第三話
シュヴァルツリート帝国に来て、半年が過ぎた。
宰相補佐官という、帝国の心臓部とも言える地位を与えられたわたくしは、文字通り馬車馬のように働いた。
いや、この表現は正しくないわね。
故郷でレオルド様のためにしていた献身は、見返りのない苦役だったけれど、ここでの仕事は違った。
やればやるだけ、カイゼル陛下が、帝国の重鎮たちが、そして民が、正当な評価と賞賛を返してくれる。
眠っていた知識欲と探求心が、マグマのように熱く滾るのを感じていた。
「――以上が、我が国が抱える北方諸領の食糧問題に対する、抜本的解決案です。異論のある方はいらっしゃいますか?」
重厚な円卓が置かれた帝国の最高会議室。
居並ぶのは、いずれも一癖も二癖もある年嵩の侯爵や将軍ばかり。
その視線が一斉に、上座に座るわたくしに突き刺さる。
最初は「どこの馬の骨とも知れぬ小娘が」と侮っていた彼らも、今ではわたくしの発言を一言一句聞き漏らすまいと、必死の形相だ。
「……リリアンナ嬢。その、『魔力循環式・大規模植物工場』とやらは、あまりに机上の空論ではないか? 莫大な初期投資に加え、それほどの魔力を安定供給できる魔術師など、我が国にも数えるほどしかおらん」
口火を切ったのは、保守派の筆頭であるゲルハルト侯爵だった。
わたくしは、彼の反論を待っていたとばかりに、完璧な笑みを浮かべた。
「ご懸念はごもっともですわ、侯爵。ですが、その問題はすでに解決済みです」
わたくしが合図をすると、控えていた魔導技師が古びた一枚の石板を運び込んでくる。
「これは、先日、古代遺跡から発掘された『魔力増幅の魔法陣』です。解析の結果、微弱な魔力でも数百倍に増幅させることが可能だと判明いたしました。これを動力源とすれば、必要な魔術師はわずか二名。コストは従来の十分の一以下に抑えられます」
(ふふん、どうかしら。このために、この三日間、地下の書庫に籠って古代ルーン文字を解読していたんですもの。あなた方が酒場でワインを嗜んでいる間にね)
「なっ……! あの解読不能と言われた古代魔法陣を、たった数日で……!?」
「なんと……これさえあれば、北の不毛の大地が、大陸随一の穀倉地帯に生まれ変わるぞ!」
どよめく会議室。
わたくしは、静かに玉座に座るカイゼル陛下へと視線を送った。
彼は、その赤い瞳を面白そうに細め、小さく頷いてみせた。
その絶対的な信頼が、わたくしの何よりの力になっていた。
わたくしの改革は、それだけにとどまらない。
滞っていた隣国との交易路を新たに開拓し、関税システムを刷新して莫大な利益を生み出した。
魔法と科学を融合させた新技術の開発を主導し、帝国の軍事力と生産性を飛躍的に向上させた。
いつしか、わたくしは民からこう呼ばれるようになっていた。
『帝国の至宝』、そして、鉄の意志と氷の理性で改革を断行する姿から『氷の聖女』、と。
その噂は、当然、わたくしを捨てた故郷、アルクス王国にも届いていた。
そして、それは彼らにとって最悪の報せとなった。
わたくしという名の、国の機能を維持するための最重要な歯車を失ったアルクス王国は、面白いように坂道を転がり落ちていった。
わたくしが陰で処理していた膨大な書類は山積みになり、国政は完全に麻痺。
わたくしが築き上げた諸外国との絶妙なパワーバランスは崩壊し、次々と不利な条約を結ばされ、国富は流出していった。
『花の妖精』ことセリナは、難しい王妃教育に早々に音を上げ、「お勉強なんて、可愛くないからキライですぅ」と泣き喚いては、レオルド様を困らせているらしい。
その結果、どうなったか。
アルクス王国から、一通のふざけた書簡が届いたのだ。
「――『リリアンナ・ヴァインベルクは、もともと我が国の次期王妃。かの者の功績は、すべてアルクス王国に帰属するものである。速やかにその身柄を返還されたし』……か」
玉座で書簡を読み上げたカイゼル陛下は、心底つまらなそうにそれを床に投げ捨てた。
「猿は、木から落ちても猿、ということか」
冷え冷えとした声に、わたくしは思わず苦笑する。
「陛下。猿に失礼ですわ。彼らはもう少し学習能力というものを持っています」
(それにしても、まあ、見事なまでの自己中心的な言い分。わたくしは物ですらないのね。所有権はアルクス王国にある、と。呆れて言葉も出ないわ)
「レオルド王子が、使者としてこちらへ向かっているそうだ。直接、貴女と話がしたい、と」
「まあ。どの面を下げていらっしゃるのかしら」
「会うか?」
カイゼル陛下の赤い瞳が、わたくしの心を射抜くように見つめてくる。
わたくしは、少しだけ考えてから、はっきりと頷いた。
「ええ、お会いしましょう。わたくし自身の口から、引導を渡してさしあげませんと」
これは、過去との決別のための、最後の儀式なのだから。
数日後。
帝国の謁見の間で、わたくしは一年ぶりにレオルド様と対面した。
久しぶりに見る彼は、以前の輝くような自信を失い、憔悴しきった様子だった。隣には、不安げな表情で寄り添うセリナの姿もある。
「リリアンナ……!」
レオルド様は、わたくしの姿を認めるなり、縋るような声で叫んだ。
「ああ、リリアンナ! 無事で、本当によかった……!」
(あらあら。芝居がかった台詞。まずは同情を引く作戦かしら?)
