第3話 魔王、和平交渉を企てる
夜明け前の空は、墨のように濃かった。
魔王城のバルコニーから見下ろすと、街の灯が一本の糸のように伸びている。井戸のある広場には、すでに人影がちらほらと動いていた。
魔族たちが、今日も水を汲み、炊き出しを始めている。
ユウトは欄干に手を置き、深く息を吐いた。
「……“悪の拠点”にしては、早起きすぎるな」
背後で、参謀の老魔族・ギルベルがくぐもった笑い声を立てた。
「陛下のおかげで、民が安心して眠れるようになりましたゆえ。夜盗も、盗賊も、もう出ません」
「平和なのはいいことだ。でもな、ギルベル。平和になりすぎると、どこかが壊れ出すんだ」
ユウトは空を見上げた。夜と朝の境界、群青のグラデーションが、まるで善悪の曖昧さを象徴しているようだった。
「……さて。そろそろ“情報戦”を始めようか」
「情報戦、でございますか?」
「ああ。戦争を止めるには、戦うより先に“意味”を壊すんだ。
つまり――『魔王=悪』という構図を、情報でぶっ壊す」
ギルベルが頷く。「また、妙な策を……」
「妙じゃないさ。俺の前世の世界じゃ、真実より“印象”のほうが早く走る。なら、印象を作り替えればいい。悪役でも、ニュースのトップに『慈悲深き魔王』って出れば、それが正義になる」
魔族参謀が苦笑した。「……言葉で戦を止めるとは、陛下らしい」
ユウトは机に地図を広げた。
赤い線が王国との国境を示している。その手前に小さな点――橋と村。そして、その村には、最近“鐘”が設置されたばかりだ。
「まず、橋沿いの村々に“鐘の連絡網”を広げる。王国が動けば、鐘が鳴る。村ごとに連携して動くんだ。報復も、略奪も、誰も得しないと教える」
「鐘が……武器の代わり、ということですか」
「そうだ。俺たちは武器より“言葉”を響かせる。
それに、勇者カイルが協力してくれれば、双方に伝えられる。――俺たちは、戦わない意思を持っているってな」
◇
一方その頃。
王都の北塔の地下室で、勇者カイルは軟禁状態に置かれていた。
名目は「謹慎」。だが実態は監視だ。
窓は小さく、光は届かない。壁に掛けられた聖印が、皮肉のように冷たく光っている。
「勇者が“魔王と通じた”なんて話、誰が信じると思ってるんだ」
ミーナの声が暗闇に響く。彼女は牢の格子の外、見張りの兵士に隠れて囁いた。
「誰も信じなくてもいい。真実は、鐘が鳴る時に届く」
「鐘……? あの子のこと?」
「ああ。リュンたちが動いてる。魔王領から王国の町まで、“平和を知らせる鐘”を広げてるんだ。王都がどれだけ隠しても、民の耳は塞げない」
ミーナは不安げに眉を寄せた。「それ、王都にとっては反逆よ」
「知ってる。でも、“正義”を奪われたまま、黙ってるほうがよほど罪だ」
カイルの言葉は、静かだが強かった。
それは剣よりも真っすぐな意志の音だった。
◇
王都の上層部は焦っていた。
魔王領からの「慈善活動」の噂が止まらない。橋の修繕、孤児院の開設、無償の医療……そして“鐘”。
鐘が鳴るたびに、人々はこう囁く。
――「魔王様が、また誰かを助けたらしい」
――「人間の国のほうが、よっぽど冷たいじゃないか」
このままでは民心が奪われる。
枢機卿は拳を握りしめた。「あの魔王、神に成り代わる気か……」
彼は即座に宣言する。「“聖戦”を布告する。魔王を討てぬなら、信仰が死ぬ」
その一言で、王都は再び血の準備を始めた。
◇
「……聖戦、か。嫌な響きだな」
報告を受けたユウトは、深く眉をひそめた。
ギルベルが言う。「陛下、撤退を? 城を捨て、民を避難させれば被害は最小に……」
「いや、それじゃ“逃げた悪”になるだけだ」
ユウトは椅子から立ち上がった。
「俺が築いた橋も井戸も、全部意味を失う。民は“善”を信じられなくなる。だから、逃げない。――戦わずに、勝つ」
「……どうやって、ですか」
「俺たちの“敵”は兵じゃない。誤解だ」
ユウトは地図の上に、幾つかの印を付けた。
鐘の村、医療隊、交易路……そして王都へ通じる地下水脈の線。
「この線を使う。王国側にも井戸が繋がっている。水は、人間も魔族も分け隔てなく流れる。
なら、その流れに――“真実”を流せばいい」
