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第一 秋のまち商家の前の戸をはさみ、羽織る衣は赤にぬれつつ

本来であれば分割した方が良いと思いますが、正直一話でいいんじゃねとも思います。

 まず、井伊弧(いいこ)芯入(しんい)はいい子である。

 要領がいいと褒められたものではないが、物覚えはよく、聞きなおすことはしないし、わかったふりもせずにしっかりと覚えているほどに、井伊弧芯入はいい子であった。

 あったというのは過去形という訳ではなく、根が真面目で物覚えがよく人よりも優しさを持ち、誰かを慈しむ心をもった人間が変わらず健やかに育てば、いい子であろう。

 けれど、井伊弧芯入はいい子ではあったが、良い子ではないのである。

 言葉遊びなどではなく、主観的に見てでもなく、客観的評価の話だ。

 前提として、井伊弧芯入は物覚えが良い、それは比較的にではなく恐らく人類の中でも恐らく屈指に、しかし前述のとおり井伊弧芯入は要領が悪かった。

 幾ら情報の収集能力に長けていても、肝心のネットワークがダイアルアップ接続の如く低速であれば、描画にも結果を示すのにも時間がかかる。

 井伊弧芯入は、それほどまでに愚鈍であったわけではないが、いわば並外れたRAMを搭載し、桁外れのSSDあるいはHDDを保有したうえで、3世代は前であろうCPU処理速度で稼働を強いられただ。

 要は膨大で莫大なインプットに対し、アウトプットは通常だったというだけのこと。

 しかし、それだけのインプット能力があるがゆえに、井伊弧芯入という子は物覚えがよく聞き分けの良い【いい子】であると同時に、インプット能力に対してアウトプットの能力。

 言うなれば寄せられる期待に対し、期待外れで平凡だという評価こそが正しく、ゆえに井伊弧芯入を【良い子】であるとは評せない。

 しかし、こうも悪くいうが井伊弧芯入は、自分自身に絶望している訳ではない。

 確かに平平凡凡という、物覚え以外の全てにおいて、彼のためにあるといっても過言ではないこんな棘のある言葉が、彼を苛むことがあっても、ここでも前述のとおりの話である。

 彼は普通に真面目で、普通に人並に優しく平等さを持ち、普通に誰もを公平に慈しむことのできる、物覚えの良さ以外は普通の人間である。

 そんな人間は、普通に社会で生きていれば、多少の不平不満があれど不幸のどん底であるなど、当然あり得ないのであった。


   ◇


 日本という国の評価として、四季折々で美しいとは言う評価がある。

 しかし、昨今の常識外の酷暑が毎年のように連なった結果、今や日本という国において四季折々などという言葉は存在せず、三季折々が精々の今日。

 気温とは裏腹に、木々の葉は次々と色を明るくし、市街地の街路樹たちは夜の明かりに照らされ、幻想的さすら感じさせている。

「うーん、お腹空いたなぁ……帰って何を作ろうかな」

 腹をさすり、たまにすれ違う家族連れやカップルを後目に、男はどうしたものかと呟く。

「今の時間帯は手数料取られるしなぁ、かといって冷蔵庫に何か残っている訳でも」

 うじうじ悩む時間があるなら、今しがた通りがかった普段利用している銀行でも、あるいはコンビニでも行きネットバンク経由で引き落としすればよい。

 結局のところ発生するのは、ごく僅かのマイナス。

 悩む時間が(かさ)み、結局無駄で無意味な時間になるのなら、そのマイナスを受け入れるべき。

「頭では理解しているんだけどなぁ、でも背に腹は代えられない、というか眠れない……」

 残った仕事を片付けて、誰もいない社内のカギを閉じれば、気づけば既に宵のうち。

 昼食から、飲まず食わずの約10時間。

 暦上は秋となり、紅葉(こうよう)が始まって四季折々の趣を、残暑を感じさせる肌ではなく、移ろいゆく色々を目で感じることしかできぬ、言葉だけ取り残された失いかけの秋を前。

「食欲の秋、確かに腹は減るけど、多分こういうことじゃないんだろうなぁ」

 今や縁遠く、否、緑が遠くなってしまった秋に思いを馳せ、男はしみじみと来た道を戻る。

「まぁたった110円、別に金欠ってわけじゃなし」

 されど110円、などと反芻(はんすう)する雑念に言い訳を唱え、バックからキャッシュカードを抜きだしATMを利用する。

「まぁとりあえず2万くらい、いや支払いあるし3万の方がいいかな?」

 考え、考え抜いた結果の3万円、支払いが近い期日にあるということを考えれば、この110円は安いものかと、どこか心で得心がいった。

 その直後の出来事。

「わ、わ、ちょっと待って…スマホ、スマホ」

 丁度8年前に流行った曲が鳴り響き、着信音に使用するには少々子供すぎると思いつつも、何度も覚える気恥ずかしさがあろうと、家に帰れば忘れる自分の適当さに辟易しつつ、そんなことはどうでもいいことで男は着信に対応する。

「はいもしもし、井伊(いい)()です。はい、あぁ落とし主が見つかったんですね、よかったです」

 今朝方の話だが、明らかに年季の入った財布を駅で拾い、そして届けた。

 特別、感謝が欲しいだとか、年季が入ろうとも、買取額アップの広告で見た高級な財布と同じブランドだから1割の謝礼だとか、そういったあさましい感情があった訳ではなく。

 相手にとって、井伊弧(いいこ)芯入(しんい)が取った行動が、感謝に値するのであれば嬉しいと思った。

 ただそれだけ、本当にそれだけの理由で一応名前を残した。

「はぁ、今から……、あぁいや、別に大丈夫ですよ?逆に大丈夫なのでしょうか?少しお相手を待たせる形に、……そうですか、はい。えっと向かうのは、はい、インフォメーションセンターですね今から向かいます」

 ポン、ポンと子気味よい単音を奏で、おおよその感覚でタッチパネルを操作する。

 ここから駅というと、徒歩7分を切るくらいだっただろう。相手方は時刻を気にしないと申してくれたが、とはいえど既に時刻は宵のうち。

 早いに越したことはなく、気にしないからと言って待たせていい訳ではない。

「おっと、お金を忘れないように……」

 そう、お金を忘れずにだ。下ろした金額を、この目で確認しなければ、次回記帳した際に、あり得ないと理解していても乗っ取りを疑ってしまう。

「ッ…………」

 声が出ない、言葉を失った。

 しばしの絶句と、それらに付随する感情の逡巡を繰り返し、そして表に現れる感情は後悔ただ一つ、井伊弧芯入という男は本当に学ばない男だという(あざけ)り。

「押し間違えてるじゃん」

 手にし目の前に持っていき、眼前に広がるのは、驚くことなかれ諭吉さんと渋沢さんが混ざり30枚と、北里さんが8枚の合計38枚の札束。一度に下ろす金額としてはあまりに高額で、110円の手数料の付加価値で悩んでいたことが馬鹿らしくなる。

「流石に預けるしかないけどさ、あーあ、やっぱりダメな奴だなー俺って」

 あっちを気にかければ、こっちが立たず、こっちを思えば、そっちが出てくる。

 手数料に憂い、納得の言い訳を残し、電話を優先し、時刻を気に留めた結果。

 手間が増え、納得のいく言い訳は用意できず、電車の音でより相手を意識し、時間こそが今この状況で一番に憂うべきものだと理解した上で、ATMの再利用と入金による二度手間が発生し時間を無駄にする。

「今日怒られたのも納得、要領よく生きたいなぁ、本当に」

 そして慌ただしく井伊弧芯入は、夜間のだれもいない銀行を後にする。慌てふためき、ATMの横に置き忘れたスマートフォンを残しながら。


 それはもう久方ぶりの疾走だ、大学を卒業して早6年とちょっと経ち、運動らしい運動も、遅刻らしい遅刻もしてこなかった井伊弧芯入にとって久方ぶりのジョギング。

 待たせる理由はない、けれども同時に急ぐ理由もない。しかし、時間を無駄に浪費し、ボーっと待っていれば空腹でお腹が鳴る状況、正直なことを言うと今朝の自分を少し恨んだ。

「やばっ……はぁ…息ができない、……ふぅ、運動不足極まれりだ」

 駅に到着するや否や、井伊弧芯入は肩で息をするように浅い呼吸と、肩の上下運動を繰り返すこと数十秒、結局のところ徒歩7分のところ走ることで5分での到着を達成した。

 遅れた1分、乱れた呼吸を直すのにかかる1分、詰まる所プラスマイナスゼロ。

 ただ疲労がたまっただけ、年甲斐もなくはしゃいだだけ、そのはずなのだが長らくやってこなかった体を動かすという行為が、思いのほか気持ちよかったのは確か。

 この時間では、人もまばらな駅構内に入り、目的地まではなんの障害もなく辿り着く。

「すいません、井伊弧です。誰か居ますかー」

 待ち合わせという訳ではなく『呼ばれた』からこそ、来たという建前ではあるのだが、だからといって私が井伊弧(いいこ)芯入(しんい)です、さぁどうぞ、なんて話しかけられるのを待つのは、鳥肌が立つというもの。

