第二十九話「オルティスの継承者」
エムは驚いた。
珍しいことだった。この数日で、エムが感情を表に出した場面を蒼は数えるほどしか見ていない。炉が話しかけてきたと告げると、彼女は少し沈黙してから言った。
「炉が自ら話しかけた事例は、ヴァルク村の記録の中に一度だけあります」
「どんな場合でしたか」
「炉が、自分の状態に危機を感じたときです。逆転が一定以上進んで、自分では止められないと判断したとき、外部の者に助けを求めた」
「炉には意思があるということですか」
「設計者が意思を持てるよう作ったのかもしれません。ただ」エムが少し考えてから言った。「炉があなたに話しかけたということは、炉があなたを信頼できると判断したということでもある」
蒼はその言葉を聞きながら、地下区画の老人のことを考えた。
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「地下区画にいた老人について、何か知っていますか」と蒼は聞いた。
「七代目のオルティスです」とエムが答えた。「私は一度だけ、遠目に見たことがある」
「七代目」
「名前を継いでいる人物は私の知る限り七人います。代々、炉の解放機構の完成という使命を継いできた人たちです」
「その使命は、本当に解放を望んでいるということですか」
エムが少し間を置いた。「複雑なんです」とやがて言った。「初代のオルティス、百年前の技術者は、解放に反対していた。彼は改修の後にその事実を知って、記録を残した。しかし彼の後を継いだ人物たちの中には、使命の意味を歪めて解釈した者がいた。封印された存在を解放することが、村の歴史を取り戻すことだと信じるようになった人たちが」
「つまり、七代のオルティスの中に、目的が違う者がいる」
「初代は止めようとした。しかし後継者の中に、やり遂げようとした者がいた。七代目が今どちらの考えを持っているかは、わかりません」
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その日の夜、蒼はリーナと王都の夜市を歩いた。
特に目的があったわけではなかった。訓練と調査と情報整理の繰り返しで、頭が少し疲れていたので、歩いて整理したかった。リーナが「どこ行くの」と聞いたから「少し歩こうと思って」と答えたら、何も言わずについてきた。
屋台の灯りが並ぶ通りを歩きながら、蒼は正直に言った。「七代目のオルティスと、話せないかと思っています」
「マルクスがいる場所に戻るの?」
「別のルートから会いに行けないかと。あの老人は、炉の解放を望んでいるのか止めたいのかわからない。でもあれだけの技術を持っている人物が、ただ言われた通りに動いているとは思えない」
「話し合いで解決できると思う?」
「わかりません」と蒼は正直に言った。「ただ、話もせずに敵だと決めるのは、俺には無理です」
リーナが立ち止まって、屋台の菓子を一つ買って、蒼に渡した。「食べて」
「ありがとうございます」
「甘いもの食べると少し楽になる、という話を誰かから聞いたことがある」リーナが歩きながら言った。「あなた、顔に出てないけど疲れてるでしょ」
指摘されてみると、確かに疲れていた。情報量が多すぎて、頭がずっと動き続けていた。菓子を食べながら、少しだけ頭の回転を緩めた。夜市の賑やかさが、久しぶりに耳に入ってきた。
「リーナさんは、怖いと思いますか。今の状況」
「思う」リーナが答えた。「あなたが炉に意識を取り込まれるかもしれないって聞いたとき、かなり怖かった」
「それは俺を心配しての怖さですか」
「そう聞く?」とリーナが少し顔をそらした。「そうに決まってるでしょ」
蒼は前を向いた。胸の奥が温かかった。こういう気持ちを、自分が持てるとは思っていなかった。取り柄のない平凡な人間が、誰かに心配してもらえる。それがこんなにも力になるなんて。




