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第16話:黒き潮、白き祈り

 海洋都市アクアでの生活は、ステラにとって目が回るほど忙しく、そして充実した日々だった。


「違う、ステラ嬢。イメージが散漫だ。もっと『鍵穴』の形状を明確に想像してくれ」 「うう……こう、ですか?」


 領主館の裏手にある岩場。  波しぶきが舞う中、ステラはアレクシスの指導の下、魔力制御の訓練に励んでいた。


 彼女の「鍵」の力は強力だが、使い方が分からなければ暴発する火薬庫と同じだ。  かつて王家の魔術指南を受けていたアレクシスは、厳しくも的確な教師だった。


「そうだ。その感覚を維持して、魔力を糸のように細く……」  アレクシスがステラの背後に立ち、彼女の腕を支えて姿勢を直す。  その顔が近い。  真剣な眼差しで見つめられると、ステラは訓練とは別の意味で心臓が跳ねそうになる。


「おいおい先生、詰め込みすぎじゃねえか? ステラが酸欠で倒れちまうぞ」


 岩の上に座って見学していたレオンハルトが、呆れたように声をかけた。  彼は手にした革袋(水筒)を投げ渡してくる。


「ほら、休憩だ。冷えたレモン水、美味いぞ」


「あ、ありがとうございます……!」


 ステラが受け取ろうとすると、レオンハルトがひょいと岩から飛び降り、自然な動作で彼女の額に浮かんだ汗を指で拭った。


「無理すんなよ。戦う時は俺が前に出るんだから、アンタは俺の後ろでデンと構えてりゃいいんだ」


「……過保護ですよ、レオンハルト様」


「過保護で結構。大事な女に傷がついたら、俺が寝覚め悪いからな」


 彼はニカッと笑う。その笑顔は南国の太陽のように眩しく、アレクシスの静かな知性とはまた違う魅力でステラを翻弄する。


(……本当に、心臓に悪いわ)


 二人の極上な男たちに守られ、教えられ、愛される日々。  王宮での鳥籠生活とは違う、信頼に基づいた温かな関係。  だが、そんな穏やかな時間は、唐突な鐘の音によって破られた。


 カンカンカンカンッ!!


 港の方角から響く、けたたましい早鐘。  敵襲や災害を知らせる警鐘だ。


「……なんだ?」  レオンハルトの瞳から、瞬時にふざけた色が消えた。  彼は領主の顔になり、海の方角を睨みつける。


「ただ事ではないな。空の色が……おかしい」  アレクシスが呻くように言った。    見れば、水平線の一部が、まるでインクを流したようにドス黒く濁り始めていた。  美しい紺碧の海が、急速に「死の色」に侵食されていく。


「行くぞ!」  三人は顔を見合わせ、港へと駆け出した。


 ***


 港はパニックに陥っていた。  漁から戻ってきた船団が、次々と桟橋に逃げ帰ってくる。


「おい、どうした! 何があった!」  レオンハルトが漁師の一人を捕まえて怒鳴る。


「お、お頭! 海が……海が腐っちまった!」  漁師は顔面蒼白で震えていた。


「網にかかった魚が、全部ドロドロの化け物に変わってやがったんだ! それに、海の水に触れた奴が火傷みてぇにただれちまって……!」


「……腐敗、か」  追いついてきたアレクシスが、海面を覗き込んで息を呑んだ。


 港湾内の海水が、黒いタールのような粘液に変質している。  そこから立ち上る瘴気は、王宮の地下で嗅いだあの「核の淀み」と同じ臭いがした。


「シルヴァリオの野郎……王都だけじゃ飽き足らず、俺の海まで汚す気か!」  レオンハルトがギリリと歯を噛み締める。


 これはシルヴァリオによる直接攻撃ではないかもしれない。  だが、彼が王都で核を独占し、循環を止めている歪みが、地脈レイラインを通じて海へと溢れ出したのだ。  いわば、世界の壊死えしが始まったのだ。


「ギャアアアッ!」


 悲鳴が上がった。  黒い海面から、ヘドロを纏った異形の魔物――かつては魚だったものが変異した姿――が這い上がり、逃げ遅れた子供に襲いかかろうとしていた。


「させるかよッ!」  レオンハルトが疾風のように駆ける。  大剣一閃。魔物は真っ二つに裂かれ、黒い飛沫となって散った。


「皆、下がれ! 海に近づくんじゃねえ!」  彼は仁王立ちになり、民衆を守る防波堤となる。  だが、海面からは次々と新たな魔物が這い上がってくる。キリがない。


「くそっ、これじゃジリ貧だ! 海そのものをどうにかしねえと!」


「だが、これほどの広範囲の汚染を浄化するなど、宮廷魔術師団総出でも不可能だ!」  アレクシスも剣を抜き加勢するが、その表情には焦りが見える。


 絶望的な状況。  世界が腐り落ちていくのを、ただ見ていることしかできないのか。


(……いいえ)


 ステラは一歩、前へ出た。  震える足で、黒く染まった桟橋へと歩み寄る。


「ステラ!? 馬鹿、下がるんだ!」 「ステラ嬢!」


 二人の制止を振り切り、ステラは汚染された海の目の前に立った。  怖い。あの黒い水に触れれば、私も溶けてしまうかもしれない。  けれど、このままレオンハルトの大切な海が、人々の生活が奪われるのを黙って見ていられない。


(思い出して。アレクシスに教わったイメージ。レオンハルトがくれた安心感)


 私は「鍵」。  閉ざされた流れを開き、あるべき姿に戻すための器。


 ステラは両手を広げ、黒い海に向かって意識を集中させた。  治すのは、魚一匹ではない。  この湾一帯の、狂ってしまった魔力の海流そのもの。


「……お願い。元の綺麗な青に、戻って」


 彼女の身体が、眩い純白の光に包まれた。  それは太陽よりも強く、月よりも優しく、港全体を照らし出す。


『――浄化クリア奔流フロウ


 ステラの掌から放たれた光の波紋が、黒い海面を疾走した。  光が触れた端から、タールのような汚れが瞬時に分解され、透明な海水へと還元されていく。  異形の魔物たちも、断末魔を上げることもなく光に溶け、ただの水泡となって消えた。


「……嘘だろ」 「海が……戻っていく……」


 人々が呆然と見守る中、黒き潮は退き、本来の美しい紺碧の海が戻ってきた。  圧倒的な奇跡。神の御業そのもの。


 だが、その代償は大きかった。  全魔力を一瞬で放出したステラは、視界が暗転するのを感じた。


(あ、やりすぎちゃった……かも)


 糸が切れた人形のように、彼女の身体が崩れ落ちる。  冷たい石畳に叩きつけられる――その前に。


「――っ、ステラ!」


 二つの影が同時に駆け寄った。  右からレオンハルトが、左からアレクシスが。  二人は同時にステラの身体を支え、抱き止めた。


「無茶しやがって……! この大馬鹿野郎が!」  レオンハルトの声が震えている。怒っているのではない。恐怖していたのだ。彼女を失うことを。


「……君という人は。どこまで我々の想像を超えれば気が済むんだ」  アレクシスの腕もまた、強くステラを抱きしめていた。


 薄れゆく意識の中で、ステラは二人の温もりを感じながら、安堵の息を漏らした。


「……守れました、よね? 貴方達の、大切な場所……」


 そう言い残して、彼女は深い眠りへと落ちていった。    その奇跡の一部始終を、遠く離れた上空から見つめる「使い魔(黒い鳥)」がいることにも気づかずに。

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