「あれ?全然反応ないな、もしかして壮大ないたずらとかどっきりの可能性が?」

 自分はとてつもない勘違い野郎なのではないか、そんなことが脳裏に過り、恥ずかしさと頭を抱えそうになった時のことだ。

「あの!井伊弧さんでしょうか?」

 不意に背後から声を掛けられ、頭を掴みかけた手を振り払い、井伊弧芯入は振り返る。

 若い女性だ、というかよく一緒の電車に乗る女性がそこに居た。

 肩甲骨ほどまでに伸ばしたおさげ、丁寧に手入れしているであろう茶髪の髪、美人が多いと呼ばれる地域だが、これほど顔が整っていれば自然と目を惹かれ覚えている人もいるだろう、そう確信できるほどには整った顔立ちの女性がそこに居る。

「そうですね、井伊弧です。えっと……貴女が?」

「はい、この度は私の財布を拾っていただき、本当にありがとうございました」

 目尻に溜まる涙混じりの笑顔で、彼女は深く頭を下げた。

 けれど、その姿には少したじろいでしまう。だって、そんな大層なことをしていないのだ。ブランドの目利きはできないが、あそこまで年季が入っていれば価値はないだろうし、中身はさておき財布そのものはこの国であれば戻ってくるだろう。

「ところで井伊弧さんはもう、夕食はお済でしょうか?」

「え?あぁいや、恥ずかしながら今しがたの会社の業務を終えたばかりなので…」

「そうなんですか?大変なお仕事をなさっているんですね、よろしければ私に夕食をご馳走させていただけはないでしょうか?」

 魅力的な提案だ、今の空腹状態ならご馳走が仮にハンバーガーチェーン店でも、喜ぶ自信がある。

「え、いいんですか?ありがとうございます」

 だからこそ、その言葉を額面通りに受け取った、相手側とすれば真に受けるな、厚かましいなと思われているかもしれないし、そのために財布をなんて思われても構わない。

「あ、ごめんなさい、ちょっとお腹が空いてて真に受けました……社交辞令ですよね?」

 どう思われようと構わないが、ふと冷静になり社交辞令なのではないかとも考える。

 引きつった顔で、なんとか笑顔の体裁を保っていたらさてどうしようか、そんな猜疑(さいぎ)心を抱きつつも顔をあげると、彼女ははにかんだ笑顔で「違いますよ」と微笑みかけていた。

 彼女がタクシーを拾うために手をあげ、気づけば流れに押されるように乗車して、今は窓から夜の街並みを眺めている。

「何か見えますか?」

 こちらが何を見ているのか、彼女は覗き込むように身を乗り出し同じく窓を眺める。

「いや、今通ったマンションの3階……左から9番目ですね、リフォームしてるんだなって」

 穢れを知らないというか、人たらしというべきか、身の程を弁えない勘違いというものは、こうした相手の善意から生み出されるのだろうと実感しつつ、シャツ越しに一瞬見えた下着のようなものから、目を離すように井伊弧芯入は今一度外へと意識を移す。

「今の一瞬でよく見えましたね、全然気づきませんでした」

「すいません、気持ち悪いですよね。昔から些細な変化を目で追っちゃうというか」

「いえ!素晴らしいことだと思います、だってそれは誰よりも周りを見れているということじゃないですか」

「そう……ですかね」

「そうですよ」

 再び彼女は、はにかんだ眩しい笑顔をこちらに向ける。その笑顔はとても眩しくて、とても直視できたものではなく、体が火照るような感覚に陥っていく。

 多分それは、人生で初めての出来事だったからだ。この習性ともいえる、悪意も悪気もなく繰り返し続けるこれを、形だけでも誰かに肯定してもらったのが初めてだったから。

 感傷に耽っていると、ほどなくしてタクシーはウィンカーを立てながら路肩に停止する。

「えっと、払いますよ?このくらいなら」

「いえいえ、――どうか私に払わせてください。それが礼であり、それすら果たせぬようでは、私の面目が立ちません」

 気迫すら感じさせる、その立ち居振る舞いを前にしては、出しかけた財布を仕舞う他なく、彼女の面目を立てるべく井伊弧芯入の甲斐性は、そこらへんのどぶにでも捨てておこう。

 タクシーから降り、薄暗い路地裏に誘われるように進むと、右手には街の景観の中でも異彩を放つ、格式高い旅亭あるいは旅館のようなものが見える。

 一言さんお断り、そのような(のぼり)を立てようと文句のつけようもないその和風の店先に、彼女は当たり前のように足を踏み入れる。

「どうかされましたか?……すいません、和食は苦手だったでしょうか?私としたことが、失念しておりました……今からでも別の場所」

「いや、大丈夫です……ただ自分とはあまりに縁遠い場所だったので、あのドレスコードとか大丈夫ですかね?」

 失念というなら自分の方だ、そう思い至りこういうお店の規則という物、それら一つ一つ羅列していき、最初にあたる懸念点こそがそれだった。

 その疑問が、彼女にとってはあまりに突拍子もない疑問だったのか、クスクスと口元を抑えながら「大丈夫ですよ」と、またあのはにかんだ笑顔で答える。

 彼女はまるで何も知らぬ赤子へ、作法を教えるように井伊弧(いいこ)芯入(しんい)の手を取るのだった。


 この場に慣れるまでに十数分もの間、心臓が跳ね続け、食事を待つのに数分の時が過ぎ、乾いた唇が潤いを戻すのにはまた更に時間を要した。

「井伊弧さんはあの会社にお勤めになられているのですね、存じております。しかし大変ですね、この時間まで残業だったというのは」

「まぁ俺……えと私?の要領が悪いだけなので、今日も上司には釘を刺され、その後始末というか……」

「大丈夫ですよ、普段通りで。ここにはそれを気にする人はいません」

 慈愛に満ちた表情で、彼女はそういうがこんなところに入れる時点で、彼女は自分とは文字通りに住んでいる場所が違うはずで、その前提がある以上それを気にするなというのは、若干無理がある。

「そういえば、今日拾った財布って」

 だからなるべく一人称を使わない、そうするべく話題を振ってみた。

「あぁこちらですか、これは亡き母の形見なんです、中に入った金銭もカードもそれら全てを失っても構いません、ですがこの財布と……これですね、この写真が無事だった。その事実がとても嬉しくて」

 入園式と書いているのだろうか、少しヨレ決して綺麗とは言えぬ写真には、今とは違う気丈に振舞う彼女の幼き姿が映る。

「すいません、場が重くなってしまいましたね」

「あぁいや、すいません。こちらの方こそ」

 やばい、やばいと重くなった空気で必死に息をする。初対面の人間が踏むべきではない地雷を踏み、顔以外の全身から脂汗が止まらない。

「あ、えっと、そうだちょっと待ってくださいね。……これ見てください、僕実はオッドアイなんですよ、しかも赤い目なのでちょっと珍しいというか」

「まぁ本当ですね……、えっと近くで見ても?」

「どうぞどうぞ」

 普段はカラーコンタクトで隠してはいるが、幼少期の事故により片目の色が落ちた。後天性虹彩異色症というやつで、運がいいのか片目だけそうなっているのだ。

 懐かしい子供の頃はこれでイジメに遭った、すぐに終わったけれど。

「本当に赤い……綺麗ですね。まるでルビーのよう」

 まただ、また彼女は、井伊弧芯入が厭になる自分を肯定する。

 胸の高鳴りと、熱を持つ頬、こんな初めての経験が井伊弧芯入を襲うのだ。

「これは井伊弧さんのお母様やお父様の遺伝……ということになるのでしょうか?」

「えっと両親は事故で、この目も事故の影響なんですよねー」

 心臓の音が、上昇する熱が正常な判断を奪っていくのか、今この場で話すべきではないことが、口からあふれ出た水のように零れてしまった。

 止めようにも塞き止める器はもうなく、あふれ出る水を必死に手で掬うしか方法がなく、もうこれ以上は水が注がれることがないように、自身の軽はずみな口を塞ぐ。

「その、ごめんなさい。流れで……」

「いえ、こちらこそ」

 だからこうなってしまう、絶妙ではなく微妙で重苦しい空気に変わってしまう。

 要領が悪いというのはこのことだ、だからこそ当たり前のことは当たり前にこなせるよう、要領よく生きたいと思うのだ。

 気まずい時間がどれほど過ぎたであろうか、生涯ありつけないであろう豪勢な食事の味は覚えていないし、以降に紡いだ世間話の内容も朧げだ。

 重くなってしまった空気は、この二人の間では改善する兆しを感じることはできず、料亭を後にしてからは、彼女の父が寄こすという迎えが来るまでのエスコートといったところ。

