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序章:天蓋の光、三つの色

 世界が反転する感覚とは、こういうものなのだろうか。


 私の意識は、泥水に落とした絵の具のように白濁した光の中へ溶け出し、そして急速に再構築されていった。 悲鳴を上げる間もなかった。身体の奥底から何かが書き換えられていく。 細胞の一つ一つが、未知の法則によって組み直される不快感と高揚感。


 それと同時に、頭の中へ奔流のような「情報」が流れ込んでくる。


(――ここは王都アルカディア)


(――私は「聖女」。この国の淀みを祓うもの)


(――いいえ、違う。私は『鍵』。世界を封じる楔を解くための、唯一の器)


 言語、文化、歴史、そして私自身に課せられた役割。 まるで最初から知っていたかのように、それらは私の記憶の引き出しに整然と収まった。


 光が弾ける。 浮遊感が消え、硬い石畳の感触が足裏に伝わった。


「おお……なんと神々しい」


「召喚の儀は成功したのだ!」


 ざわめきが波のように押し寄せてくる。 ゆっくりと目を開けると、そこはテレビの中でしか見たことがないような、絢爛豪華な大広間だった。 高い天井には宗教画のようなフレスコ画。煌めくシャンデリア。 そして、私を取り囲むようにして立ち並ぶ、煌びやかな衣装を纏った大勢の人々。


 私は自分が立っている場所が、床に描かれた巨大な幾何学模様――魔法陣の中心であることを理解した。 そして、視線を下ろし、自分の手を見る。 白く、滑らかで、見たこともないほど美しい指先。 着ているのは簡素な部屋着ではなく、豪奢な白絹のドレス。 鏡を見なくてもわかった。今の私は、かつての「私」ではない。この世界に合わせて設えられた、完璧な美貌を持つ「聖女」なのだと。


(……なんて、現実感がないの)


 けれど、私の思考は冷えている。 与えられた知識が、混乱する感情を強制的に理性で抑え込んでいるのかもしれない。


「ようこそ、異界の姫君」


 耳に心地よい、鈴を転がすような美声が響いた。 正面に立っていた人物が、優雅な動作で歩み寄ってくる。


 銀の髪に、赤い瞳。 この世の美しさをすべて凝縮したような、息を呑むほど美しい青年だった。 仕立ての良い白と黒の礼服をまとい、その立ち居振る舞いには、生まれついての支配者だけが持つ余裕が漂っている。


(シルヴァリオ・ノワール……)


 頭の中の知識が、彼の名前を告げた。 高位貴族ノワール家の当主にして、この国の実権を握る宰相。 そして、私をこの世界に喚び出した張本人。


 彼は私の手前で立ち止まると、芝居がかった仕草で恭しく一礼した。


「成功を確信してはおりましたが、これほど美しい方が降臨されるとは。我がノワール家の悲願、そして王国の繁栄のため、貴女のような『聖女』を迎えられたことを、心より感謝いたします」


 彼の赤い瞳が細められ、私をねめつける。 その瞳には、慈愛のような色が浮かんでいるけれど――私は直感的に悟ってしまった。


(嘘つき)


 笑っているのに、彼の瞳の奥は氷のように冷たい。 彼は私を「人」として見ているのではない。彼の一族の繁栄を盤石にするための、極上の「装飾品」を手に入れたと喜んでいるのだ。


「さあ、こちらへ。聖女様」


 差し出された手。 拒否権などないことは明白だった。 周りの貴族たちは、彼の権威に酔いしれるように拍手を送っている。


 その群衆の中に、異質な空気を纏う二人の男がいることに、私は気づいた。


 一人は、群衆の一歩後ろに控える黒髪の青年。 深い藍色の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、そして悲痛なほどに静かだ。 アレクシス・ヴァイス。 かつての王家の血筋。今は没落し、シルヴァリオの陰に隠れるように生きている騎士。 彼は拍手をすることもなく、ただじっと私を見つめていた。その瞳に宿るのは、激しい怒りと……使命感?


(彼は、何かを知っている)


 そして、もう一人。 私の視線が吸い寄せられるよりも早く、その男は動いた。


「おいおい、待てよシルヴァリオ!」


 朗らかな、しかし広間の空気を一瞬で塗り替えるような力強い声。 割って入ってきたのは、燃えるような赤髪の男だった。 鍛え上げられた長身に、華やかな正装を着崩した姿。 太陽のような明るさと、有無を言わせぬ威圧感。


 レオンハルト・アクア。 海洋都市を統べる領主。中央の支配を受けない、海のアウトロー。


 彼はシルヴァリオと私の間に強引に割り込むと、ニカッと白い歯を見せて笑った。 まるで獲物を見つけた猛獣のような、獰猛で魅力的な笑みだ。


「国の繁栄のための聖女? お堅い御託は聞き飽きたぜ」


 レオンハルトは、呆気にとられる私を真っ直ぐに見据えた。 その瞳は情熱的で、隠し事など何一つできないほどに透き通った赤色をしている。


「俺は運命ってやつを信じちゃいなかったが……撤回する。あんた、俺の女になるためにここに来たんだろ?」


「は……?」


 思わず、淑女らしからぬ声が漏れた。 シルヴァリオの仮面のような笑顔が、ピクリと引きつるのが見えた。


「戯言は慎んでいただきたいですね、レオンハルト殿。彼女は国賓だ」 「堅いこと言うなよ。一目惚れなんだよ、俺の」


 火花が散るような男たちの視線の交錯。 そして、遠巻きにそれを冷ややかに見つめるアレクシス。


 私は、差し出されたシルヴァリオの手と、目の前で仁王立ちするレオンハルトを交互に見比べ、小さく溜息をついた。


(状況は最悪。……でも、泣いて助けを乞うなんて柄じゃないわ)


 私は背筋を伸ばし、与えられた「聖女」としての仮面を被る。 聖女らしく、しかし、ただ守られるだけの姫君ではないと示すように。


「……皆様、熱烈な歓迎をありがとうございます。ですが、少し目眩がいたしますわ」


 私は優雅に微笑んでみせた。 この「鍵」は、そう安安と誰かの手には落ちないのだと、彼らに教えてあげなくては。

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