休職中の俺、狐の嫁入りの段取りを任される ~西伊豆・天気雨の約束~
お読みいただきありがとうございます。
晴れているのに雨が降る「天気雨」――別名「狐の嫁入り」。
今回は、その嫁入りの裏側で右往左往する人と狐たちの、ちょっと賑やかなお話です。肩の力を抜いて、お楽しみください。
一
九月の終わり、真野悠一は十年ぶりに西伊豆の家の戸を開けた。
祖母が亡くなって三年。誰も住まなくなった家は、潮と畳の匂いを閉じこめたまま、思っていたよりずっと静かにそこにあった。
雨戸を開けると、光がいっせいに流れこんでくる。庭の向こうには低い石垣があり、その先に駿河湾が広がっていた。凪いだ海は銀色に光り、遠くに小さな漁船がひとつ、止まっているように浮かんでいる。
「……変わらないな」
声に出してみて、自分の声がひどくかすれていることに気づいた。
会社を休むことになったのは、先月のことだ。
朝、駅のホームで電車を待っていたら、足が一歩も前に出なくなった。体のどこも痛くないのに、どうしても乗れなかった。三本見送って、四本目も見送って、そのまま会社に電話をかけた。
産業医は穏やかな声で言った。
「少し、休んでください。何もしない時間をつくってください」
何もしない。それがこんなに難しいことだとは知らなかった。
東京のマンションにいると、スマートフォンばかり見てしまう。休職中なのに、つい社内のメールを開いてしまう。自分がいなくても回っている仕事を見て安心し、同時に、少しだけ寂しくなる。そんな自分が嫌で、また画面を見る。
だから、ここへ来た。
祖母の家なら、何もしないことが許されるような気がしたのだ。
縁側に腰を下ろすと、板がぎしりと鳴った。
その音に、ふいに遠い夏の記憶が重なった。
二
九歳の夏休みを、悠一はこの家で過ごした。
両親の仲がうまくいかなくなっていた頃だ。大人たちが話し合いをする間、子どもは邪魔にならないように祖母へ預けられた。悠一はそれを何となくわかっていて、わかっていることを誰にも言わなかった。
祖母のハツは、多くを聞かない人だった。
朝は干物を焼き、昼は素麺をゆで、夕方になると「海を見ておいで」と言って悠一を送り出した。
家の裏には小さな山があり、細い石段の先に、赤い鳥居と古い祠があった。お稲荷さんだ、と祖母は言った。
その祠の前で、悠一は少女に出会った。
白い着物を着た、同い年くらいの女の子だった。肩で切りそろえた髪が、木漏れ日のなかで少し茶色く透けていた。
「あなた、ハツさんとこの子でしょう」
少女は小春と名乗った。どこの家の子かは、最後まで教えてくれなかった。
それから毎日、悠一は石段を登った。
小春は、山のことを何でも知っていた。どこに沢蟹がいるか、どの木の実が甘いか、夕立がいつ来るか。悠一が転んで膝をすりむくと、小春は何かの葉を揉んで当ててくれた。不思議と、すぐに痛みが引いた。
「悠ちゃんは、よく我慢する子だね」
あるとき、小春がそう言った。
「痛いときは、痛いって言っていいんだよ」
悠一は何も答えられなかった。
我慢しているつもりなんてなかった。ただ、大人たちの邪魔をしないようにしていただけだ。
夏休みの最後の日。
朝から雲ひとつない空だったのに、昼過ぎ、急に雨が降りだした。
陽は照ったままだった。光る雨粒が、祠の屋根をぱらぱらと叩いた。
「あ」と小春が空を見上げた。「今日は、狐の嫁入りだ」
「きつねのよめいり?」
「晴れてるのに雨が降る日はね、山で狐がお嫁に行くの」
小春は少しだけ、はにかむように笑った。
「ねえ、悠ちゃん。いつか私がお嫁に行くときは、見送りに来てくれる?」
「うん」
悠一は、何も考えずにうなずいた。
「約束だよ」
小さな小指が、悠一の小指にからまった。冷たいような、あたたかいような、不思議な指だった。
その夜、祖母にその話をすると、祖母は珍しく箸を止めた。
「天気雨の日はね、山のお狐様の嫁入りなんだよ。見かけても、邪魔しちゃいけない」
それから、少し間を置いて言った。
「でも、呼ばれたら、行っておあげ」
翌朝、悠一は東京へ帰った。