「井伊弧さん、本日はおもてなしもできぬどころか、お気を遣わせてしまい、誠に申し訳ございませんでした」

「えっ?いやいや、そんなこと仰らないでください、俺は本当に財布を拾っただけで」

「ですが、私にとってこの御恩は……。…いえ、これ以上は過剰な義理立てですね」

 巡り巡った恩の礼だ、そう言われること自体は別に迷惑という訳ではない。

 歯がゆくとも感謝されるというのは、嬉しいことに変わりないし、けれど彼女にとっては重大なことでも、こんな些細な恩に縛られてほしくないと思うのは、変なことだろうか。

「あの、井伊弧さん。一つだけお願いをしてもいいでしょうか」

 少し上ずった声で、彼女は口を開く。

 一瞬の緊張を走り、彼女を中心に映す井伊弧芯入の視界から背筋にかけ、冷や汗と似た違和感と共に、身の毛がよだつような何かが訪れる。

 けれども暦は、秋の夜。料亭に入るまで感じていた残暑は、時刻が日を跨いだお陰か涼しさを感じさせるそよ風が吹いて、心地が良い。

「井伊弧さんが良ければでいいんです、よければ連絡先を交換してはいただけませんか?」

 別にその程度のことならと、カバンに手を入れ中身を弄る。

「あ、あれ?」

「……?…えっと、どうかなされましたか?」

 どこに置き忘れていただろうか、ふと電話があった宵のうち以降の記憶を遡る。

 あぁ銀行だと、すぐに合点がいく。けれど、たかだかスマホがないということがあのような悪寒と違和感を抱かせるか。

 答えは単純で、そんなことはあり得ない。少なくても井伊弧芯入はそう結論を下す。

 しかし、その結論に辿り着くまで、あまりに時間を要してしまった。違和感を抱いてから、こうも確信へと至る材料はあったというのに、そこにたどり着けなかったのか。けれど、動かなくてもいい理由にはならない。携帯銀行要領行動彼女後ろ速度車送迎手を発見もっと


 ◇


 腹部に走る鈍痛、耳の奥で異常に煩く鳴り響く鼓動の音。

 何かに引っかかったかのように、足からは力が抜けて、何かを必死に懸命に叫んでいた。

 体の内は凍えるように寒く、過呼吸か息は絶え絶えになっていき、世界は帰宅後の部屋よりも暗くなる。

 何かを必死で叫び、何かを懸命に……懸命に、懸命に何を避けたかったのだろうか。

「おお、井伊弧(いいこ)芯入(しんい)君よ、死んでしまうとはふがいない」

 それは突然、見知った友人のように語り掛けてくる。

 その馬鹿にしたようで、優しく現実を諭すような、そんな声。

 そんな声を皮切りに、暗く閉ざされた視界は明かりを取り戻す。街灯の明かりが、眠気眼に突き刺さるように、薄暗くそよ風なびく秋の夜の道路脇で井伊弧芯入は目を覚ます。

「おや?起きたか、やぁ井伊弧芯入君、初めまして」

 初めましてと口にするのは彼女、先ほどまで一緒にいた彼女ではない。

 恐ろしいほど整った顔立ちの中で、真紅の瞳がまず目を奪う。

 先天性白子症のような白い髪は手入れが行き届いていて、街灯の光を背に、(あで)やかに輝くが、それに反し毛先はまるで雑に寸断した短いウルフカットが違和感を加速させ。

 けれど違和感を忘れさせるほど、人を惹きつけ、見下すことに快感を覚えるかのような血色の顔には、今浮かぶニヒルな笑みがよく似合っている。

「えと、誰?というか……」

「僕かい?名乗るほどのものではないんだが。……敢えて名乗るとするならば、そうだなぁ。ふむ、()(なが)レンとでもしておこうか。まぁ今テキトーに考えた名前だから、すぐに忘れてくれるだろうし、それに僕の役割はあくまで君の身代わりだ」

「外見とは裏腹に、日本人っぽい名前だね。……身代わりってなに?」

「誉め言葉として受け取っておくよ。そして、身代わりは身代わりさ。さっきも言っただろう?君は死んでしまった、ふがいないことにね。…あと、後ろは振り返らない方がいい」

 状況の把握に努めるべく辺りを見渡そうとした矢先、古永レンと名乗る彼女は、とても力があるとは思えぬ華奢な両腕で、こちら顔をがっちりとホールドする。

「わかったって、そもそも身代わりって……え、待って?死んだって言った」

「なんだよー君ぃ、やっぱり僕の話を聞いていないなー?君は死んだ、まぁ正確に言えば殺された、二つの意味で」

 不穏なことを呟く彼女にたじろいでいると、不意に足元が濡れていることに気づく、靴に水が入り込むような、そんな違和感を覚え井伊弧芯入はふと視線を落とす。

 自身の影に隠れる光景を見て、言葉を失った。

 凄惨な光景だ、そして理解を拒ませるには十分な光景。

「あーあ、だから見ない方が良いと忠告したのに、僕の発言が冗談にでも聞こえたかい?」

 ケタケタとせせら笑う彼女を無視し、今一度自身の足元に広がる世界に目をやった。

 ただ赤く、まるで彼女の瞳のように、真紅が一面に広がっている。瞳から光を失った彼女と、彼女が手を伸ばした先に居る、見覚えのある靴とスーツが目に映る。

「改めて言おう、残念ながら君は死んだ。必死に彼女を守ろうと、カバンに入った折り畳み傘で応戦した。覚悟は立派だったよ、だが悲しいかな奇襲には対処できず、君は初めて見るあの男から、まるで積年の恨みを晴らすように何度も刺された」

 冷酷に、劇的でいて談笑のように冗談っぽく、古永レンと名乗る彼女はこうも語る。

「守ろうとした彼女は恐怖で動けなかったが、君は獅子奮迅の行動を果たした。けれど、彼女はそうじゃない、なぜだろうね?首元に包丁が迫ってきているというのに、彼女はあろうことか胸を守った。勘違いを拗らせた暴漢より、君への想いを優先したのかな?……いいや違う、あれはまるで、誰かに貰った大切な心臓を守るかのようだったなぁ…ゲラゲラ」

 何が面白いのか、蛆でも見るかのような冷ややかな目を向けながら、井伊弧芯入の預かり知らぬ経緯(いきさつ)を語る。

「正直ここまではどうでもいい、君は死んだ。だが、ここで終わりじゃない。言っただろう?僕は君の身代わりになるために、今この場に居ると」

 彼女の言ってることが分からない、そもそも彼女が語ることが真実だとも受け取り難い。

「うん?鈍いなぁ君も読んでいただろう?まぁ君にとって記録の保存でしかなかったようだけど、アレだよアレ」

 読んでいた、アレ、死んだからこそ、そんな意味の分からない言葉の羅列だが、それが一本の線にすることができるものを、井伊弧芯入は一つだけ知っている。

「まさかとは思うけど、異世界転生とか馬鹿げたことは言わないよな?」

「そう、その馬鹿げたまさかさ。まぁ残念のことに神の慈悲でもなければ、ましてや君の願いでもない、しいて言うなら召喚が近いかな?」

 つらつらとあの手の小説のメタを羅列する彼女はさておき、顎に手を当て考える。

「気乗りしないだろう?知っているさ、僕は君を見てきたからね」

「思考を読まないでくれ。いやそれより、その口ぶりだと古永さん?が俺を召喚するっていうこと?」

 夢であれば良いが、仮にもこれが現実だというなら受け入れがたい。

 だって、あの手の小説にあるみたいに戦うとか、誰かのために命を張るとか、異世界転生して無双の限りを尽くすとか、苦しむとか興味もない。というよりも、一度知ってしまった以上、もうどうでもいいという感想に尽きる。

 仮に深層心理で願ったことがあったとしても、こっちから願い下げだ。

「古永さん?あぁ僕か……残念、僕ではないよ。僕はこの機会に乗じただけ」

「自分で言うのもなんだけど、俺なんか平平凡凡の一般人だよ。本当にそういうのがあるとしたら、それこそ英雄症候群でも持った人にでも」

「確かに君は平凡だ、けれど一般人ではないだろう?思い当たる節はあるはずだ、さっきの彼女と会っている時ですら、君はそうだった」

 再びニヒルな笑みを浮かべ、人の嫌な所を彼女は平気で突いてくる。

「記憶力が良い、言ってしまえばただの個性でしかないが、僕が求めるのはソレだよ。君の記憶力が、君の平凡さが、君の未知への好奇心が、君の向上心のなさが、君の記憶にのみに向く探求心が、その全てが僕にとって都合がいいのさ」

 そうして古永レンは、興奮した目つきで幽霊の如く空中を漂い、ゆっくりと、ただゆっくりと着実に傍へと近づき、こちらの手を取った。

「君の特質さが、君が望まぬ此度の結果を引き起こした訳だが。しかし、なってしまったものはしょうがない、僕は君を尊重しようとしていたが、残念ながらどっかの馬鹿が君を呼び寄せてしまった、だから僕はこの気に乗じて君に会いに来た」

