を開くのを静かに待つ。

 が、今日は一向に相手は喋ろうとしなかった。

 あまりにも長い間そうだったため、どうかしたのだろうかと話しかけようとしたその時、


「……あの……懺悔致します……」


 蚊の鳴くように小さな声が衝立の向こうから聞こえてきた。


 そうして八日ぶりに懺悔室を訪れたフェンネル・ハイザーの口から出たのは、非情な事件だった。



* * *



 始まりは、一週間前の嵐の夜だ。雷と暴風雨でひどくうるさかったのをローゼスもよく覚えている。


 寝台に横になっていたフェンネルは、ふと、何かの気配に目を覚ました。彼女が瞼を開くのと同時に、雷に照らされた男の顔が傍に浮かび上がった。

 悲鳴を上げようとした口に無理矢理ぬめる舌がねじ込まれ、寝間着を乱暴にたくし上げられ、まさぐられる。使用人の誰かを買収して忍び込んだのだろう、夜這いに来た男は彼女が最も苦手としていたヴォルケイド・リシュリーだった。 


 助けを呼ぼうにも呼び鈴は隠されてしまっていて、届いたところで雷と嵐の音でかき消されていただろう。叫ぼうにも唇は塞がれてしまい、くぐもった声しか漏らせない。

 いつも気を張って化粧と衣装で武装していたハイザー夫人も、今では素のフェンネルに戻っていた。そうやってぐっすり眠っていたところに荒々しく襲われたものだから、恐怖のあまり成す術は無かった。


 そうして、フェンネルはヴォルケイドと共におぞましい一夜を過ごす羽目になった。



 この一夜の出来事以来、ヴォルケイドはすっかり彼女の夫気取りとなった。

 日中の人前でも堂々と彼女を見下し欲望を隠さない態度を取る。いくらフェンネルが強気のフリをしても、推しつけてくる身体を跳ね除けようとしても、一度素顔が弱い女だと知られてしまえば鼻で笑われるだけだった。

 夜は流石に新たに錠を取り付け直し、自分以外持てないようにしたものの、フェンネル・ハイザーという仮面は既にヒビが入ってぼろぼろになっていた。


 ――もし、ヴォルケイドの子を身籠っていたら。


 周りの人々も何があったのかを察したらしい。今ではすっかり弱弱しくなったフェンネルではなく、屋敷に入り浸りのヴォルケイドの方に取り入ろうと媚を売り初めているらしい。



* * *



 ローゼスは拳を固く握りしめて瞼を閉じ、そっと深い呼吸を繰り返した。

 煮え滾る怒りが呪詛となり表に出そうになるのを、必死で堪える。


 ハイザー夫人の憔悴ぶりは酷く、途切れ途切れに語る度、そのまま崩れ落ちそうだった。か細く震えるその声に、それ以上語らなくていいと声をかけたほどだ。

 

 話を聞くだけしかできない事が、今日ほど悔しいと思ったことはない。


 気付けば、懺悔室の中は茜色の光が消え、夜の帳が降りていた。暗い部屋の中には小窓から星々と月の明かりが見えるだけだ。

 ローゼスは立ち上がると、カタリ、と通路の衝立をずらして手を伸ばし、小窓のカーテンをひいた。辺りが真っ暗な闇に包まれる。

 今なら、自分が出ていっても顔すら見えないのに違いない。

 そう判断して表に出る。慎重に歩を進め、跪く彼女の傍に立つとその手を取って、起き上がらせた。


 驚きのあまり、ハイザー夫人は声が出ないようだった。

 これまで二年の間、ローゼスが衝立の向こうから出てきたことなど一度たりとも無かったのだ。


 ローゼスは彼女の両手を取ったまま、心を込めて台詞を唱える。


「神は貴女を愛します。そして必ず許します。敬虔と真摯な心で共に祈りましょう。

 愛しましょう」


「……あ……愛して……いただけるのですか……?」


 その声が神への呼びかけだと分かってはいても。


「……愛しています」


 呟いてしまったその後で、


「――神は貴女と共にありますよ」


 とローゼスは穏やかにそう付け加えた。


 ハイザー夫人の唇からわななくような吐息が零れだす。泣くまいと必死で堪えているのだろう。

 逡巡し、ローゼスは彼女の背に手を回す。


 彼が寄り添いたかったのは彼女の身体にではない。ぼろぼろになった心だ。


 男により傷付けられた彼女を、できるだけ触れる程度にしてゆっくりと慎重に包み込む。

 腕の中で、驚いたようにハイザー夫人が身を固くしたのが分かった。


 やがて。

 しゃくりあげるような小さな嗚咽が漏れだした。そうやっていったん泣き出してしまうと止まらなくなってしまったらしい。終いには、縋り付いての号泣へと変わっていった。

 ローゼスは余計な事をしなかった。ただ寄り添い、共に佇む事に徹していた。


 強く身体を抱き締め、瞼に唇を落としたくとも、それは決して叶えてはならぬ夢だ。

 男という欲を表に出せば、この抱擁に意味は無い。

 自分はただ神の代理として彼女の話を聞き、許しを与える身なのだ。

 


 どれくらいそうしていただろうか。

 いつの間にか嗚咽は止んでいた。

 落ち着いてほっとしたのだろう。ハイザー夫人が胸に顔を擦り寄せてきた。甘えるようなその仕草に、背に回した腕に思わず力が籠りそうになるのをローゼスは鉄の理性で制した。


 やがて、最後に溜息をつくと、ハイザー夫人はぎこちなく身体を離した。


「……ありがとうございます」


 恥ずかしそうなその声は、泣き過ぎたせいですっかり枯れていた。




 控えめに遠のいていく足音。

 蝶番と扉が開き、閉まる音。

 それらが終わってしまえば、後はただその場に闇だけが残った。


(――力になりたい)


 自分にできるのは、こうしてここで彼女を待ち、話を聞くことだけ。

 ハイザー商会代表である彼女に比べて地位も権力も金も無い、街の片隅にある教会の牧師。

 それが、ローゼス・ブラッジという男だ。


 だが、彼女に対する愛は誰よりも深いのだと、今やはっきりと自覚していた。


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