~ 2 ~
街外れにある小さな教会の懺悔室。
そこで過ごすひとときが、ハイザー夫人がただのフェンネルに戻れる唯一の時間だ。
夫に先立だれて2年。ひとけの無い夕食時に彼女は教会脇にある小さな扉を叩く。
懺悔は己をさらけ出すことにあり、神前で偽る事など許されない。
それは彼女にとって、緊張を伴うのと同時に解放の瞬間でもあった。
フェンネルはほとほと疲れていた。
元貴族令嬢であり現ハイザー商会の代表である彼女は、価値ある宝石と同等である。親族を始め、取引先や同業者、はては貴族に至るまで、彼女を手に入れ旨味を吸おうとあれこれ仕掛けを施してくる。
それらを慎重に見極め、できるだけ相手を貶めないよう柔らかく宥め、ねっとりと誉めそやし、いい気分にさせたところでそっと押し戻す、そんな危うい駆け引きの日々。
限界がきていることは分かっていた。何とかぎりぎりで立ちまわってはいたものの、本来の彼女は気の強い女性では無かったのだ。
白粉をはたき、艶の出る色粉で目を縁取り、油分の多い紅を塗る。下品にならぬよう落ち着いた色合いながら、近付けば胸の丸みと腰の細さがよく分かるをドレスを仕立て着た。髪は装飾せず、ゆったりと螺旋を描くように数房を残してまとめるのみ。
これが彼女の武器であり鎧だ。
一見すると派手なのか お堅いのか、立ち振る舞いも含めてなかなか見極め難くなる。ちらちらと女の色香を漂わせつつ、ハイザー夫人は落ち着いた真面目な物腰で商会代表の顔を務める。そうした何ともいえない危うさ加減が男をそそらせ、寡婦である彼女の価値を高めるのだ。
フェンネルは教会に向かう馬車の中、ロケットを開いて中を見た。
大切な妹であるウェスリンがその中には描かれている。
高位だった貴族とは昔の事。怠惰で自堕落な日々を送る両親は僅かな資産をも食い潰し、病気がちだったウェスリンの薬代や治療費さえも払えなくしてしまった。
その為、元々病弱だった妹は見る間に体調を悪化させ、現在ではほぼ寝たきりの日々を送っている。
フェンネルがビョウエン・ハイザーと結婚した最たる理由は、妹の為だった。
金があれば妹を治療して元気にしてやれる。そう信じて両親の促すまま40も年上の男の元へと嫁いだ。
確かに彼女は裕福になった。だが、金を積み高名な医者を呼び分かったのは、ウェスリンの状態が手遅れであるということだった。体力がすっかり衰え、骨と皮ばかりとなったところに重い肺の病気にかかっていると診断された。
特効薬などない。後はただできるだけ穏やかに残りの日々を過ごさせること。
散々一人で泣いた後、フェンネルはひっそりと決意した。
せめて、ウェスリンの余生を素晴らしいものにしてやろうと。
見飽きることの無い美しい調度品、柔らかな羽毛のベッドにクッション。すっきりと過ごせるよう香草や花の精油を準備させ、ウェスリンの希望と体調に合わせて調合師に配合させ、しっとりと潤む蒸気器具に垂らさせた。甘い蜜入りの最高級のお茶、静かに奏でるハープの音色。口にしたいと願うものは何でも揃え、面白いと聞いた本は全て積み上げさせる。
週に一度の余暇日にはウェスリンの元へ向かう。そうして、美しい果汁のジェリーをゆっくりと口に運んでやりながら、二人でいろんな話をするのだ。
少しずつ、少しずつ痩せ衰えていく妹は、それでもフェンネルが訪れると嬉し気に瞳を輝かせる。
結婚をすれば夫が財を牛耳るようになる。そうすれば、この莫大な妹への出資を止められる可能性が大いにあった。
最初から再婚をする気が無いと知られれば、無理矢理乗っ取ろうとする輩は必ず出てくる。だが、もうあと少しで手に入る、自分に気があるようだと思わせておけば、時間を稼げる。出資も上手くいく。だから、彼女は先々で甘い一面をちらりと見せつつ、『難攻不落のハイザー夫人(だが、どうも自分には気があるようだ)』という女性を演じ続けねばならないのだ。