 抱き寄せられ、ほのかな甘い香り、女性経験のない思考と判断を鈍らせるが、それでも一点つじつまが合わない部分が一つある。

 それは、彼女が身代わりになると語った点。変わりに死ぬならば、彼女の行動は無意味なのではないだろうか。

 きっと、そこは既に解消済みなのだろう、それでも問いたださずにはいられなかった。

「けど、古永さんは身代わり?なんだろ?それともその都合に君の生死は関係ないの?」

「答えとしては関係があるが、関連はないが正解かな?死人の身代わりというくらいだ、無論、僕は死ぬ。君が死んでいる以上、本来なばら僕も死んでいないといけない」

 ではなぜこうも話せているのか、そうもツッコミを入れたくなる。

 しかしそれは、彼女の指先によって静止された。

「疑問はもっともだ、まぁ簡単に説明すると【グラビティレイト(重い想い)】よるもの。まぁ端的に言えば、君が死んでからの時間と、僕の死ぬまでの1秒を無限に引き延ばし続けているのさ」

「そんな無茶苦茶だ」

 夢にしてはリアリティがあって、現実にしては非現実的すぎる荒唐無稽な言葉の数々。

 そこに現れた、まるで無料で読めるネット小説によく見る、とんでもない能力の披露。

「…話が脱線したね、頓珍漢な表情を浮かべる君が面白くて、つい余計に困らせようかなと」

「いや、本当に性格が悪いというか、厄介というか」

「いいじゃないか、どうせ今日一度限りの逢瀬、そのくらいの時間を僕にくれよ」

 自嘲気味に呟き、彼女は寂しげに目を伏せる姿を見て、井伊弧芯入はハッと気づかされる。

 この人は自分の代わりに死ぬ、それが事実ならばその言葉がどれほど重いのか、僅かに陰りを見せた表情に、どれほどの葛藤があるのかを理解しなくてはならない。

「話を戻そうか、聞きたいのは大方、なぜ身代わりなんて引き受けたのかだろう?」

 幾ばくかの脱線はしたが、本来聞きたいのはそこだ。都合があるにしても、どう考えてもリターンが見合わらないという問題、せめてそれを知って納得したいと首を縦に振る。

「わかりやすい話だよ、誰かを異世界から召喚したいというなら、当然コストが必要になるだろう?君を呼ぼうとした連中はそれを出すのを渋った。だからこそ僕が命の等価交換なんて馬鹿げたコストを支払った」

「答えになってない、聞きたいのは理由の方なんだけど」

 問いただすように一歩詰め寄ると、彼女はわざとらしく指先を顎に当て「うーん」と悩む素振りを見せる。

「答えてもよかったが……、やっぱりやめておこう。それにこんなところで油を売っていては、馬鹿どもが召喚の失敗と勘違いして、中断されても面倒だ」

 何かを決心し、彼女は当たり前のように空中を足場に立ち上がると、瞬きをする暇すら与えられず手を引かれ、彼女の柔らかそうな唇が迫る。

 ゆっくりと着実に近づく、美しいとしか形容できぬ彼女の顔に目を奪われ、その1秒にも満たぬ時間が数分に感じるほど遅くなっていく。

「残念ながら【リップサック(吸引記)】で、ここでの記憶は奪わせてもらうけど、でも君に会えて本当によかった、これは紛れもない僕の本心さ」

 ほんのりと徐々にではあるが、広がるように腹部や胸部に痛みが走る。彼女がグラビティなんとかという、聞くだけでも無法だとわかるソレを、解除したのだろうか。今まで自覚のなかった死が、その痛みと熱を奪う極寒が確かな死を自覚させていく。

 何かが聞こえるけども、何も聞こえない。何かを見ようとしたけれど、今はもう何も見えない。ただ微かに残る記憶には、彼女の微笑みの奥にある沈んだ影と、確かな本音があったのだろう。

 それを語ったのが誰かは知る由もないが、優しく包みこむ何かの温かさに甘え、井伊弧芯入は瞼を閉じる。


 もう、この場にはなにもない、誰も居ない。延々と変わらぬ、闇夜の惨劇の光景が映し出されるだけの、陰鬱としたクソみたいな空間に彼女はポツンと一人残される。

「あぁは言ったが、僕としては僕にも都合がよかったな、僕の願望のためには僕は要らない、というかあってはならないものだ」

 聞き手は居ない惨殺空間で、古永レンと名乗る彼女は一人でに虚空に向け口を開く。

 まるで、誰かが耳を傾けているかのように、自嘲気味に淡々とした口調で語る。

「後悔かな?これは意外だ、既に納得した筈なのに、なんだか無性に寂しくなってきた。どうせここで無限の時を過ごそうが、あちらにもこちらにも影響はないんだ。もっと話せばよかったんじゃないか?……僕としたことが勿体ないことをした」

 彼女は残念がり、肩をすくめ、渋々と納得し宙で横になり、闇夜に浮かぶ空を眺め思う。

 この場には誰も居ない、聞き手も居なければ語り部も存在しない、それは進展がないということ。

 無限の停滞の中で、彼女は一人、孤独の身代わりを引き受けた。

「あっ、わかった」

 受ける前とも何ら変わらない、ただ時間を過ごすだけの無意味で無価値な、絶望的なまでに鬱屈とした永遠に、彼女は自ら望み溺れていった。

「僕ってば、舞い上がっちゃったんだ。……本当に勿体ないことをした」

 鬱屈した永遠に、ただ一筋見えていた光の梯子すら金繰り捨てて、この数分の邂逅を彼女は自ら選択した。

 酷い、酷い選択肢を選んだものだ、もう二度とその光は現れないし、見ることもできないというのに。


 ◇


 目を覆いたくなる眩い光の先に包まれ、なだらかで心地よい涼しいそよ風に吹かれる。耳を澄ませば小川のせせらぎと、青々しい木々たちがさざ波のよう揺れていた。

 朧げな視界から把握できる限りの情報は、一面緑の樹林の中、天然のマットレスに体が埋まるような感覚が、覚醒までの時間を一分、また一分と引き延ばす。

 植生も、木々を移動する動物も、記憶に残る知識とは一切合致しない。

 このような展開を、俺は知っている。というかよく見た、異世界転生というやつだ。

 しかしながらこの大地は、とても寝心地が良い。例えこれが最悪な現実であろうと、都合の悪いことは忘れ二度寝にしゃれ込めば現実に戻れると思考を逃避させた矢先。

「おーい、いつまで僕を待たせるんだーい?とっくに状況把握も、気持ちの整理もついているだろう」

「いいや、寝る。無理、これは受け入れがたい現実、夢だと思って目を瞑ったほうが……」

 特段気にも留めずに会話を始めた訳だが、なぜこうも顔も知らない誰かと知人のように話せるのか。少なくとも俺は、初対面の相手にこうも気軽な口を利かないはずだ。

 だからかその正体が無性に気になって、思っていたよりも軽く動いた体を起こし、声が聞こえる方へと、一歩ずつ踏みよる。

「やぁ、初めましてになるかな、私の名前はアルテマ・スターク。気軽に京本(きょうもと)さんとでも呼んでくれ」

「あぁ、どうも…馬鹿みたいな名前というか、えっと俺は」

 初めて聞く声だが、どこか聞き馴染みのある声。アルテマなにがしが招き入れた先は、湯煙が立つ天然の温泉ともいえる湖畔の一角。

 言葉を止めたのは、口を開けるよりも先に目を閉じたから。

 彼女は恥を知らぬのか、あるいは痴態だからこそなのか、一糸まとわぬ姿でそこに立っていたはずだ。だからこそ、目に焼き付いてはいるが、常識として目を閉じた。

「おっと、想像力が豊かなのは美徳だが、【セーフレギュレーション(過視の淫匿)】を使う僕を前にしてそれは起こりえない、だから安心して目を開いてくれて構わないよ」

 恐るそして遅ると、白く泡が浮かび濁った水面から、掌を傘にして木漏れ日が刺す向こうを伺い視線をあげる。

 彼女は目を疑いたくなるほど、恐ろしく整った顔立ちで、真紅の瞳が美しく。

 濡れたカラスのような、艶のある手入れの行き届いた黒髪は、木漏れ日を反射させるよう、(あで)やかに輝き、毛先のみをまとめたボリュームがありすぎる二束のおさげは、なぜだか不自然なのに違和感を覚えることはない。

