第一話
王城で最も壮麗な「天空の間」。
その名の通り、天井には魔法で再現された満天の星が煌めき、床には磨き上げられた黒曜石がその星々を映し出す、幻想的な空間。
今宵は、我が婚約者であるレオルド・フォン・アルクス王国第一王子の生誕を祝う夜会が開かれていた。
「リリアンナ、少しは笑ったらどうだ。せっかくの美しい顔が台無しだぞ」
隣に立つレオルド様が、誰にも聞こえない声でそっと囁く。
その声には、砂糖菓子のような甘さの中に、ほんのわずかな苛立ちが滲んでいた。
「申し訳ありません、レオルド様。ですが、わたくしは『次期王妃は常に微笑みを絶やさず、しかし決して軽薄に見せてはならない』と、王妃教育でそのように」
「ああ、もういい! そういう理屈っぽいところが可愛くないと言っているんだ」
(……出たわね、伝家の宝刀『可愛くない』。こちらの言い分を全て封殺する魔法の言葉。ええ、ええ、どうせわたくしは可愛げのない女ですよ)
内心で毒づきながらも、わたくしは完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けた。
「お言葉、肝に銘じますわ」
ヴァインベルク公爵家の長女として、物心ついた頃からこの方の婚約者として生きてきた。
彼の妃にふさわしい存在になるため、血の滲むような努力を重ねてきた自負がある。
帝王学、外交術、経済学、歴史学、魔法理論。
ダンスや作法、楽器の演奏に至るまで、全てを完璧にマスターした。
レオルド様が苦手とする書類仕事は、夜を徹してわたくしが代筆し、諸外国との交渉で彼が失言をすれば、即座にフォローを入れて国益を守った。
全ては、彼が次期国王として輝くために。
このアルクス王国を、より豊かにするために。
その一心だった。
彼から感謝や労いの言葉をかけられたことは、ただの一度もなかったけれど。
ふと、レオルド様の視線が、ダンスホールの中心でひときわ華やかに舞う一人の少女に吸い寄せられていることに気づく。
淡い桜色のドレスをふわりと揺らし、天使のような笑顔を振りまいているのは、わたくしの妹、セリナ。
姉のわたくしとは対照的に、生まれつき病弱で、公爵令嬢としての教育も最低限しか受けていない。その代わり、神様は彼女に、誰からも愛される天性の可憐さと、男心をくすぐる甘え上手な才能をお与えになった。
レオルド様が、彼女に心を奪われていることくらい、ずっと前から知っていた。
彼の執務室に、セリナが作ったという不格好な刺繍のハンカチが大切に飾られていたのを見た時から。
わたくしが彼の公務のために準備した資料よりも、セリナから届いた短い手紙を優先して読んでいた時から。
(まあ、いいわ。恋愛ごっこは好きになさいませ。最終的に彼の隣に立ち、この国を支えるのは、このわたくしなのだから)
そう自分に言い聞かせ、胸に巣食う黒い感情を無理やり押し殺した。
わたくしは公爵令嬢。次期王妃。
嫉妬などというみっともない感情に、心を支配されてはならない。
音楽が一区切りつき、ダンスを終えたセリナが、子犬のようにレオルド様のもとへ駆け寄ってくる。
「お兄様! 今のセリナのダンス、見ていてくださいました?」
「ああ、もちろんさ、セリナ。君は今宵の夜会で、誰よりも輝いていたよ。まるで花の妖精のようだった」
レオルド様は、わたくしには決して見せないような、とろけるように甘い表情で妹を見つめる。
その隣で、わたくしはまるで美しい置物のように、ただ静かに佇んでいた。
(妖精……ねえ。妖精は国を治められませんわよ? そもそも、あのステップ、三回も間違えていたけれど。指摘はしないのが優しさかしら)
そんなことを考えていた、その時だった。
レオルド様が、セリナの小さな手をそっと握りしめ、わたくしの方へと向き直った。
そして、会場中の注目を集めるように、高らかに声を張り上げたのだ。
「皆、静粛に! 今宵、我が誕生日の祝いの席で、皆に発表したいことがある!」
ざわめきが、ぴたりと止む。
貴族たちの視線が、一斉にわたくしたち三人に突き刺さった。
嫌な予感が、背筋を氷のように冷たく撫でていく。
やめて。
まさか、そんなはずは、ないわよね……?
わたくしの願いも虚しく、レオルド様の唇は、残酷な言葉を紡ぎ出した。
「リリアンナ・フォン・ヴァインベルク公爵令嬢! 貴様との婚約は、本日をもって破棄させてもらう!」
シン、と静まり返る天空の間。
天井の星々が、まるでわたくしの愚かさを嘲笑うかのように、きらきらと輝いている。
(……は?)
