第二話
地を這うような低い声。
その一言は、まるで凍てつく刃のように天空の間の空気を切り裂いた。
全ての視線が、ホールの中央へと歩みを進める漆黒の皇帝、カイゼル・フォン・シュヴァルツリート陛下に注がれる。
レオルド様が、動揺を隠せない声で問いかけた。
「カ、カイゼル陛下……! なぜ貴方が、我が国の夜会に……?」
招待状も出していないはずの、隣国の皇帝の突然の来訪。
それは、国際問題に発展しかねない異常事態だった。
カイゼル陛下は、そんなレオルド様の狼狽など意にも介さず、面白そうに唇の端を吊り上げた。
その血のように赤い瞳が、私を一瞬だけ捉え、そして再びレオルド様へと向けられる。
「少し野暮用があってな。だが、実に面白いものが見られた。――真実の愛、だったか?」
ククク、と喉の奥で笑う声が響く。
それは、嘲笑だった。
誰の目にも明らかな、侮蔑と軽蔑に満ちた笑い。
「『真実の愛』という言葉を盾にすれば、長年の婚約者への裏切りも、国家間の契約の反故も、全てが許されると。なるほど、アルクス王国の王族とは、随分と便利な思考回路をお持ちのようだ」
「なっ……無礼な! これは我らの愛の物語だ! 部外者が口を挟むことでは――」
「部外者、か」
カイゼル陛下は、レオルド様の言葉を遮ると、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、わたくしの目の前までやってきた。
そして、思いがけない行動に出たのだ。
彼は、完璧な作法で片膝をつくと、わたくしの冷え切った手を取り、その甲に恭しく口づけをした。
「リリアンナ・フォン・ヴァインベルク嬢。貴女が三ヶ月前に匿名で王国に提出した『対魔大陸貿易における関税自由化の利点と潜在的リスクに関する報告書』、実に興味深く拝読した」
「――え?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
今、この方は、なんと言った?
あの報告書は、公務に追われるレオルド様の負担を少しでも減らそうと、わたくしが三日三晩徹夜して書き上げ、彼の名前で提出させたものだ。
彼自身は、目を通しすらしていないはずなのに。
カイゼル陛下は、驚きに目を見開くわたくしを気にも留めず、淡々と続ける。
「昨年、北部を襲った大干ばつの際、周辺領地の備蓄穀物を迅速に再分配し、王都の食糧価格の暴騰を未然に防いだ計画。あれを立案したのも貴女だろう。レオルド王子は、飢饉を乗り越えた名君として他国から賞賛されていたが、実のところ、状況を把握すらしていなかったと聞く」
「そ、れは……」
「五年前、東の国境で小競り合いが起きた際、現地の騎士団だけでは戦力が不足すると判断し、隣接するヴァインベルク公爵領の私兵を独断で派遣。結果、紛争の拡大を防ぎ、多大な国益を守った。当時、貴女はまだ十三歳。まさに神童と言うべき采配だ」
次から次へと、カイゼル陛下の口から語られるのは、わたくしが「レオルド様のため」「国のため」に行ってきた、誰にも知られていないはずの功績の数々だった。
レオルド様の手柄として処理され、わたくしの名前など歴史のどこにも残らないはずだった、小さな努力の積み重ね。
(なぜ……? どうして、この方がご存知なの……?)
混乱するわたくしとは対照的に、レオルド様の顔はみるみるうちに青ざめていく。
父であるヴァインベルク公爵も、信じられないものを見るような目でわたくしとカイゼル陛下を交互に見つめている。
会場の貴族たちが囁き合う声が聞こえる。
「まさか、あの政策もリリアンナ様が?」
「王子の功績は、全て彼女のものだったというのか……?」
カイゼル陛下は、そんな周囲の反応に満足したように頷くと、立ち上がってわたくしと視線を合わせた。
その赤い瞳は、恐ろしいほどに真剣だった。
「リリアンナ嬢。貴女は、その類まれなる頭脳と政治的手腕で、この十年、アルクス王国を陰から支え続けてきた。その献身は、ダイヤモンドの原石にも勝る価値がある。――だというのに」
彼はそこで一度言葉を切り、氷の視線でレオルド様を射抜いた。
「この愚かな王子は、ダイヤモンドの原石をただの石ころと勘違いし、道端に転がるガラス玉を拾い上げて『これこそが宝だ』と喚いている。滑稽を通り越して、哀れですらある」
ガラス玉、と言われたセリナが、「ひっ」と短い悲鳴を上げてレオルド様の影に隠れる。
レオルド様は、屈辱に顔を真っ赤に染め、わなわなと震えていた。
「黙れ、黙れ、黙れ! リリアンナがそんなことをできるはずがない! 全部貴様の作り話だ!」
(……ああ、そう。そうですよね。あなたは、わたくしのことなど、何一つ見てはいなかったのですから)
もはや、悲しみも怒りも湧いてこない。
ただ、心がひび割れたガラスのように、冷たく冷え切っていくのを感じるだけだった。
そんなわたくしの心中を見透かしたかのように、カイゼル陛下はふっと表情を和らげると、再びわたくしに向き直った。
そして、世界中の誰もが予想しなかったであろう言葉を、その唇に乗せたのだ。
「リリアンナ・フォン・ヴァインベルク嬢。単刀直入に言おう」
「その類まれなる才能、我がシュヴァルツリート帝国のために振るう気はないか?」
「…………はい?」
今度こそ、わたくしは完全に思考を停止させた。
(え? え、なんですって? 帝国のために、わたくしの才能を? それはつまり、どういう……え、スカウト? 国家規模のヘッドハンティングですの!?)
