第17話:微熱の甘露、漆黒の招待状
深い海の底から浮上するように、ステラの意識はゆっくりと覚醒した。 目を開けると、そこは見慣れた領主館の寝室だった。 窓の外はすでに夕闇に包まれ、サイドテーブルのランプが部屋を暖かなオレンジ色に染めている。
「……ん……」
身動ぎしようとして、ステラは自分の右手が誰かに強く、けれど痛くないように握りしめられていることに気づいた。
「……気がついたか」
ベッドの脇の椅子に腰掛け、覗き込んできたのはレオンハルトだった。 いつも整えられている赤髪はくしゃくしゃで、目の下には薄っすらと隈がある。 彼はずっと、こうして手を握って見守っていたのだろうか。
「レオンハルト、様……。私、どれくらい……」
「丸二日だ。……本当に、肝が冷えたぜ」
彼は安堵の息を吐くと、握っていたステラの手を自身の額に押し当てた。 その震えるような吐息が、彼の感じていた恐怖を物語っていた。
「二度とするな。海なんか腐ったっていい。アンタがいなくなるくらいなら、世界中がヘドロに沈んだほうがマシだ」
「……ふふ、領主様にあるまじき暴言ですね」
「うるせえ。俺は本気だ」
レオンハルトはステラの手のひらに、祈るように口付けを落とした。 その唇の熱さと、彼に向けられた真摯な愛に、ステラの心臓が早鐘を打つ。
「目が覚めたか、ステラ嬢」
部屋の扉が開き、アレクシスが入ってきた。彼もまた、心なしかやつれている。 手には湯気の立つ銀の盆を持っていた。
「身体を起こせるか? 特製のスープを作らせた。滋養強壮にいい薬草入りだ」
「アレクシス様……ありがとうございます」
レオンハルトに背中を支えられ、ステラは上半身を起こす。 アレクシスはベッドの縁に腰掛けると、スープをスプーンですくい、ふぅふぅと丁寧に冷ましてから、ステラの口元へと運んだ。
「さあ。……子供扱いするなと怒るかもしれないが、今は甘えてくれ」 「……はい」
口に含むと、優しい出汁の味が染み渡った。 二人の男が、かいがいしく世話を焼いてくれる。 右側には、心配そうに顔を覗き込む太陽のようなレオンハルト。 左側には、静かに食事を運んでくれる月のようなアレクシス。
「俺たち、アンタに惚れ直したよ。……いや、違うな」 レオンハルトが、不意に真面目な顔で呟いた。
「俺たちの命を預けるに足る『女王』を見つけた気分だ」
「ああ。君は守られるだけの姫ではない。……だが、同時に儚いひとりの女性だ」 アレクシスがスプーンを置き、空いている左手でステラの頬を撫でた。
「頼むから、我々の目の届く場所にいてくれ。君が傷つく姿を見るのは、もう耐えられない」
二人の瞳に宿る、深く重い熱情。 それは単なる好意を超えた、生涯を共にするパートナーへの「執着」に近い愛だった。
(……私、幸せものね)
ステラは二人の手を取り、弱々しくも微笑んだ。
「ごめんなさい。でも……ありがとう。貴方達がいてくれてよかった」
部屋に満ちる、甘く穏やかな空気。 このまま時間が止まればいいのに。そう願いたくなるほど平和な一幕。
――コン、コン。
不意に、バルコニーのガラス戸が乾いた音を立てた。 風ではない。何かが、硬い嘴で叩いた音だ。
三人の視線が一斉に窓へ向く。 そこにいたのは、闇夜よりも黒い、一羽の鳥だった。 その足には、銀色の封蝋がされた手紙が結ばれている。
「……使い魔か」 レオンハルトの声から、先程までの甘い色が消え失せた。
アレクシスが剣に手をかけながら窓を開ける。 黒い鳥は逃げることもなく、アレクシスの目の前に手紙を落とすと、不気味な鳴き声を残して夜空へと溶けていった。
拾い上げた手紙。 封蝋に押されていたのは、ノワール家の紋章――「絡みつく茨」。
「シルヴァリオからだ」
アレクシスが開封し、中身を広げる。 そこには、流麗な筆記体で、たった数行だけが記されていた。
『親愛なる“元”聖女、並びに泥棒猫の諸君へ』
アレクシスが読み上げると同時に、手紙がぼうっと赤く発光した。 文字が浮かび上がり、あの甘く冷酷な声が、直接脳内に響き渡る。
『――港での奇跡、拝見しましたよ。素晴らしい。やはり貴女こそが、私の求めた「鍵」だ』
シルヴァリオの声は、怒ってはいなかった。 むしろ、自分の正しさが証明されたことを喜ぶかのような、歪んだ歓喜に満ちていた。
『単刀直入に言いましょう。……戻っていらっしゃい』
『一週間後の満月の夜。王宮にて「聖誕祭」の儀式を執り行います。 崩れかけた「核」を完全に修復し、この国を永遠の繁栄へと導くための儀式です』
『主役はもちろん、ステラ。貴女です』
『もし来なければ……分かっていますね? 私が支えている結界を解きます。そうすれば、あの港で見せた程度の汚染では済まない。 王都を中心に、国全土が腐敗の海に沈むでしょう』
『世界を救う聖女となるか、世界を見捨てる罪人となるか。 ……賢明な貴女なら、正しい選択ができると信じていますよ』
フッ、と手紙が青い炎に包まれ、燃え尽きた。 後に残ったのは、灰と、重苦しい沈黙だけ。
「……あの野郎、人質を取りやがった」 レオンハルトがギリリと拳を握りしめた。 人質とは、特定の誰かではない。「この国に生きる全ての人々」だ。
「自分ではもう『核』を制御しきれないことを認めつつ、それを脅迫の材料にするとは……。なりふり構わなくなってきたな」 アレクシスも苦々しく吐き捨てる。
王都へ戻れば、待ち受けているのは罠だ。 より強固な鳥籠と、自由を奪う鎖が用意されているに違いない。 だが、行かなければ世界が終わる。
ステラは、ベッドのシーツを強く握りしめた。 震えそうになる体を、意志の力で抑え込む。
(……逃げられない。いいえ、逃げるつもりはないわ)
彼女は顔を上げた。 その瞳に、迷いはなかった。
「行きましょう、王都へ」
二人の男が、弾かれたようにステラを見る。
「ステラ、本気か? 奴の思う壺だぞ」
「分かっています。でも、これは招待状ではなく、挑戦状です」
ステラは、自分を支えてくれる二人の男の手を、今度は自分から握り返した。
「私一人では行かせないと言いましたよね? ……連れて行ってください。あの傲慢な王様を玉座から引きずり下ろしに」
レオンハルトが、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。 アレクシスが、静かに頷き、その瞳に決意の光を宿した。
「ああ、上等だ。俺たちの聖女様がそう言うなら、地獄の底だろうがお供するぜ」
「我々の剣と魔法、そして君の鍵。全てをぶつけて、このふざけた運命を終わらせよう」
最終決戦の舞台は整った。 場所は王宮。 期限は一週間後の満月。
三人は動き出す。 世界を救うため、そして何より、自分たちの未来をその手で掴み取るために。