 人を惹きつけ、からかうことに快感を覚えるかのような血色の良い顔には、人を小ばかにしたような貼り付けた作り笑いですら似合うというしかなく。

 恥ずかし気もなく見せつける裸体は、限度を超えた量の泡が恥部を隠すように付随した。

「ちょっとは恥じらいを持ったら?」

「恥ずかしくないように見えるかい?それなら上々、僕の仮面は案外機能している」

「本当は恥ずかしいけど、キメないといけない場面だからキメてるってこと?そっちのほうが恥ずかしくない?」

「いいや違う、本来であれば君が最初に瞼を開いた段階で、僕は恰好をつけて君の近くで座っていたんだ。しかし案外君が起きないものだから、暇な時間を活かし湯浴みをしていた……まぁ、そんなところさ」

 申し訳なさは湧いてきた。だが元を正せばそちらが俺を呼んだのだ、少し大目に見てくれ。

 でも、一体なぜ、俺はその理由を知っているのだろうか。

「現実を受け入れ始めてはいるんだけどさ、ここが異世界だなんて言われても信じられないというか、そもそも京本さんが話す言葉がまず日本語じゃん?設定的にどうなの?」

「それについては、僕が日本語を話しているからだ。そうだなこの世界で主流な言語で話すとしたら……【يثشبৈদrd(ꏢꄉꀂꀑꈐꏒꆌꌋꇬ)】とかはどうかな?理解はできそうかい?」

「いや全然、全く持ってわからない、話せる気も覚えられる気もしない」

「覚えられるだろうさ、君なら。だが、そこに時間を割くのは僕としても避けたい。だからだね()()()芯入(しんい)君」

 京本さんと名乗る彼女はまだ教えてもいない本名を、微笑みながら口に出す。

 笑顔、作り笑い、見破るなんてできない、だけど今の彼女の表情からくるものに見えた。

「君には僕に教示してほしいのさ、君がこの世界を過ごしやすくなるような、君が持つ無限にも等しい記憶なから選択してほしいのさ」

「別にそれはいい、いいけど……」

 都合の良いように扱われているだけに思えてきた、それにやはり作り笑いにも見える。

「けど?僕が君の名前を知っていること、それを気にかけているとしたら、それは僕が君をこの目【アナザーアイ(線離眼)】によって見ていたとしか説明ができない」

「さっきから都合がいいね、京本さんのその色々な奴」

「僕自身の力だからね、努力すれば身につくものさ、そこに都合もクソもないのさ」

「そうなのか?……いや、そうじゃなくて、なんでこんな初対面なのにこんな話しやすいのかなって」

 そんな疑問に思っていた言葉を、ふと京本さんを自称する彼女に投げかける。

「それは当然、僕がいい女だからじゃないかい?」

 そのおどけた答えに、思わず鼻で笑いそうになった。

 それでも笑うなと心に訴え、口元を押えた俺の姿を見て、京本さんは小首をかしげている。

 確かにそうかもしれない、話しやすい。まるで、死後を看取った最後の友人のように、彼女を相手にするのは話しやすい、確かに話しやすい女は良い女なのかもしれない。

「京本さんがいい女かは、…まぁ一旦置いておくとして、俺を見てきたっていうなら別に教える必要がなくない?だって見てるんでしょ?」

「いい女かどうかは重要だと思うが、……まぁそう言わないでくれよ、僕は案外だけど、君とお喋りすることを、楽しみにしてここまで生きてきた節があるんだ」

 そこまで重い感情を、いきなりぶつけられても困るものだが、冗談めかして言う京本さんの顔を見るに、額面通りに受け取るのも時間の無駄だろう。

「じゃあ、ほん〇〇こん〇〇〇とか?食べるだけで、聞く自動翻訳と、話す自動翻訳、言葉通り食べて二度美味しいって感じ」

「あぁ、〇〇やく〇〇にゃく!アレは今の状況にぴったりな道具。確かにアレは便利だ」

 知識を授けたからと言ってどうするのだろうか、ここまで都合がいいと、彼女の力の中にそれに準ずるものがあるのだろう。問題はどこから出すのかだ、ほんやく○○〇〇〇を。

「ふむ、これでどうかな?今の僕の声は君にも、認識できるかい?」

「え?もう機能してるの?ポケットは?」

「ポケット?なんだい君は、四次元ポケットなんて都合の良いものがあると思っているのかい?これは僕の力【インタープリター(言う話易し)】だ、常時通訳する力とでも思ってくれればいい」

「なんでもありだね、京本さんは本当に」

「なんでもはできないさ、君の確かな記憶を、僕が聞いた(・・・)からできるだけのさ」

 得意気に話し、薄笑いを浮かべる京本さんを見て、それこそがなんでもできるとは違うのか。そんなことを思いつつ、俺は一度腰を下ろそうと手を地面につけようとする。

「あぁそうだ、すっかり忘れていた。君と出会うことを待ち望んだのは事実だけれども、君を呼んだのは僕じゃないんだった」

「ん?どういうこと?」

「君もよく知る異世界転生と言ったらアレだよ、特に理由もなく不都合によって、誰かが選ばれて異世界を謳歌するだろう?その誰かに君は選ばれてしまったんだ。……まぁ、条件があるにはあるんだが、馬鹿どもの思惑とは違うけれどね」

 詰まる所、異世界転生なんて馬鹿げたことを実行したのは、京本さんではないということだろう。実行したのは、彼女が言う所の馬鹿ども。

「面倒ごとに巻き込まれるのは、正直言って御免なんだけど…」

「残念、異世界転生なんてした時点で、そんな寝言は言ってられないよ。……ということで、君をその呼んだ馬鹿どもに送り返す作業が必要なのさ」

「じゃあ京本さんとはここでお別れか」

 少し名残惜しいが、仕方ないことではある。仮にも異世界転生というならば、彼女は些かキャラが強すぎた、二重の意味で。

「安心していい、僕は割とすぐに会いに行くよ。それに僕だけは、君がどんな選択を取ろうと君の味方さ」

 ちょっと胸がときめくようなことを、恥ずかしげもなくキメ顔で言えるのは、多分彼女のキャラクター性。でもこれが今生の別れではないというのは、嬉しい気持ちもある。

 これだけ気さくに話せる友人、それはこと新天地においてどれほど有用か。

 きっとこの感情も、この現状も事情も京本さんに仕組まれたもの。でも、これでいいと思える自分が居る、面倒くさいが真新しいものを見れるというのは、それほどまでに駄賃としては十分すぎるから。

「準備は良さそうだね、じゃあ……いってらっしゃい」

 その一言で、俺の視界はブラックアウトを引き起こす。

 目を閉じたまま金縛りにでもあったかのように、座ってもいなかったのに立ち眩みを起こしたように、心地良いとは言えぬ感覚を味わい尽くし。

 ようやく体の自由が利いたころ、俺は瞼を開く。

 絢爛(けんらん)豪華(ごうか)な城の中、いかにもありそうな光景を前にして、少し引きつった笑みを浮かべているだろう。

 それくらい、想像通りで面白味もない光景と、再び想像通りの羨望の眼差しを浮かべ、こちらに駆け寄る贅沢なドレスを身にまとう、姫様のようなソレが居るとなると当たり前に。

「ようこそおいでくださいました!この世界を救ってください、救世主様!」

 なんて、テンプレート的通りで、なんの捻りもない発言を前にすれば、きっと現代っこならば、誰だってこう思うはずだ。

「……ハハ…」

 いつもより声色高く感じる乾いた笑い声が、絵にかいたような王宮で響いたような気がした。


 正直な話をすると、俺にとっての荒事というのは、人生の中で最も無縁な事柄に位置する。

 殴られることはあっても、殴ることはしない。ましてや死に際を除けば、怪我とも無縁な人生を送ってきた。

 だからこそ、羨望の眼差しを向ける王女や近衛兵、それと威厳と傲慢を勘違いしていそう王様の視線が心苦しい。

 救世主なんて呼ばれる質ではないのは、俺自身が一番よくわかっている。

 けれども、王女が真剣に語る話を、話半分で耳を貸さないというのは違う。

 王女が語る、事のあらましはこうらしい。

 この世界は魔王に支配されてから、既に幾百年の年月が経ち、4つの大陸で分け隔てられた4つの大国も、今や小国に等しい土地を守るので精一杯だと言う。

 この幾百年、何人もの戦士が勇者として魔王を討たんと立ち上がるが、大陸ごとに拠点を構える魔王の幹部に辿り着くこともなく、命を散らすのが常。

 絶望は必至、しかしそんな最中でも人類最後の希望とでもいうのか、伝承にある勇者の資格を持った子供たちが、3つの国家で産声をあげた。

 その吉報は、数十年の間も閉ざさずにはいられなかった国家間の扉を開き、魔族からの妨害は必至と言える、死に物狂いの国交を再開させたという。

 人類最後の反逆への一歩を確かに刻んだのだが、やはり良いことばかりではない。

「しかし、我が国では伝承である勇者の素質を持つ子供は産まれませんでした」

 そこで白羽の矢を立てたのが、禁術の使用。いわば外世界から勇者の素質を持つ者を呼び出す。つまりは召喚しようとした訳だが、その結果が俺ではその禁術の程度も知れる。それでも、向けられる羨望の眼差しの意味に関しては、十分に理解できる話だった。