両親は離婚し、悠一は母と暮らすことになった。慌ただしい日々のなかで、あの夏のことは少しずつ遠くなり、やがて、思い出すこともなくなった。
――忘れていたのだ。今の今まで。
悠一は縁側で、自分の小指を見つめた。
三
西伊豆で過ごす日々は、驚くほどゆっくりと流れた。
一日目は、家の掃除をして終わった。
二日目は、坂の下の商店へ買い物に行った。店番のおばあさんは悠一の顔をじっと見て、「あんた、ハツさんとこの」と言った。
「よく覚えてますね」
「目元がそっくりだもの。ハツさんも、困ったときほど笑う人だったよ」
帰り道、その言葉が妙に胸に残った。
夜は、あまり眠れなかった。
波の音を聞きながら天井を見ていると、会社のこと、これからのこと、年老いた母のことが、順番に浮かんでは消えた。スマートフォンに手を伸ばしかけて、やめた。やめられた自分に、少しだけほっとした。
三日目の午後だった。
縁側で麦茶を飲んでいると、ぽつり、と庭石が濃く染まった。
見上げると、空は青いままだった。雲は、ほとんどない。
それなのに、雨が降っている。細い光の糸のような雨が、陽の光を受けてきらきらと落ちてくる。
――しゃらん。
どこかで、鈴の音がした。
裏山の方からだった。
しゃらん、しゃらん、と、澄んだ音が、雨音のすきまを縫うように近づいては遠ざかる。
悠一は、気づけばサンダルをつっかけて立ち上がっていた。
――呼ばれたら、行っておあげ。
祖母の声が、耳の奥でした。
四
石段は、記憶よりずっと短かった。
九歳の自分には果てしなく思えた段数を、四十四歳の足は息を切らしながらも登りきった。
鳥居の朱色は、ずいぶん褪せていた。
けれど、その向こうの景色に、悠一は息をのんだ。
行列が、あった。
昼の光のなかに、いくつもの提灯が揺れている。灯の色は青白く、雨に濡れても消えることがない。提灯を持つ者たちは皆、紋付や着物に身を包み、顔には白い狐の面をつけていた。
誰も、口をきかない。
ただ、しゃらん、しゃらん、と鈴の音だけが、行列の先頭から響いてくる。
その真ん中に、白無垢の花嫁がいた。
綿帽子を深くかぶり、顔は見えない。
だが悠一には、それが誰なのか、なぜかはっきりとわかった。
行列が、ゆっくりと止まった。
花嫁が、白い指で綿帽子の端を持ち上げる。
「――来てくれたんだ、悠ちゃん」
大人になった小春が、そこにいた。
あの夏と同じ、少し茶色く透ける髪。同じ、はにかむような笑い方。
「……ごめん」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
「ずっと、忘れてた。約束したのに」
「うん。知ってる」小春はくすりと笑った。「でも、来てくれたでしょう」
「待たせたんじゃないのか」
「狐の時間は、人とは流れ方が違うの。それにね」
小春は、少し首をかしげて悠一を見た。
「ずっと、見てたよ。悠ちゃんがお母さんを支えて、一生懸命勉強して、一生懸命働いて。ハツさんのお葬式で、誰よりも最後まで笑って、みんなにお礼を言ってたのも」
悠一は、言葉を失った。
「悠ちゃんは、昔から変わらないね。よく我慢する子」
雨が、頬に当たった。
晴れた空から落ちてくる、細い雨。
「今日の空、悠ちゃんの顔とおんなじだよ」
「……おんなじ?」
「晴れてるのに、雨が降ってる」
その瞬間、胸の奥で、何かがほどけた。
ずっと、晴れていようとしてきた。
大丈夫な顔をして、困ったときほど笑って、誰にも心配をかけないように。九歳の夏から、ずっと。そうしなければいけないと思っていた。そうしなければ、誰かの邪魔になると思っていた。
気がつくと、涙がこぼれていた。
四十四にもなって、人前で――狐の前で――声を殺して泣いていた。
小春は、何も言わずに待っていてくれた。
行列の狐たちも、誰ひとり急かさなかった。雨音と鈴の音だけが、やさしく続いていた。
「泣いていいんだよ」
やがて、小春が言った。
「狐の嫁入りの日はね、晴れと雨が一緒にいていい日なの。どっちかに決めなくていいの。笑いながら泣いたって、泣きながら笑ったって、いいんだよ」