わたくしは感情の読めない笑みを浮かべ、優雅にカーテシーをした。
「お久しぶりでございます、レオルド『元』王子殿下。本日は、どのようなご用件で?」
『元』という部分を強調すると、彼の顔が苦痛に歪んだ。
そう。彼の失政の責任を問う声が国内で高まり、すでに王太子位は剥奪の危機にあると聞く。
「リリアンナ、頼む! 国へ、私の元へ帰ってきてくれ!」
彼は、見苦しくも床に膝をついた。
「私が、私が間違っていた! お前のいない王国は、もうめちゃくちゃなんだ! お前の力が必要なんだ、リリアンナ!」
「まあ」
わたくしは、心底可笑しくて、扇で口元を隠した。
「今さら、わたくしの力が必要になりましたの? わたくしは、愛想もなければ心も冷たい、嫉妬深いだけの女ではございませんでしたこと?」
「そ、それは……! あれは、その、お前の本当の価値に気づかせるための、私なりの芝居だったんだ!」
「はあ」
「セリナのことも、お前を試すためのただの当て馬で……そうだ、全部嘘だったんだ! 私が本当に愛しているのは、昔からずっと、お前だけだ、リリアンナ!」
「お、お兄様、ひどい……!」
隣でセリナが悲鳴を上げるが、レオルド様はもうなりふり構っていられないようだった。
(……ああ、なんて陳腐な言い訳)
昔のわたくしなら、この言葉に一縷の望みを抱いて、愚かにも彼の胸に飛び込んでいたかもしれない。
けれど、今のわたくしには、彼の言葉は騒音にしか聞こえなかった。
なぜなら、わたくしはもう知ってしまったから。
本当の信頼が、本物の愛情が、どれほど温かく、そして力強いものなのかを。
わたくしは、氷のように冷たい声で、彼に最後の通告をした。
「お言葉ですが、王子殿下。わたくしの真価を、その程度のお芝居をしなければ見抜けなかった方に、わたくしを御する資格はございませんわ」
「わたくしの居場所は、ここ。わたくしの力を必要とし、正当に評価してくださる、偉大なる皇帝陛下の隣だけです」
「そん、な……」
レオルド様の顔から、血の気が完全に引いていく。
その時だった。
謁見の間の扉が開き、カイゼル陛下が悠然と入ってきた。
そして、打ちのめされるレオルド様の横を通り過ぎると、まっすぐにわたくしのもとへ歩み寄り、その肩を強く抱き寄せた。
「――聞かせる相手を間違えるな、アルクスの元王子」
カイゼル陛下の声は、絶対零度の響きを帯びていた。
「『愛している』? 笑わせるな。貴様が口にしたのは、己の保身のための戯言にすぎん。だが、俺は違う」
彼は、わたくしの髪を優しく撫でると、その赤い瞳で、射殺さんばかりにレオルド様を睨みつけた。
「リリアンナは、我が帝国の至宝であり、俺の唯一の光だ。貴様のような愚か者に、彼女の指一本触れさせるものか」
そして、カイゼル陛下は、わたくしに向き直ると、世界中の誰に聞かせるでもなく、ただわたくしのためだけに、その言葉を紡いだ。
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、熱く、激しく、わたくしの心を揺さぶる響きを持っていた。
「リリアンナ。愛している」
「貴様のその類まれなる才能も、凍てついた心も、誰にも見せなかった涙も、その全てを、この俺に寄越せ」
レオルド様が、完全に敗北を悟った顔で、その場に崩れ落ちるのが見えた。
けれど、もう、そんなことはどうでもよかった。
わたくしの視界には、ただ一人。
わたくしの全てを肯定し、欲してくれる、この世で最も尊い皇帝陛下の姿だけが映っていた。
わたくしの頬を、熱い雫が、静かに伝っていく。
それは、絶望の夜会で流すことのなかった、初めての嬉し涙だった。