「……男の方というのは、そうまでして地位と金が欲しいものなのでしょうか」
腰に手を回され、抱き寄せながら身体をまさぐられた。息を耳元に吹きかけられ、ロマンスの欠片もない下品な誘い文句を囁かれた。
そんなことで相手が喜ぶと本気で思っているらしい。
思い出すだけで怖気が走る。
ハイザー夫人の鎧が剥がれた今、懺悔室の椅子に座っているのはただのフェンネルだった。
弱音を零した後で、ふと、フェンネルはビロード越しにいる牧師も男だということに気付く。
「あの、勿論皆がそうだとは思いません。真面目に今の仕事に励み、満足していらっしゃる方も大勢いると知っています」
そう付け加えた後で、余計な言い訳にしか聞こえなかっただろうにとフェンネルは後悔した。
この牧師には二年間、自分の行いを散々懺悔してきている。今更取り繕い誤魔化したところで、印象が変わるわけではないのだ。
布向こうにいるであろう彼の姿を思い出す。
二年間、毎日のように教会へは通っている。
けれど、葡萄酒色のビロードの向こうから相手が話しかけてくることなど滅多にない。
「ようこそいらっしゃいました」
「神の許しを請うならば、この場にて偽りなき事実を述べなさい」
彼が言うのはこの程度の台詞だ。
そうして自分の話を聞き終えた後で、こう告げるのだ。
「神は貴女を愛します。そして許します。敬虔と真摯な心で共に祈りましょう。愛しましょう」
短い言葉なれど、それは深く穏やかで耳触り良く響いた。フェンネルが話す全ての事をただ静かに聞き、受け入れる。
昨夜初めて見た彼の姿は、彼女が思い描いていた通りの人物だった。
揺らめく燭台の光に照らされた生真面目で穏やかそうな顔を見た時、フェンネルはとても嬉しかったのだ。
この人で良かった、と。
だが、その素顔を知ってしまったことで、一つ困った問題が起きた。
厭わしいやり取りを申告せねばならぬのに、自分が受けた性的なやり取りを言葉にしにくくなったのだ。
乳房に手を回され、避けようとしたら尻を撫でさすられた。固い腰を押し当ててきたビョウエンの前妻の弟であるヴォルケイド・リシュリー。見た目は男前だが、傍に来られるだけで具合が悪くなりそうなほど、フェンネルは押しの強いこの男の事が苦手だった。
「それから、あの――」
唇を開き、ヴォルケイドとのやり取りを言葉に出そうとしたものの、布向こうにいる相手を知ってしまうと、恥ずかしさに次がでない。
フェンネルが懸命に己を鼓舞していると、
「――お手を」
木枠の向こうから、そう呼びかける声がした。
言われた意味が分からずにそのままでいるフェンネルに、
「言葉が出ぬならば、その心を神に伝えれば良いのです」
ビロード地の隙間から大きな手がそっと差し出された。
「共に祈りましょう。貴女の心が凪ぎ光に満たされますよう、微力ながら助力いたします」
フェンネルはおずおずと、差し出されたその指先に触れた。
自分のそれよりもずっと大きな掌に長い指。
けれど、怖くない。緊張もしない。
ほっとして、もう少しだけ、指を伸ばしてみる。大丈夫だ。
あと、もう少し。もう少しで。
そうやって掌を預け終えると、フェンネルはゆっくりと瞼を閉じた。
「共に祈りしょう。迷える神の子よ」
牧師の言葉に目を閉じる。心の内でヴォルケイドとの不快なやり取りを懺悔する。
男の掌に預けたのが掌だけでなく心もなのだと気付いたのは、長い長い祈りを終えてからだった。
あれほど荒れて疲れきっていた心が、手を繋ぎ共に祈りを捧げた事で、すっかり凪いでいたのだ。
「――ありがとうございます、牧師様」
言葉を詰まらせながら手を離し、フェンネルは深く頭を垂れて感謝した。
男性の手を握り心安らかになれたのは、生まれて初めての事だった。
