第4話 血の条約
夜明けの空は灰色だった。
王都の北門に残された千の灯籠は、風にあおられてゆらめき、燃え尽きたものから灰が舞い上がっていた。
その灰は、夜の戦火ではなく、“戦わなかった”証だった。
――だが、誰もまだ、勝利を実感してはいなかった。
「陛下、もう休まれねば!」
「この程度の傷で寝ていられるか」
ギルベルが止血の包帯を巻き直しながら、眉をしかめた。「肩に矢が刺さって“程度”ですか」
ユウトは笑ってみせる。「なに、前の職場じゃ徹夜明けで会議に出るのが常だった」
ギルベルはため息をついた。「その“職場”というのは、どんな地獄だったのです?」
「魔王城より騒がしかったな。上司の雷も落ちるし、残業は永遠に終わらない」
ユウトの冗談に、側近たちは一瞬だけ笑った。
笑えること自体が、奇跡のように思えた。
彼らはまだ、王国がこの出来事をどう受け止めるのかを知らない。
北門での流血は、双方にとって“痛み”であり“象徴”だった。
◇
王都の大聖堂。
枢機卿エリオットは、祭壇の前で怒りを噛みしめていた。
兵が報告する。「魔王は矢を受けながらも、反撃せず……民に“剣より祈りを”と語りました」
「民がどう反応した」
「……拍手しました」
その言葉に、老人の目が細くなる。
「この国の信仰は、もう魔に奪われたというのか」
彼は震える手で聖書を叩いた。「神の声が届かぬなら、我らが神の代わりに裁きを下すしかない」
側近が恐る恐る問う。「つまり……」
「聖戦だ。真の意味でのな」
老枢機卿の宣言は、教国全土に響き渡った。
だが同じころ、勇者カイルは拘束を解かれ、王都の外郭に出ていた。
彼を解放したのは、若い文官だった。
「命じられました。勇者様の“処刑”を明日の儀式にて……だから今夜のうちに逃げてください」
文官は震えていた。「俺……信じたんです。魔王の灯籠を見て。あれが悪なら、俺たちは何なんですか」
カイルは短く礼を述べた。「ありがとう。必ず、戻る」
そして、彼は北門の外へと向かった。
◇
夜風が冷たい。
魔王城の医務室では、ユウトが椅子に座ったまま地図を見つめていた。
左肩はまだうずくが、頭は妙に冴えている。
机上には新しい紙が広げられていた。
「魔界と人間界との停戦協定案」――
その上には、異世界の文字で書かれた奇妙な文体の文書。彼自身の手による「条約草案」だった。
「名づけて、“血の条約”」
ギルベルが首を傾げた。「血の……?」
「どちらの血も、もう流れすぎた。だから、それを“起点”にする。恨みではなく、証としてな」
彼は紙に一行を書き足す。
“この血をもって、我らは戦を止める。”
「難しいことを……」とギルベルが苦笑した。「相手が同意しますか?」
「同意しなくても、書いておくことが大事なんだ。歴史ってのは、先に書いたほうが勝つ」
ユウトの言葉に、部屋の空気が静まり返る。
戦場を制するより、“記録”を制する――その考えは、この世界の誰も持っていなかった。
そのとき、扉がノックされた。
「勇者カイル、参上を願う」
兵士の声に、ギルベルが驚く。「まさか、もう……」
ユウトは微笑んだ。「予定より早かったな。彼、やっぱり真面目だ」
◇
再会の場は、魔王城の小会議室だった。
窓の外には、薄く月が滲んでいる。
カイルは軽装で、剣は持っていなかった。
ユウトは包帯の上からローブを羽織り、軽く手を挙げた。
「無事だったか」
「お互いにな。……まさか、あの矢を受けても立っていられるとは思わなかった」
「根性だけは、異世界最強だからな」
カイルは笑い、すぐに真顔に戻った。
「王都では“聖戦”が正式に宣言された。明日の正午、教国軍が北門へ進軍を開始する」
「……早いな」
「だが、民は違う。あの灯籠の光を見た者の中には、武器を捨てた兵もいる。今なら、対話が間に合うかもしれない」
ユウトは頷き、机の上の紙を差し出した。
「これを見てくれ。“血の条約”と名付けた」
カイルは紙を手に取り、目を走らせた。
条文は短く、たった三つの約定で構成されている。
一、双方の民の流した血をもって、戦を止めること。
二、勇者と魔王は共に代表し、互いの民に誓うこと。
三、破る者あらば、その者こそ真の“悪”とすること。
読み終えたカイルは、しばらく黙っていた。