「真実……?」
「この世界の“情報”は、人の口と噂に頼ってる。なら、水を通して伝えよう。
俺が前世で使ってた“印刷術”の簡易版――木版に文字を刻んで、井戸の底に沈める。くみ上げたとき、水に溶けた墨が“言葉”になる。『戦わないで』『私たちは敵じゃない』――そういう短い祈りを、井戸ごとに流す」
ギルベルは目を見開いた。「それは……魔術でもないのに、まるで魔術のようだ」
「科学ってやつさ。言葉を水に溶かすだけで、世界は変わる」
◇
数日後。
王都の貧民区の井戸から、水を汲み上げた少女が叫んだ。
「お母さん! お水が……しゃべった!」
桶の中に浮かぶ薄墨の文字は、太陽の光を反射して滲み、こう読めた。
“わたしたちは、敵ではない”
それは瞬く間に人々の間で話題になり、恐怖と好奇心が入り混じった波となって広がった。
誰かが言った。「魔王の仕業だ」
別の誰かが答えた。「でも、この言葉に悪意はない」
さらに別の誰かが、「じゃあ、本当の悪は誰なんだ?」と呟いた。
その問いが、王都全体に感染するように広がった。
◇
枢機卿は激怒した。「魔王が神の水を汚した!」
だが、怒りの演説をしても、民の表情はもう変わらなかった。
戦争を望まない者が増えていた。
兵士の中にも、「魔王は悪ではない」と囁く者が現れ始めた。
そんな中、牢に繋がれていたカイルに密書が届いた。
送り主はユウト。
内容は、たった一行。
――“鐘が鳴る夜に、王都の北門を見てくれ”
◇
夜。
王都の北門前。
兵士の見張りの下、静かに霧が漂っていた。
やがて、遠くから「ゴーン」と鐘の音が響いた。
ひとつ、またひとつ。
まるで連鎖するように、各地の鐘が鳴り始める。
その音に合わせるように、北門の外から列をなした灯火が現れた。
魔族たちが、松明ではなく“灯籠”を手に歩いてくる。
その灯籠には、子どもや老人、治療師、商人――武装した兵士はいない。
彼らは静かに門の前に立ち、地面に灯籠を並べた。
灯籠の側面には、同じ言葉が刻まれていた。
“敵を作るより、井戸を作ろう”
カイルは門の上からその光景を見つめ、息を呑んだ。
誰も叫ばず、誰も攻撃しない。ただ静かに、光が並ぶ。
兵士たちが戸惑う中、ひとりの少年が群れの先頭に出た。
角の小さなリュンだ。
彼は両手を口に当て、大声で叫んだ。
「お水、ありがとう!」
それは、戦の号令ではなかった。
子どもの感謝の声。
だがその一言が、兵士たちの剣を鈍らせた。
王都の兵長が呻くように言う。「……これが、攻撃か?」
カイルは首を振った。「違う。――これは、交渉だ」
ユウトは群れの後方に立っていた。
風に黒い外套が揺れる。
彼はゆっくりと手を上げ、掌を開いた。
その仕草だけで、群衆のざわめきが止まった。
静寂の中、魔王の声が響く。
「戦わない勇気を、見せに来た」
門上のカイルが叫ぶ。「ユウト!」
その名を呼んだ瞬間、矢が放たれた。
王国の右翼――暴走した一兵の矢だった。
空を切る音。
ユウトはとっさにギルベルを庇い、左肩に矢を受けた。
「陛下ッ!」
悲鳴が上がり、灯籠の列が乱れた。
ユウトは苦痛を押し殺しながらも、倒れずに立っていた。
彼は血を流しながらも、静かに笑った。
「……ほらな。これが“善人ポイント”の恐ろしさだ。
痛いのに、みんな拍手する」
その皮肉に、ギルベルが涙ぐむ。
カイルは門から飛び降り、地面に膝をついたユウトのもとへ駆け寄った。
矢を抜き、布で止血する。
「何で、そこまで……!」
「お前が言ったろ。剣より、言葉だって」
ユウトの声はかすれ、しかし確かだった。
その姿を見た民は、もう誰が善で誰が悪かを区別できなくなっていた。
善も悪も、血の中で同じ赤を流す。
それを見て、カイルは悟った。
――この戦は、もう“勝敗”の問題ではない。
◇
その夜、王都の記録官は密かにこう記した。
「魔王、血を流す。勇者、剣を抜かず。
民、鐘を鳴らす。戦、始まらず。」
翌朝。
王都の門の前には、千もの灯籠が並び、夜明けの風にゆらめいていた。
その光景を、誰がどう呼ぶかは、もう問題ではなかった。
――それは、戦よりも強い“祈り”だった。