ゆっくりとビロードの向こうに消えた手を、素直に好ましく思えた。
* * *
「ありがとうございます、牧師様」
礼を言い、ハイザー夫人が立ち上がる。パタン、と閉じられた部屋の中、残されたローゼスは己の手をじっと見た。
ビロード越しに付いてきた甘やかな香りが僅かにまだ漂っている。
ローゼスはフェンネル・ハイザーを見送ろうと、いつものように外に出た。
藍色混じりの夕暮れに溶ける後ろ姿は、どこか寂しげにも見える。
ふいに、彼女が振り向いてこちらを見た。
暗がりでその表情は分からずとも、自分に気付いたらしく身じろぎをしたのが分かった。
いったん顔を前に戻しかけ――、ややあって、ゆっくりとドレスの裾がひるがえる。ハイザー夫人がこちらを向いたのだ。
こちらから出むいた方が得策かと、ローゼスは彼女の元へと歩く。
「――こんばんは牧師様。昨夜はどうもありがとうございました」
「こんばんは。いえいえ、大事にされてある物でしょうから良かったですね」
己の軽率な行動を悔やみつつ、ローゼスは穏やかに返事を返す。
「今度は失わないように首から下げてきました。今までは手提げ箱に入れていましたから、それでつい置き忘れてしまったんです。
今日は礼拝に伺おうと思ったのですが……ええと……その、明かりが灯っていなかったものですから、帰ろうとしていたところですの」
教会の窓を見て思い付いたのだろう、ハイザー夫人の台詞はなかなか上手いなとローゼスは思った。
「それは大変失礼しました。
では、もしよろしければ、今からでも少しだけお祈りをしていかれませんか。明かりは間に合わせますから」
てっきり断られるものだと思っていたローゼスの誘いを、
「では、よろしくお願いします」
とフェンネルはすんなりと受け入れた。
ローゼスが壁燭台に火を点けていく間、フェンネルは祭壇の傍にて静かに祈りを捧げていた。
その姿を目の隅で捉え、絵画のようだなとローゼスは思った。
静寂と敬虔な美が、彼女を刹那の芸術品としてこの場に留めているようだ。
ふいに、彼女の素顔を見てみたいとローゼスは思った。
化粧を塗り重ねて作ったものではない、彼女の心そのままの素顔とは、一体どのような作りだろう。
だがローゼスは、目元をしっかりと彩った化粧も、身体の線を強調させたドレスも彼女にとっての鎧であり、武器なのだと知っている。
だからこそ、自分も決してその素顔を見る事はできないのだとも。
彼女の本当の顔を見ることができるのは、愛する相手だけなのだろう。
そこまで考えて、ローゼスは顎に手をやった。
自分の中で邪なものが混じりだした事にようやく気付く。
(……欲を慎み過ぎたのかもしれんな)
牧師である自分は結婚ができる。むしろ結婚し、子を作ることは宗教上推奨もされている。
だが、彼は平穏な孤独が嫌いではなかった。寂寥と共に自身と向き合う日々は、ローゼスという男にとっては苦痛でなかったのだ。
家族を持てば、この静かな夜に別れがくる。それが少しばかり残念で、まあいずれ時がくれば……と淡々と日々を過ごすうち、気付けばどうやら縁を取り逃がしていたらしい。
独り身が長かった分、いろいろと燻りだしてきたのだろうか。
(いや、違う)
ローゼスという男は内なる闇を誤魔化せない。
2年という年月。人には言えぬ胸の内をさらけ出し続けた彼女に、自分は少しずつ惹かれていったのだろう。
だから、帰り際の後姿を見送るという迂闊な真似をしてしまった。
女性に対し魅力を感じるのは、男である限り自然な事だ。
だが彼女は寡婦であり、何より立場が違った。貴族の令嬢であり、ハイザー商会の現代表である。
彼女に不安を抱かせないよう、ローゼスは細心の注意を払い、穏やかな物腰で接してきた。
だが、その生真面目さこそが彼女が惹かれる因子となる事に、彼はまだ気付けずにいた。