「伝承通りの三勇者が現れたこと、これは私たちにとっても大変喜ばしいことです」

 しかし、そう王女は言葉を続ける。

 わかりきったことだ、この国以外が勇者を輩出した。それはこの国だけが、魔王との闘いに戦力を要せなかったことを意味してしまう。仮に伝承通りに勇者が魔王を討ち果たした時、その後この国はどうなってしまうのか、魔王との闘いに挑まなかった臆病者と蔑まされるのか、どうあろうとその事実は、国家間の政治にとっての傷となることには違いない。

 為政者にとって、これほど悩ましい種はないだろう。

 勇者を偽るか、それとも外法であっても本物を要するか、人類の存亡の前で国の存亡の問題を考えているのも難儀だが、魔王を討ち果たした後の混乱の種にすらなりえる問題だ。

「救世主様に置かれましては、元居た世界での生活もあったのでしょう。私たちの都合で呼び出してしまったこと、本当に申し訳ない限りです」

 頭を下げる王女を前に、たじろぎもしたが、そこまで事情を聞いてしまうと、はた迷惑な話と論ずるのも人情に反するというの、常識的に自分の人間性を疑う必要さえある。

 面倒くさい、出来ることならば関わりたくないという本音とは裏腹に、話はすいすいと先へ進み、連れてこられたのは王宮の地下。

 歩数と距離感覚的に言うならば、玉座の間、そのちょうど真下に位置する場所。

 ろうそく、あるいは松明の光を頼りに、重たい扉を開くと現れたのは、いかにもと言わざるを得ない一室。

「その言ってた召喚の義というのは、ここで?」

「その通りでございます。そして救世主様にはここで、精査の義を執り行ってもらいたいのです」

「精査の義?」

「私たちであれば、おおよその体内……や……能力を知る……」

 ふむと、話を真面目に聞いていた矢先の出来事。

 突如として王女の声が耳に届かなくなった。より正確に語るのであれば、彼女の声は届いている、けれどもところどころでノイズのような音が入り、詳しく聞き取れない。

 理解を拒む異常事態だった。突発的な難聴という訳でもない、ただ単純に単語ごとに言葉を切り、検閲したかの如く一番聞き取りたい部分がくり貫かれている事実。

 何より一番に異常なのは、その聞き取れない内容でも体は理解したかのように、王女の発言に納得し、肯定し行動を移している。

「まぁ想像の通り【アクションコントロール(制診支配)】という力で僕がやっている、一度話した相手の行動を制御する力さ」

 軽い口調、貼り付けたような作り笑い、そして世界間にはまるでふさわしくない。

 しかしながら、見覚えのあるネイビーのブレザーと、タータンチェックのブレザーよりは明るいスカートを身にまとい、現れたのは想像通りの京本さん。

「出てくるのは勝手だけど、せめて俺を見て話してくれない?なんで王様を見てるのさ」

 彼女の視線は、なぜか王様の横で宙に肘を乗せ、まるで王様が旧友かのよう話を始める姿を見て、話し相手が俺ではないと勘違いをした。

「おっと、すまない。人を見分けるのは苦手なんだ、だいたい同じだろ?」

「さいですか……まぁ京本さんじゃなかったら、それこそ話題に出た魔王を疑うか」

「おいおい、君は自分が魔王に狙われる主人公にのつもりかい?断言する、それはないから安心しなよケラケラ」

 大層馬鹿にしたような目つきで、馬鹿にしたように笑われるのは、多少感に障る。

 わかっている、それはこれが小説ならばの話。

 徹底的に叩き潰さないでもよかろうに。

 しかし、考えが音として発声され、王女らには届かず、そして行動は彼女の思うがまま、なんとも気持ちが悪い状況だ。自分の体だけど、自分じゃないみたい、そんな感じ。

「ちなみにこれは【ゴースティング(幽瞑処を経だつ)】、本来は死者の魂を戻す力なんだが、…まぁ大丈夫」

「ごめん大丈夫って何が?…それって俺が生きた屍になってることじゃないの」

「大丈夫、大丈夫。ちゃんと戻せるから、それよりもだ……僕が君を彼女らから遠ざけたのは、深い、深い理由があるんだ。聞いてくれるかい?」

 小ばかにした笑い笑顔を止め、突如として真剣な面持ちで話題を変える。

 京本さんとは、今日出会ったばかりだが、何でもできるであろう彼女がここまで、顔つきを変えるだなんて、俺は何かとてつもない間違いをしてまったかと、体は制御され垂れることのない冷や汗を心の中で垂らす。

「いやさ、コイツら力を使うには魔力がどーとか、特別な能力がとか、神の祝福だの加護だの権能だのさ、そんなありもしない幻想に取りつかれているのさ」

「えっ、ないの?」

「おいおい、人間の体のどこにそんなものを蓄えて置けるっていうんだよ、宙に漂うマナがどうとかも言うけどね、僕から言わせればそんなことを恥ずかしげもなく、よく言えるなって発言だ。共感性羞恥に近い」

 魔力がどうとか、マナがどうとか、それのあるなしは個人的にもさほど問題はない。

 ちょっとばかり、本当に心の奥底のどこか、それも隅の方で案外思っていたり、思っていなかったりしていた感情の問題だ。

 だからこそ、気になることが一点だけ残る。それは、京本さんが使っている力というもの、それはそういったものに分類されるのではないだろうか。

「じゃあ、その今のゴースティング?とかはなんなのさ、それこそそういった類じゃない?」

 俺の疑問に、いつの間にか戻っている作り笑いが崩れ、京本さんは呆気をとられたように目を丸くする。

「君っていうのは、案外僕と同じだ」

 首を傾げるように、彼女の発言に疑問符が浮かんだ。言っている意味がわらかない。

「辞書を全暗記しているようには思えないってことさ」

「学はあっても、頭がよく見えないって?……ハハッよく言われた」

 体の自由が利かない現状でも、俺は自嘲気味に下を向いていることが分かる。

 よく言われた言葉だ。その言葉は失望を表すことが多くて、だからこそ、全てが記憶に残っていても、何気ない時に思い出すほど印象深い言葉。

 けれど京本さんは笑う、僕と同じだなんて冗談めかして。

「まぁ一から十までの説明は、正直面倒だから省くけれど。僕が言う力は身体能力と技術の混合だよ。さっきの話も踏まえると勉強したから覚える、練習したから体得する、それだけの話さ」

「練習をして、魂抽出とか身につかないでしょ、何言っての」

「まぁ身についてしまったんだ、こればかりはしょうがないもんだよ」

「まぁいいや。……でも、このことを後で伝えればよかったんじゃ?」

 もう説明された以上、アレらをただの力と納得はできないが、理解はできる。そういう理屈なのだと教えられさえすれば、別にここで何をしようが問題はないだろうに。

「それはできないのさ、君が僕に操られなかったら。君の特質を利用した加護だか祝福だかを教えられるし、どういう力かもおおよそ説明されるだろう」

 話が見えてこない、京本さんが語ることに大した問題はないだろう。

 仮にそんなものがあるなら、使えた方が便利になるのではないだろうか。

「ダメだね」

 京本さんはこちらの心を読んだかの如く、力強くまたもや真剣な面持ちでこちらの思考を否定する。

「それは君の限界を意味する。自分の力であれば幾らでも磨けるというのに、それを第三者に任せるなんて愚かだ。わからないものを自分で磨くからこそ、力は自分にとっての強力な武器となり、糧となるのさ」

 誰かに自分の研鑽の一部を任せるなんて、そんなことはあっていいはずがない。

 京本さんが言ったことは、とどのつまりそういうことだ。けれどその言葉には、ヘラヘラと笑う彼女ではなく、ただ論外だと論じる彼女は発する言葉には、確かに重みがあった。

「……うん、そうかも。俺も京本さんの意見に同意するよ」

 死んでから、誰かに利用されてから、初めて心のどこかにあった、自分なんかが持ってしまった特質さから生じる重荷を、下ろすことができたような気がする。

 彼女の言葉が俺を利用するための嘘でも、その言葉には最後まで縋っていたい。

 そんな心持ちにさせる、彼女の行動を納得するには十分すぎる言葉だった。


 京本さんとの世間話ついでの会話は途絶え、自分の意思で体を動かせるようになった時。

 精査の義を終え、羨望の眼差しが失望に変わったような周囲の視線を見ても、俺は何も思わない。きっと酷い結果が出たのだろう。

 けれど、事情が事情だ、決してないがしろにもできない。だからこその空気だ。

「おぉ救世主よ!そなたはとても素晴らしい!我が国も最大の支援を約束しよう。知らせに届いた勇者にも引けを取らぬ、その真価を明後日(みょうごにち)にでも見せてくれ!」