「……そうか」
「無理して、晴れなくていいの」
悠一は、濡れた顔を手のひらでぬぐった。
不思議だった。泣いたのに、体が軽くなっていた。
「私ね、お嫁に行く前に、どうしても悠ちゃんに会いたかった。見送ってもらいたかったのもあるけど」
小春は、少しだけ真面目な顔になった。
「悠ちゃんに、ひとりじゃないよって言いたかったの。あの夏、ハツさんと私が一緒にいたみたいに。これからも、悠ちゃんのことを見てる誰かは、ちゃんといるから」
しゃらん、と鈴が鳴った。
行列の先頭の狐が、静かにこちらを振り返っている。
「もう行かなきゃ」
「……ああ」
「鳥居まで、見送ってくれる?」
悠一はうなずき、花嫁の隣に並んだ。
九歳のときと同じように、ふたりで石段の上を歩く。行列がゆっくりと動きだし、青白い提灯の灯が、祠の奥の木立へと吸いこまれていく。
山の奥へ続く、古い鳥居の前で、小春は立ち止まった。
「悠ちゃん」
「うん」
「幸せにね。……ううん、そんなに頑張らなくていいから、ちゃんと休んでね」
「そっちこそ。幸せに」
小春は、あの夏と同じように笑った。
そして、綿帽子を下ろし、鳥居をくぐった。
白い背中が、光る雨のなかに溶けていく。
最後に一度だけ、しゃらん、と鈴が鳴った。
気がつくと、悠一はひとり、古い祠の前に立っていた。
雨は、上がっていた。
五
石段の上から見下ろすと、駿河湾の上に、大きな虹がかかっていた。
片方の端は海に、もう片方は遠い岬の向こうに消えている。雨上がりの海はさっきよりも青く、濡れた瓦屋根がいっせいに光っていた。
祠の前に、何かが落ちていた。
拾い上げると、小さな鈴だった。赤い紐が結んである。振ってみると、しゃらん、と、あの澄んだ音がした。
坂を下りていくと、商店のおばあさんが店先で空を見上げていた。
「あら、あんた。見たかい、さっきの天気雨」
「ええ」
「ハツさんがよく言ってたよ。狐の嫁入りの日には、いいことがあるって」
おばあさんは、悠一の顔を見て、目を細めた。
「なんだか、来たときよりいい顔してるねえ」
家に戻ると、悠一はスマートフォンを手に取った。
会社のメールは開かなかった。代わりに、母の名前を探して、短いメッセージを打った。
《今、ばあちゃんの家にいる。しばらく、こっちでのんびりするよ。》
少し迷ってから、一行だけ付け足した。
《実はちょっと疲れてた。でも、大丈夫になりそう。》
送信して、画面を伏せる。
縁側に座ると、板がぎしりと鳴った。
夕陽が、海をゆっくりと茜色に染めはじめている。
軒先から、雨の名残りがひと粒、頬に落ちた。
それはもう、冷たくなかった。
手のひらの鈴が、風に揺れて、しゃらんと小さく鳴った。
〈了〉
この物語を楽曲です。
狐たちの賑やかな嫁入りから、悠一が「ひとりで全部背負わなくていい」と気づくまでを、温かなJ-POPにしました。
YouTube Music https://music.youtube.com/watch?v=ACDa2gOIWvA&list=OLAK5uy_mOTx0aQwpMpzJQFFA7pe85Plg8jUKHbnE
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
晴れているのに雨が降る「天気雨」。昔の人はそれを「狐の嫁入り」と呼びました。
もし本当に狐たちが嫁入りしているのなら、裏ではきっと、草履を履き違えたり、油揚げをつまみ食いしたり、緊張で土砂降りにしちゃったりしているんじゃないか――そんな想像から、このお話が生まれました。
頑張りすぎると土砂降りに、力を抜きすぎるとただの晴れ。
ちょうどいいのは、きっとその真ん中くらい。無理しなくていいし、ひとりで全部背負わなくてもいいんだと思います。
いつかどこかで天気雨に出会ったら、山の方でどこかの子狐が「大丈夫」の合図を探しているかもしれません。そっと親指を立ててあげてください。
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Yoshhi-Yama