あまりに突飛な申し出に、わたくしの脳内は大混乱に陥る。
カイゼル陛下は、そんなわたくしの動揺を楽しんでいるかのように、続けた。
「もちろん、妃として迎え入れるという話ではない。それでは、この愚かな王子と同じになってしまうからな。私が欲しいのは、公爵令嬢という飾り物ではない。――政治家であり、参謀であり、改革者である『リリアンナ・ヴァインベルク』、貴女自身の力だ」
彼は、わたくしの肩書きでも、家柄でも、女としての価値でもなく。
「わたくし自身」が欲しい、と。そう言ったのだ。
「帝国に来てくれるのならば、貴女に宰相補佐官の地位と、それに相応しい権限、そして報酬を約束しよう。貴女の能力が正当に評価され、存分に発揮できる場所。それが我がシュヴァルツリート帝国だ」
それは、悪魔の囁きのように甘く、抗いがたい響きを持っていた。
今まで、誰からも認められることのなかった自分の価値を、初めて「必要だ」と言ってくれた人が現れたのだ。
それも、大陸一の大国を率いる、若き皇帝陛下。
わたくしは、震える唇で問いかけた。
「……なぜ、そこまで。わたくしに、それほどの価値が?」
「価値?」
カイゼル陛下は、心底不思議そうに首を傾げた。
「決まっているだろう。――私が、貴女の真価を見抜いたからだ。それだけでは、理由として不十分か?」
ああ、この人は。
この皇帝陛下は、本物だ。
言葉だけでなく、その瞳が、態度が、全身全霊でわたくしの価値を信じ、認めてくれている。
レオルド様が、慌ててわたくしの腕を掴んだ。
「待て、リリアンナ! 行くな! お前は私の、私の婚約者だったんだぞ!」
「元、婚約者でしょう?」わたくしは冷たく言い放ち、その手を振り払った。
「お父様!」
今度は、父に縋るような視線を向ける。
父は、苦渋に満ちた表情で俯いたまま、何も言わない。
もう、わたくしを引き留める権利など、この家の誰にもないのだ。
(もう、いいわよね)
この国にも、この家にも、あの男にも、未練など、ひとかけらも残っていない。
むしろ、こんな場所で才能を腐らせるくらいなら、新天地で全てを賭けてみたい。
わたくしは、カイゼル陛下の真っ直ぐな赤い瞳を見つめ返した。
そして、この十数年間で、最も晴れやかな気持ちで、こう告げたのだ。
「――お受けいたします、カイゼル陛下。このリリアンナ・ヴァインベルク、不肖ながら、貴方の剣となり、盾となりましょう」
その言葉を聞いたカイゼル陛下は、満足げに微笑むと、わたくしにその手を差し出した。
「良い返事だ。では、行こうか。我が帝国の、新たなる至宝殿」
わたくしは、迷うことなくその手を取った。
カイゼル陛下にエスコートされ、唖然とする人々を置き去りにして、わたくしたちは堂々と天空の間を後にする。
すれ違いざま、レオルド様の絶望に染まった顔が見えた。
セリナが、何かに怯えるように震えているのも。
(さようなら、王子殿下。さようなら、わたくしの愛したアルクス王国)
もう二度と、振り返ることはないだろう。
帝国へ向かう豪華な竜馬車の中で、カイゼル陛下は隣に座るわたくしに、ふと問いかけた。
「後悔は、ないか」
「ええ、微塵も」
わたくしは、窓の外を流れる王都の景色を見ながら、きっぱりと答えた。
「ただ、少しだけ。どうして陛下が、わたくしのことをそこまでご存知だったのか、気になりますわ」
すると、カイゼル陛下は少しだけばつが悪そうに視線を逸らした。
「……我が国の諜報員は、優秀でな」
(あらあら。そんな簡単な理由のはず、ありませんわよね?)
その横顔に、今まで感じたことのない興味と、ほんの少しの親近感を覚えながら、わたくしは気づかれないように小さく微笑んだ。
初めて、正当に評価される喜び。
初めて、自分自身を認めてくれる存在。
凍てついていたわたくしの心に、確かな熱を持つ何かが、ぽたりと落ちたような気がした。
それは、新しい人生の始まりを告げる、温かい雫だった。