「……これは、神にも、人にも、どちらにも属さない約定だな」
「そう。だからこそ意味がある。正義と悪の境界を越えた“第三の約束”だ」
「もしこれを世に出せば、どちらの陣営からも裏切り者と呼ばれる」
「構わない。俺はもともと、“魔王”だ」
ユウトの笑みに、カイルも微かに笑った。
そして、ゆっくりと指を伸ばし、自らの親指を切る。
滴る血が、条約の署名欄に落ちた。
ユウトも同じように、血を落とす。
二つの血が、紙の上で混ざり合い、紫色に滲んだ。
「これで、名前の意味ができたな」
ユウトが笑う。「血の条約、成立だ」
◇
だが――その瞬間、窓の外から矢が飛び込んできた。
ユウトが反射的に腕を上げ、矢を弾いた。
廊下から悲鳴が上がる。
「刺客だ!」
カイルは即座に剣を抜いた。
扉を蹴破って入ってきたのは、黒衣の男たち。
動きは訓練された兵。教国の暗部「浄化師団」――異端を“浄める”ことを使命とする者たち。
リーダー格の男が叫ぶ。「勇者も魔王も、神の敵だ!」
ユウトが舌打ちする。「宗教戦争、か……最悪の展開だな」
カイルは剣を構え、ユウトの前に立った。「ここは俺が防ぐ。お前は――」
「お前呼びはやめろ。“陛下”だ」
「……ふざけるな!」
ふたりの短い笑いが交錯する。
その直後、剣と刃が火花を散らした。
ユウトは右手に魔力を集め、指を鳴らした。
床に刻まれた古代の紋章が輝き、突入してきた兵士たちの足元に光の陣が展開する。
「光の封印……? 魔族の術ではない!」
ユウトは肩をすくめた。「“科学”だ。俺の世界のエレベーターに似てる。下には行かせない仕組みだ」
床が開き、兵士たちは地下の牢へと吸い込まれていった。
カイルが目を丸くする。「……お前、何者なんだ」
「残業に強い一般人」
「冗談言ってる場合か!」
ギルベルが駆け込んできた。「陛下、外にまだ数十人の兵が! 防衛線がもたぬ!」
ユウトは深呼吸をして、机の上の“血の条約”を掴んだ。
「ギルベル、これを鐘の村に持っていけ。鐘の音と一緒に読ませるんだ」
「しかし、陛下……!」
「いいか、条約は“言葉”じゃない、“証”だ。誰かが読むだけで、意味が生まれる。俺が死んでも、これが生きてりゃ戦は止まる」
ギルベルが涙をこらえて頷く。
「承知いたしました、陛下……必ず」
◇
夜明け。
王都へ向かう街道を、ギルベルが馬を走らせていた。
背中の鞄には、血で滲んだ条約書。
遠くで鐘が鳴る。ひとつ、ふたつ、またひとつ。
それは、戦の合図ではなく、言葉の合図だった。
◇
そのころ魔王城の天守では、ユウトとカイルが並んで立っていた。
周囲には残った兵がわずか十数名。
城の外には、教国軍の旗がはためいている。
数千の軍勢。もはや抵抗などできるはずもない。
「撤退しろ」とカイルが言う。「生き延びろ。条約を完成させるには、お前が必要だ」
「それはお前も同じだ。勇者が死んだら、条約の“対”が消える」
ユウトは口角を上げた。「だったら、生き残り勝負だな」
空を裂くように号令が響いた。
教国軍が矢を放つ。
その瞬間――城の塔の上で、鐘が鳴った。
誰が鳴らしたのか分からない。
だが、その音は確かに世界に響いた。
北門の村でも、王都でも、山の向こうの橋でも、同じ鐘が呼応するように鳴り始めた。
戦場が、一瞬、静止した。
兵士たちは耳を傾ける。
風に乗って届いた声が、どこからともなく響く。
「血をもって、戦を止めよ――」
ギルベルが“血の条約”を読み上げていた。
鐘の音が増幅し、声が空を渡る。
兵士たちは互いの顔を見合わせ、矢を下ろした。
誰も、最初の一撃を放てなかった。
◇
日が昇った。
血は流れなかった。
魔王と勇者は生きていた。
そして、両陣営の民の心に、ひとつの記憶が刻まれた。
“戦を止めたのは剣ではなく、言葉だった。”
◇
夕刻、負傷の手当を受けながら、ユウトは窓の外を見た。
遠くで、リュンが鐘の綱を引いている。
あの小さな背中を見て、ユウトは微笑んだ。
「……善人設定ってのも、悪くないかもな」
カイルが笑う。「お前の“悪”は、俺の“正義”より強い」
ユウトは肩をすくめる。「そりゃどうも。じゃあ次は、休日の設定もくれ」
鐘の音が、再び響いた。
その音は、どの剣よりも遠く、深く、世界を震わせていた。