 曇り顔の王女をよそ眼に、王様は意気揚々と口を開く。

「期待に応えられたならよかった、その勅令……承りました」

 全部嘘だ、王様の心地良い言葉も、そんなことはよく知っているとも。

 王女も王様も、俺に期待はしていない、できない。勝手に期待し、期待に届かなければ、その結果に失望する。そんな姿を何度も見た、だからよくわかる。

 あぁ、なんて嫌な気分だ、最悪な気分だ。

 ……けど、なんて晴れやかな気分だ、最初からこうすればよかった。

 死んだ後に気づいても、もう遅い。第二の生というやつがある俺は、本当に幸せ者だ。


 ◇


 4つの大陸が一つエアルーン。

 書斎を漁り、過去の伝聞を調べた限りでは3つの国家があり、人口は数百万人規模の大陸だったという。だが、今は人口も十万人規模になり、最も南西に位置していたバルトリア王国が、この大陸最後の防衛線として人の存続を保っているとのこと。

「京本さん?来たよ」

「予想はしていたけれど、全く酷いものだね。どうだい?追放系の主人公みたいな気分には浸れたかな?」

「正しい意味での追放かな?物語とは違うと思う」

「一応とはいえ君の全盛、それが15歳なのはどうなんだって話だけれど、それにしたって彼らの目にはとてもじゃないが、救世主とは思えない数値が映っただろうからねぇ」

「……そうしたのは、京本さん…じゃないか、でも15歳は確か成長期が終わった頃だ」

 運動部にも属さない、本屋で買う大量の書物を自宅に持って帰るのが、ギリギリ運動。

 こんな生活じゃ、肉体が完成されて出力が最大の時が全盛になるも頷ける、寂しいけども。

「それよりその服、嫌がらせのつもり?」

「ケラケラ…似合っているだろう?君は好きかなと思って用意したんだ、まぁこれも」

「それはどうでもいい、けどまぁ可愛いとは思うよ、ただなぁ」

「ん……えっと……そうだな、振られた経験が、そんなに応えているのかい?それなら重畳(ちょうじょう)、折角の入力も出力が見合わなくて後悔する困り気味な、僕好みの君だ」

「もう少し真面目な交際をするべきだったというか、あの頃は知識ほど行為に興味が向かなかったというか……」

 高校生の頃の苦い思い出、恋愛という行為に興味が湧いたのは社会人になってから、あまりに遅すぎた話だが、たまに眠る間際に思い出して情けなくなる記憶。

「というか、その君って呼び方やめてよ。普通に名前あるんだし」

「なんだよ、いいじゃないか。それに僕は案外気に入ってるんだよ、君を君と呼ぶことをね」

 それでもだ、名前を教えた相手、ここまで気さくに話せる相手だ。そんな京本さんから名前を呼ばれないのは、彼女なりのポリシーであったり、感情表現であってもモヤモヤする。

「……わかったよ、僕の負けだ。そんな捨て猫みたな目で僕を見ないでくれ」

「断じてそんな目はしていないと思う」

 していたとしたら、嫌そうな顔だ。それくらいに距離を遠く感じる。

 コホンコホンと、軽く咳払いをし、京本さんは大きく息を吐き、渋々と俺の方を見た。

「シ、シンイ君。これでいいかな?」

「うん、満足。ありがとね、京本さん」

 たかだか名前を呼ぶのに、何の心構えが必要なのかとも思ったが、言葉は余計だろう。

 それに想像も付く、これほどのまでに万能な京本さんに、気さくには話せど友達などいる筈もないということくらい。

「なんか失礼なこと考えてないか?」

「えっ?いや別に」

 いつも通りの張り付けた作り笑いと、いつもとは違う、からかうような目つきではなく、人を人とも思わぬ見放した目つきには、流石に寒気を覚え本題へと戻る。

「それで、なんで俺を呼び出したのさ、明日には出てくるよ?」

「いい質問だねシンイ君、それにはまず、僕の理想を語る必要がある。聞いてくれるかな?」

 俺に接触するのは、京本さんにとっての都合だ。けれど、面倒でも頼られることに悪い気はしない。

「わかった、聞かせてよ。京本さんが何をしたいのかをさ」

 能天気な作り笑いから、冷ややかな全てを見下したかのような表情で彼女は語り始める。

「シンイ君も聞いたと思うが、この世界ってやつは魔族と人間が対立してる、そして、そこに伝承に伝わる勇者の資格を持つ者が現れた、まぁ君みたいな目のことなんだけれど」

 昨日も言われた、勇者の資格は目に現れると。実際に残るのは、幼少期に体験した事故の結果が後天的な虹彩異色症な訳だけれど。

「考えている通り、そんなものはない。君の目は後天的だし、伝承は偶然そうだっただけだし、現れた三勇者もたまたまだ」

「たまたまも続けば必然になるってわけじゃなくて?」

「いいや、偶然だよ僕が保証する。僕が言いたいのはね、争いなんてくだらねーし、この情勢も結局は前回の三勇者が起因しているだけだ、つまりクソどうでもいい内輪揉めなのさ」

 とんでもないことを京本さんは口にする、それこそこの世界の根幹にもなり得る、いわば用意だけされてるバックグラウンドとか、裏資料とかそういった類の話。

 それを、彼女は知っていると語るし、そのすべてが馬鹿らしい、そう京本さんは言った。

「僕としては、このまま人間たちが魔族に殺されようが、再び勇者が土地を取り返そうが、この世界の馬鹿どもは治らないし、生まれ変わろうと決して直らないんだ。だから知らぬ存ぜぬを決め込んで、僕は僕らしく呆けて居ようと思った、思った訳だが」

 彼女が少し悩んだ後、頬杖をついた掌を返し、こちらに手を差し向ける。

 お手か、それとも握手かとの思案し、一度瞬きをした一瞬、そんな一瞬で京本さんは俺の襟を引っ張り、眼前に彼女の顔が近づく。

 この出来事で京本さんへの評価は変わらない、恐ろしいほどに顔は整っているし、髪の色も質も、個人的に苦手意識を持つそのブレザーの制服だって、彼女の良さ引き立てる。

 けれど、少しだけいつもと違うところがあるとしたら、それは瞳だ。

 表情じゃない、変わらず美しいとさえ思う真紅の瞳、俺の滲んだような汚い赤ではなく、どこまでも澄んだ真紅で深紅な瞳が、狂ったような輝きを放っている。

「そう思った訳だが……君が居た」

「なぜそこで俺?」

「それは追々、でもシンイ君、君に興味を抱いた理由の一つに、同じ疑問を抱えていたことはある」

 同じ疑問、この話題で同じ疑問。正直な話、京本さんほど上から目線で世界を見たことはない。彼女と同じ疑問を俺が抱くことがあるのかと、いつの間にか離されていた襟を正し、顎に手を当て考える。

「疑問…、対立……、勇者………、……やっぱり絶対ある能力?」

「違う、そっちじゃない」

 京本さんはガクっと肩を落とし、大きくため息を吐く。

 違うといわれても、無能と書かれようが都合よく生えてくれる能力への疑問が一番ある。

「僕の疑問は主人公の必要性さ、君も作品を読めば思っているだろう?なぜ主人公が戦うんだろう、主人公が戦わなければいいのに、なんていう作品の根幹を否定する疑問だ」

「あぁ思う思う、主人王が居なければ悲しい別れもないし、主人公が戦わなければ失われる命もないし、主人公が戦わなければそもそもそこまで進展しないってやつだ」

 主人公が居なければ、ヒロインは涙を流すことはない。

 主人公が現れなければ、主人公が現れるまで悲惨な目に合う人は楽に死ね。

 主人公が戦わなければ、長丁場の戦は敵の勝利で済み。

 主人公が生まれなければ、争いの発端も生まれない。

 主人公が存在するからこそ、犠牲は増えるし、敵は道半ばで満足するし、関係のない人々はその負債を背負わされる。

 そんな『物語』の存在意義を問う疑問、正しさとエゴによる主人公たちの行動。

「シンイ君、君は記憶することを生きがいとする人間だけど、君がそれに執着することはない、だからこそ王道も邪道も違和感なく受け入れるし、それらを思考停止で納得せずに疑問を持ってしまう」

 自分はいったい何の意味があって本を読むのか、自分何のためにこれほどまでに記憶する行為に取りつかれているのだろうか、そんな自分自身に抱く疑問を彼女は、どこまでも簡単に言語化した。

「だからね、僕も同じなのさ。僕は主人公を好きになれないし、敵の計画はそのまま進むべきだと思うし、思考停止で敵の言い分だけを信じる一般人はそのまま野垂れ死ねばいい」