頭が真っ白になる。
今、この方は、なんとおっしゃった?
婚約、破棄? この、わたくしと?
「な……にを、おっしゃって……」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
レオルド様は、そんなわたくしを冷酷な目で見下すと、さらに言葉を続ける。
「貴様は、その嫉妬深さから、か弱く心優しい我がセリナを、長年にわたって虐げ続けてきた! 階段から突き落とそうとしたり、ドレスを切り裂いたり、ああ、なんて恐ろしい女だ!」
「そ、そんな……わたくしは、一度も……!」
「黙れ! 言い訳は聞きたくない! このセリナの涙が、何よりの証拠だ!」
そう言って彼が庇うように抱きしめた腕の中で、セリナはか弱く嗚咽を漏らし、「お姉様……ひどいですぅ……わたくし、お姉様の幸せを、ずっと願っていたのに……うっく」と、見事なまでの被害者を演じきっていた。
(……ああ、なるほど。そういう筋書きなのね)
一瞬で、血の気が引いていく。
全身の力が、指先からすうっと抜けていくような感覚。
彼らが、いつからこんな茶番を計画していたのかは知らない。
けれど、わたくしがどれだけ否定しようと、この場でわたくしの言葉を信じる者など、誰一人としていないだろう。
第一王子と、天使のように愛らしい公爵令嬢。
そして、嫉妬に狂った、可愛げのない婚約者。
どちらの言葉が人々の心に響くかなど、考えるまでもない。
わたくしは、助けを求めるように、会場の隅に立つ実の父親、ヴァインベルク公爵へと視線を向けた。
お父様、どうか、わたくしの無実を証明してください、と。
しかし、父は痛ましげに眉を寄せると、深く、深く頭を下げた。
「王子殿下、そして皆様。この度の長女リリアンナの愚行、心よりお詫び申し上げます。この父の監督不行き届きでございます。リリアンナに代わり、このヴァインベルク公爵が、いかなる罰でもお受けいたします」
(……ああ、お父様まで)
終わった。
完全に、終わったのだ。
家族にさえ、見捨てられた。
長年積み上げてきた努力も、国のために尽くしてきた献身も、全てが意味をなさなかった。
たった一人の少女の、可憐な嘘と涙の前では、あまりにも無力だった。
レオルド様は、勝ち誇ったように笑みを浮かべると、最後の追い打ちをかけるように言い放った。
「お前のような、愛想もなければ心も冷たい女ではなく、この純真で可憐なセリナこそが、私の隣に立つにふさわしい。これぞ、真実の愛なのだ!」
真実の、愛。
その言葉を聞いた瞬間、ぷつり、と。
わたくしの中で、何かが切れる音がした。
(――ああ、そう。そうでしたか)
もう、どうでもいい。
この方のために心を砕くことも、この国のために身を粉にすることも、もう、全て。
わたくしは、静かに背筋を伸ばした。
みっともなく泣き喚いたり、取り乱したりするものか。
最後くらい、完璧な公爵令嬢として、この場を去ってやる。
「……王子殿下のお言葉、確かに承りました。このリリアンナ・フォン・ヴァインベルク、本日の婚約破棄を、謹んでお受けいたします」
毅然とした態度でそう告げると、深々とカーテシーをした。
顔を上げたわたくしの目に、もう何の感情も宿ってはいなかった。
ただ、どこまでも広がる、虚無だけがあった。
さあ、これでこの茶番も終わりでしょう。
早くこの場から立ち去って、修道院にでも入ろうか。
そう考えた、その時だった。
会場の重々しい扉が、音を立てて開かれる。
そして、凛とした、それでいて底冷えのするような声が、静まり返ったホールに響き渡った。
「――実に、滑稽な茶番劇だな」
その声に、誰もが息を呑んで振り返る。
そこに立っていたのは、漆黒の軍服に身を包んだ、一人の青年。
夜の闇を溶かしたような黒髪に、血のように赤い瞳。
その圧倒的な存在感と、見る者全てをひれ伏させるような威圧感は、この場にいる誰よりも格上であることを示していた。
隣国、シュヴァルツリート帝国の若き皇帝。
『冷徹皇帝』と恐れられる、カイゼル・フォン・シュヴァルツリート陛下、その人だった。
カイゼル陛下は、ゆっくりとホールの中へ歩みを進めると、その赤い瞳で、レオルド様と、その腕の中のセリナを一瞥した。
そして、凍えるような冷たい笑みを、その美しい唇に浮かべたのだ。
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