6、マスターの形見の双眼鏡
通路の真ん中にある階段の手前。さっきまで光を吸い込むように開いていたその口は閉ざされ、会場の異世界のような様相を引き立てている。
人込みから抜け出した僕は、首からぶら下げていた双眼鏡を左手でつかみ持ち上げる。半ば押し付けられるように持たされたこれを、こんなに早く使うことになるとは思わなかった。
ころん、としたフォルムはかわいらしく、きっと男にしては小さめな僕の手にもよく馴染む。まだ新しいそれに傷があるのは、用意周到な先輩の嫌味に腹が立って投げつけたからだ。柴線に似合うと思って選んだんだ、と少し悲しそうにほほ笑むマスターの顔が頭に浮かび罪悪感がよぎる。悔しいが僕の好みもマスターにはバレバレだ。
しゅん、として見せてから指示通り首から下げたら満足そうにうなずいてくれた。きっとかわいい反抗期だということで許してくれたはず、たぶん...。にやにやとむかつく笑顔で見つめてくる先輩は無視してやったっ!
(__役に立ってますよ、マスター)
先ほど見つけた不気味な男をよく監視するため、丁度ドームの反対側、真正面になるように移動してきた。全員星乃ひかりを見ている。それは十分わかっているつもりだが、向かい合うように立っているせいで客席すべての目がこちらを向いているように思えて気分が悪い。気を紛らわそうと再び双眼鏡をのぞき込む。
(…わぁあ!!)
一気に視界が狭まり安心が広がった___。フレーム内の数人しか見えない。まるで、僕の世界がこの狭い空間に閉じ込められたような、見えなかった他人との距離に輪郭が生まれたような、今この時、はっきりと境界の線が引かれたような。
駄目だ、この感覚ハマりそう。きっと今の僕はとても幸せな顔をしているだろう。
どれくらいそうしていただろう。もはや今の僕の僕の頭からは仕事のことなど放り出されている。やめられない手放せない、と倍率をいじりながらフレームを動かす。きっと盗撮犯と似たような顔をしていたに違いない。
なんだかすぐ近くに人の気配を感じる。一度双眼鏡を顔から引きはがすと、不審そうにこちらを見ている警備スタッフと目が合った。ビクゥッっと肩が跳ね上がり、さらに眉を寄せられる。人に見られていたことにも、そのことに気付かなかった僕自身にもすごく驚いた。フードを被りなおし身を縮こませていると、おもむろにこちらに足を向けるスタッフの男の人。
(どうしようどうしようこっちに来るよどうしよう。)
びくびくっ、と言い訳を探すが頭が真っ白で何も考えられない。声をかけられるとたまらないと、床を見つめた視界の中にその人の靴先が入り込んだとほぼ同時。先ほど渡された腕章がおさまった左腕を突き出して見せつける。頼むから何も話してくれるなと威圧を込めて。負けるな僕。気分は紋所を突き付ける家臣様だ。
(......涙目で震えていたからてっきり迷子なのかと思ったら。今日リーダーが話していたのはこの人か____。)
しばらく僕の腕章を見つめたあと、影が動き、そしてつま先が視界から消えていった。きっと僕の威圧にびっくりしたに違いない。フードを被り相手の顔が見えないことをいいことに、憐みの混じった視線で見られていたことなんて気づかない。小さく震える背中が迷子の子供だと思われていたなんて気づけない。勝利を確信した僕は、今度こそ仕事をせねば!と、きりりと表情を引き締めた。
_________
双眼鏡越しに見えるその男は変わらず右手だけを高くつき上げ、挙動不審に視線を泳がせる。正面で見るとよくわかるその動きは、ステージ、周囲のほかにもう一点、下げられたままの手元に向けられていた。下から漏れているわずかな光と、下がった右手の細やかな動き、上げられた左手の中の箱状のものが光を反射しちらちらと輝いていることから考えられること____。
(右手のあれはスマホかな?光っているあれは.........カメラ?)
ほっと息をつき肩の力を抜く。どうやら盗撮をしているようだ。なるほど、道理で殺意を感じなかったわけだ、と一人で納得。ここからはもう僕の仕事じゃない、それだけわかれば十分だ。まあ一応報告だけしておいてあげよう。僕は優しいからね。近くにいる人に注意をしてもらえばいいだろうと胸元にあるマイクを手繰り寄せた。マイクを口元に近づけ指に力を籠める。
「こちら結導です。客席南側、通路付近。撮影してる一般人がいます。注意をお願いします」
『了解。こちらで対応します』
聞こえたとほぼ同時、ドーム反対側の観客席に動きがあった。横並びに連なる座席がそのまま後ろに伸び、正方形に固まる観客たち。そのうち1つのブロックを囲むように、しゃがんで近づいていくスタッフ数人。僕の心をいたずらに揺さぶった撮影くそ野郎は右側の通路近くに座っている。あ、右からスタッフさん声かけた。おー言い返してる。なんかめっちゃ抵抗してるなー。てか全然注意聞かないなあいつ!?
他人事だということでのんびり双眼鏡越しに男の退場シーンをガン見する。
何度注意を受けてもカメラを構え続ける男を中心に騒ぎが広がり、ついにスタッフに引っ張り出されている。めちゃめちゃもがいてるなースタッフさん大変そう。さすがに騒がしすぎたのか睨みを利かせる観客たちも、積極的に抑え込み引きずり満面の笑顔でひかりー!と叫ぶ。さすがオタク様たちの団結力。手と顔の動きが釣り合っていない。マスターがこの場にいたらきっとこういう技術を身につけなさいって言うんだろうなぁ。てかほんとどこにいるんだよあの人。
マスターどこかにいるのかなー、と双眼鏡であたりを見渡す。ほとんど顔の識別も追いつかないスピードで流れていくフレーム内の景色。僕自身も人の違いなんて見分けはついていないけど、感情をメインに拾い上げていくから問題なし。マスターの憎たらしい視線はやっぱり見つからないかーと諦めかけたその時、通り過ぎた一瞬の景色に一気に背筋が凍り付いた。毛穴という毛穴から汗が吹き出し全身にぶわっと鳥肌が広がる。一瞬見えた男の視線に殺意と憎悪が感じられ、僕の警戒度が一気に引きあがる。
「形見って何!?俺まだ死んでないよ!?」