 彼女が俺を必要とする理由は、未だにわからないし、多分教える気もないだろう。

 だけど、彼女の気持ちが少しだけ、万能で人間離れをした彼女を少しだけ理解できる。

「僕は主人公を消して、ラスボスを消す。誰も祝えない、誰も呪えない、そんな世界を作ってみたいんだ。……だからこそ、主人公にはならない君が必要だった」

「憧れはないけど、主人公を羨む気持ちくらいはあるけど……」

「でもなれる機会はあっても、君は絶対に主人公にならないだろう?」

「まぁ、それは…うん」

「敵である必要もない、主人公である必要もない。草場の影で物語を破綻させる、物語にとってのメアリー・スーになるんだ、シンイ君もそうなってみないかい?」

 めちゃくちゃだ、そんなことを曇りなき笑顔で言うなんて、本当にめちゃくちゃ。

「うん、良いよ。京本さんが俺を利用するだけして捨てるとしても、その先を俺は」

 その先を、見てみたい。


 そう言いたかった、言いたかったのだが声が出ない。

 なぜか、今さっきより京本さんとの距離が離れて見える、少しだけ驚いた顔をする彼女を始めてみた。

 世界が反転して、暗くなっていって、あれあれあれあれ思考がまわあわわわわわわ。


   ◆


 大地を踏みしめ、木々を足場に己が脚力によって粉砕する。

 馬よりも速く移動し、交蒼剣の軍勢が召喚するペガサスも高く飛び、隠密に特化したゴーストたちよりも静かに、私は駆ける。

 始まりのリグナレオン、叡智のアルドテラ、秘境のハイドラシア、この三大陸に伝承名高い勇者が産まれ十数年。これら三国の経緯は目下の対処事案とし、私たちは目を光らせていたが、ここに来て凋落のエアルーンにも、我らが王の観測に反応があった。

「前触れがなさすぎる。愚か者どもめ、禁忌に頼ったな」

 言葉からはイラつきが滲み出る、余計なことをしてくれた面倒さよりも、私はエアルーンの者どもが禁忌に手を染めたことに吐き気を催す。

 なぜ人類圏と呼ばれる区域を残している意味も知らず、混乱したかのように我らが王に抗う術を探し、無駄と分かりながら先兵という名の若き命を送る。

 無駄極まり、合理性に欠け、自らの威信のために声高らかに愚行の宣誓。

 確かに勇者も脅威であり、産まれ十数年が経ち、未だ対処が出来ぬ以上いつかは障害となり得るが、それよりも禁忌により呼ばれた者を私は対処しなければならない。

「国を落とすか、それとも脅し首を差し出させるか……」

 観測と勅命を受け、1日と数刻。エアルーン大陸の南東に構える城より走り始めて、それほどの時間が経つ。人の手を離れた森林でくつろぐ魔物も、その魔物と共生する小動物たちも、地響きのような一歩を前にし慌ててふためき、その場から逃げ去るように離れる。

 しかし、それほどまでに急がなくてはならない事案だ、そう心の中で私は詫びて木々から飛び立つ小鳥を見送る。

 禁忌により呼び出された勇者ではない誰かを、私は討つ。

 魔物と動物と我々が、食物連鎖の中にいるように、人類と我々が共存が不可能なように、呼び出されたその者とこの世界の共存は不可能だ、女神にだってできはしないだろう。

 そして共存が出来ぬから、互いの意見が食い違い、言い聞かせる争いを始める。

 森を抜け、人類圏との境に私は出る、まばらに設置された魔法が一斉に攻撃を始めるが、意味はないし、ここまで入り込まれている時点でもう遅い。

 そんな中、私は目を疑った。

 一人、否二人。あと数踏みすれば、辿り着いてしまうほど近い、残された人類圏との境に位置するこの場所は、その危険性から人類圏とは呼称されはするが、人類が近寄らない場所。

 そこに人類が居ることは、恐れ知らずか無知な人類とでも思えば、不思議なことはない。

 だが、そこに存在する、異質な誰かに私は目を疑った。

「あれが……、禁忌が寄こした者ッ!」

 一歩でむき出しの刀身を中段に構え、二歩目で音を置き去りに、そして三歩目にその異質な雰囲気を放つ男の首を両断する。

「恨んでくれるなよ、貴様こそが禁忌の者。我らが王を討ち滅ぼさんとする可能性を秘めし者、それを目の前にして、剣を収められるほど私は腑抜けていない」

 剣先に滴る血液を、剣を振るうことで飛ばし、哀れにも何一つ果たすことなく死に絶えた禁忌の者を見る。

 勇者の印である赤い片目、間違いないコイツが禁忌により呼び出された存在。

「私の役目は果たした、そこの女。お前の命も奪おうという気はない、戻るとしよう」

 踵を返し一歩を踏み出す。けれど、突如として不穏な気配を再び私は察知する。

 私は勇者の印を持つ者を殺した。異質な気配を発していたのもアイツだ。

「君が気配だと思うそれは、僕が演出していただけだよ【バイタルサイン(気迫な換惠)】によって」

 私は急いで振り返る、そこには先ほどと何ら変わらぬ珍妙なネイビー色の衣服をまとう少女の姿。

 コイツから感じるものは、何一つとして存在しない。危機も危険性も何もない、だというのに、コイツはどうして私を一歩退かせるのか。

 一瞬の逡巡、自らのプライドを天秤にかける。何一つ危険に感じぬ女を殺すのか、それとも先刻の言葉通りに見逃すか。

 危険因子にはなり得ない、華奢な腕も女神の権能の気配も感じない。

 けれど、それ以上にこの女は不気味である。そう本能に語り掛けられる。

 斬り伏せた私に怒声を荒げる訳でも、男に駆け寄る訳でもない。ただそこに落ちた男の首を、愛おしそうに抱きかかえる胸に抱きかかえる、それを不気味と言わずなんというか。

「権能解放!」

「あー、やめておいた方がいいんじゃない?そればかりは、特におすすめしないよ」

「何を言う、お前に我が権能が見破れるとでもいうのか?『凌駕する模倣(アセンダント)』‼」

 権能の開放、これは自らが苦境に陥り、初めて使う奥の手中の奥の手。

 本来であれば、絶対的な強者に対して相手を模倣し、相手を凌駕する私自身が強化を施す、最強の自己向上系、女神から授かりし権能。

 だが、今はこの不気味な女の、完全的な模倣をし何を考えているのか、それを理解するために。

「そう……、じゃあしょうが」

 奴の言葉を全て聞く前に、勝負は付く。

 既に奴の模倣は済み、そして模倣から戻ることによって、奴の不気味さも身に着けた。

 この権能の強みは、相手を一度知ることにある、相手を知る私と、私を知らぬ相手なら

 【恩(「お」ん)を空で返す】ギブユーシェイムレス、お前が優位になる力。【険弄な感極】ベリーフィール、全ての感覚を異常なほどまでに研ぎ澄ます力。【地文殺しの虐殺】「マ」ーダーミステリー、心の中で自分を殺す力。【千死蛮行】キルブルータリティ、殺害衝動が()まない力。【泣き面に捌】セルフハーム、絶「え」ず自身にダメージを与える力。【印果追う報】アンラッキー、幸福を得る度にそれを固定しそれ以上の幸せは訪れないようにする力。【痛い餓えの「は」利】アドバンテージ、自分の逆境がお前の利益に「な」る力。【寝子に呼晩】グッドナイト、一生眠れなくなる力。【「荷」負う堕ち】ウィークポイント、わかりやすい弱点を増やす力。【【虚底感念】トータルネゲイション、自身が頼れる全ての感覚を極限まで否定し劣化させる力。【盲世の実快】「も」っとも快適でもっとも最悪な世界に見える力。【似たり依ったり】アイデンティカル、個人を問わず自分の認識によって存在の根幹を変えられる力。【意思「の」上にも惨年】エターニティイモータル、自身の意思決定により永遠を過ごせる力。【自実誤人】アイライクユー、自身の視界に映る全てを自身の好みに置き換えられる力。【悪「打」手に乗る】オーバーテイク、相手の先制攻撃を必ず受けてしまう力。【客抑刺】パッシブスタンス、自分からは手を出さないための力。【餌怙贔粋】リリーフメジャーズ、自分よりも弱いお前を強化する力。【一寸の虫ケラに五分もの魂】ラストルーザー、自分よりも弱いお前に合わせる力。【唯言常】ダイイングメッセージ、最期に一つだけお前に残す力。【死がお前を別つまで】ブレークアップカット、お前の体が勝手に両断される力「?」。

『聞こえるかな、僕だよ。とは言うけれど、お前にはこの言葉も認識できないだろうね、けれど慰めにもならないけれど、一言だけ残しておくよ』

 …

『お前が弱いおかげで、驚くことに戦闘時間は2秒を過ぎた、グッドゲームいい勝負だった』

 ……

『うーん、おおよそで11か月かな。その間、体が引き千切られる感覚を味わうといい、僕なりのお前への選別。乗り越えられれば地獄も苦しくないってね』

 …………

「だーから止めとけっておすすめしたんだけどなぁ、話をちゃんと聞けねー馬鹿じゃ、僕には垓が一にも勝てないっていうのにさ」

 ……………………―――。


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