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~ 1 ~

 夜の帳が降り始める前に女はいつも帰っていく。

 懺悔室を仕切る木枠と葡萄酒色のビロード囲いの向こうから気配が消えたのを確認し、男は立ち上がると音を立てぬようにして裏口の戸を開けた。


 茜色に染まる暗い空の下、落ち着いたデザインのドレスを着た彼女が背を向けて歩いていく。その折れそうなほどほっそりとした腰とまとめあげた黒い髪しか、牧師ローゼス・ブラッジは見た事が無い。


 だが、顔は知らずとも名前と立場は知っている。


 フェンネル・ハイザー。

 ハイザー商会の(名ばかりであるとはいえ)現代表であり、若き寡婦(かふである。


 彼女がローゼスに行う懺悔は、いつも似たようなものばかりであった。何とも有りがちで、少々厄介な類。

 牧師である自分はその苦悩を布越しに聞いてやることしかできない。それでも彼女に心休まる相手がいないと知れば、せめてこの教会を心の拠り所にして欲しいと願わずにはいられない。



 元々フェンネルは没落貴族の令嬢だったらしい。借金がかさみ差し押さえの危機にあった屋敷は、金貸し先でもあったヴョウエン・ハイザーが持ちかけた話によりなんとか持ち直すことができた。フェンネルはヴョウエンの元に嫁ぐことで借金が帳消しとなり、ハイザー商会は貴族寄りの立場を手に入れたのだ。

 ビョウエンは前妻に先立だれていたため、フェンネルは後妻としてハイザー家に嫁いだ。当時ビョウエンは56、フェンネルは16。年の差40の夫婦である。


 それから4年の後、突然ビョウエンがこの世を去った。

 死因は泥酔状態で階段から転げ落ちたとのことだが、人々は口々にしたり顔で噂し合った。曰く、精力剤を飲み過ぎ腹上死したのであるとか、フェンネルに恋慕した料理長がこっそりと毒を盛ったであるとか、当時赴任してきたばかりのローゼスが思わず眉をひそめたような下種げすな噂ばかりが飛び交っていた。


 そうして、それから2年が経った今。

 彼女はこの小さな教会に連日懺悔に訪れるようになった。人目を忍ぶようにして夕刻に裏口の扉を開いて懺悔室へと入り、呼び紐を引いて牧師を呼ぶ。そうやって反対の扉から入ってきたローゼスが木枠の布越しに彼女の話を聞き、神の許しを与えるのだった。




 夜が訪れれば小さな教会に人はほとんど訪れない。

 だが、いつでも受け入れることはできるよう、常に大扉は開けている。昼に訪れることの叶わない者であったり、夜に懺悔や祈りを求める者のために、夜分の就寝間際までローゼスはいつでも信者を迎え入れる事ができるようにしていた。


 彼は一人でこの教会に住み込んで牧師を務めていた。大きな教会であれば修道女や女中も入り、こうして今の自分のように牧師が箒を持つこともないのだが、彼は今の生活に充分満足していた。


 キィ、と控えめに扉が開く音がした。

 振り返ったローゼスは、いるはずの無い姿をそこに見た。 


「あの……よろしいでしょうか」


 おずおずと扉から顔を覗かせている彼女は、とうに帰った筈のフェンネル・ハイザーであった。

 暗い扉向こうから僅かに見える黒髪とドレス、そして何よりその声を聞き違えようはずがない。


「――何か御用でしょうか」


 ローゼスは箒の手を止め、そ素知らぬ顔をして返事をした。

 懺悔とは神の代わりに聞くものであり、一個人として身の上相談を受けているわけではない。たとえ両者が互いを布越しに知ってはいても、決してそれを表にだしてはならない。


「実は忘れ物をしてしまいまして……あの、装身具なのですけれど」 


「少々お待ちください」


 カタリ、と箒の柄を長椅子にかけ、ローゼスは壁掛けの燭台を一つ取る。始めに長椅子の上を一つ一つ、それから教壇周りを探す振りをした後に、ようやく懺悔窓の方へと向かった。馬鹿らしい演技であるが、相手が年若い女性である分、その辺りの配慮は大切だ。


 ローゼスが予想していた通り、懺悔室の小窓下に小さな装身具が落ちていた。くすんだ金色の鎖がついたそれは、細工が施された楕円型のロケットだった。中にはおそらく家族の肖像画でも描かれているのだろう。


 摘まみ上げ、「これでしょうか」と燭台と共に掲げてみせる。


「ああ、そうです。それです!」


 よほど安堵したのだろう、フェンネルがドレスの裾を持ち小走りで駆け寄ってきた。細いヒール靴を履いているのだろうか、今にも転びそうな危なかしい足取りにローゼスは内心冷や冷やした。

 何とか無事転ばずに彼女が辿り着いたので、その手にロケットを握らせて燭台で照らしてやる。

 彼女は急いでその中身を確認しようとしてハッとしたように見上げたため、ローゼスは燭台をそのままに身をよじり、自分からは何も見えないようにしてやった。


 かちゃり、という小さな音と共に、安堵したようなため息が漏れる。


「……牧師様、ありがとうございました」


「無事に見つかってよかったですね」


 顔を戻してそう言うと、彼女は頷いてからゆっくりとローゼスを見上げた。


 蝋燭の灯火が揺らめく中、ローゼスは初めてフェンネルの顔を見た。


 遠く目にしていたほっそりとした腰と豊かに結い上げた髪が彼女なのだと教えてくれても、正直、その見目は彼の予想に反していた。


 いや、以前立っていた噂であったりハイザー商会代表という立場を考えれば、妥当ではある。

 豊満な胸の谷間を盛り上げるようにして強調させ、白粉を重ねて紅をさし、くっきりときつく目周りに色と線を入れた彼女は、確かに女性としてはとても魅力的な外見の持ち主だった。


 だが、ローゼスには彼女がいつも懺悔時に出すあの弱弱しい声の持ち主だとは、にわかには信じらなかった。


「ありがとうございました、牧師様」


 フェンネル・ハイザーはお辞儀をした。一旦その顔を知ってしまうと、途端にその仕草が彼女が女としての武器を自分に見せつけようとしている錯覚に陥りそうになる。


 お辞儀を終えた彼女が、じっと自分の顔を見上げている。

 その黒い瞳を見返して、牧師である彼は派手な縁取りの中にあるにある、暗く沈む思いに気付いた。


「それでは、御者を待たせていますので。失礼します」


 立ち去ろうとした彼女の背に、


「――神は」


 とローゼスは声をあげていた。


「神はあますことなく世を照らし、同時に、陰となる憂いや苦しみ、憎しみも共に分かち合おうとなされます。

 小さな教会ではありますが――、いつでもこの扉は開いていますよ」


 ハイザー夫人は僅かに顔だけ振り返ると、小さく会釈をして去っていった。


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