第2話 勇者、悪を信じられない
王都に戻る道は、思いのほか静かだった。
木立の間から夏の名残りの風が吹き抜け、甲冑の合わせ目を冷やす。
白銀の剣を背負いなおしながら、カイルは何度も振り返った。背後には、黒曜石の城――“魔王ユウト”の居城が、あり得ないほど静穏に佇んでいる。
討つべき敵の根城が、夕暮れに溶けて美しく見えることなど、これまで一度もなかった。
「隊長、顔が暗いっすよ」
軽口を叩いたのは弓手の少女・ミーナだ。陽気で、力よりも観察眼で戦うタイプ。
隣で神官ローレンスが口元に手を当てた。「疲れているのだ。無理に笑わせるでない」
最後尾でマントを翻す魔導士アイラは、無言のまま空を見上げている。彼女の視線の先には、魔王領の上空を規則正しく巡回するコウモリの群れ――ではなく、灯火の列があった。夜間の見張り用に、街道沿いに等間隔で提灯が吊られているのだ。
「街道に……灯り……?」
「ね、変だよね。あそこ、以前は日が落ちたら死人道って呼ばれてたのに」
ミーナが指差す。
カイルは返事をしなかった。喉の底に石のような不快感が、ずっと落ちてこないでいる。
――魔王。
――だが、善行。
どう整頓しても、二つの言葉は同じ皿に乗らなかった。
◇
王都の外縁部、焼けたままの村に立ち寄ったのは、半分は任務、半分は自分のためだった。
魔王が「救済」をしたという村。眉唾に決まっている、と思いつつ。
「……橋、直ってる」
ミーナの呟きに続き、全員が足を止めた。
数か月前の豪雨で流された木橋は、今や厚い丸太と石の橋脚で補強され、両脇には転落防止の縄が編まれている。橋の手前には「荷車は一列」「渡る前に声かけ」と絵で描かれた札。文字が読めない者にも伝わる工夫――つまり、徹底された「配慮」。
ローレンスが橋脚に手を当てた。「聖樹の樹脂で防腐。人間側では高価な処置だ。魔王が、これを?」
橋の向こうから、花籠を持った少女が駆け寄ってきた。村の娘だ。「勇者様ですか? 橋を見に来られたの?」
カイルは頷いた。「この橋は、誰が?」
「黒いお城の人が来て、いっぱい測って、いっぱい木を運んで……魔王様が“落ちませんように”って、お祈りしてから渡ってました」
純粋な目が、嘘を知らない。
アイラがささやく。「祈り、ね。……魔族の儀式かしら」
「祈り」が「呪い」にも「祝福」にも聞こえる人間の耳の都合を、カイルは内心で苦笑した。
村の広場には、井戸を囲む列ができていた。
ただし、乱れはなく、順番札を持つ少年たちが列を捌いている。井戸の脇には簡素な掲示板があり、「一人桶に一杯まで」「煮沸してから飲む」と大きく描かれていた。
以前は喧嘩が絶えなかった井戸端に、秩序が生まれている。
ローレンスが深く息を吐いた。「……教会が何十年も説いてきて、届かなかった衛生の教えを、魔王は一晩で理解させたと?」
彼の声色には怒りでも嫉妬でもなく、ただ真摯な驚きだけが混じっていた。
そこで見つけたのは、角の小さな魔族の少年だった。
彼は古びた皮袋から包帯を取り出し、農夫の手に巻いてやっている。手つきは拙いが真剣だ。
ミーナがつい声をかけた。「君、名前は?」
「……リュン」
「その包帯、どこで習った?」
「城の、医療隊のおじさん。『汚れたら替える』『乾いた手で触る』」
少年が少し得意げに言う。
アイラが眉をひそめた。「医療、隊……?」
「魔王が、作ったの」
リュンは当たり前のように答えた。
当たり前――。
その言葉が、カイルの胸の奥で鈍い音を立てた。
◇
王都に戻ると、空気は一変した。
城の石段には討伐に向かう他の騎士団が列をなし、広場では「魔王許すまじ」の布が掲げられている。
兵士たちの目は血走り、聖職者の祈祷はいつもより声が大きい。
議事の鐘が鳴ると同時に、王城内で臨時評議会が開かれた。
「勇者カイル、報告せよ」
重臣たちの視線が刺さる。
カイルは正直に口を開いた。「魔王ユウトは、我々の想定する“悪”の像に合致しません。村落の復興、橋の補修、孤児保護――事実です。確認しました」
ざわめきが走る。
白い法衣を着た教国枢機卿が立ち上がった。「欺きだ。魔王は人心を掌握し、国を内から腐らせるつもりだ」
「ですが、現地には実利がありました。見せかけに終わる仕事ではない」
沈黙を破ったのは老宰相だ。「カイル、剣を下ろしたと聞いたが?」
「はい。あの時、私は“善を斬る剣”になる危険を感じました」
「善か悪かは王権と教会が決する。勇者は執行に徹するべきだ」
冷たい一言が胸を抉った。
ミーナが小さく首を振る。彼女は言いたいことが山ほどあるのに、ここで口にすれば隊ごと切り捨てられるのを知っている。
「決定する。魔王領への第二次遠征を発する。勇者隊は先鋒、期日は七日後」
王の言葉に、場は一斉に頭を垂れた。
カイルは視界の縁が白くなるのを感じた。異議は、剣よりも鋭く己の喉を裂くだろう。
だがそれでも――迷いを飲み込むだけの人間では、なかった。
◇
会議後、回廊の影でアイラが小声で言った。「隊長。噂を聞きました。魔王領で“毒の井戸”が見つかった、と」
「毒?」
「人間側に責任を押し付けるための偽旗だと貴族連中は騒いでいます。『ついに正体を現した』ってね」
ミーナが眉を吊り上げる。「でも、あの掲示板を見たでしょ? 煮沸しろって。毒なんか撒くやつが、衛生を教える?」
ローレンスが唇を引き結んだ。「“毒”が本当なら、どこが入れたか調べねばならん。偽りなら、なおさらだ」
「――確かめに行こう」
カイルの言葉に、三人は即座に頷いた。
遠征の前日までは、まだ猶予がある。禁を犯してでも、真実を見たい。
それが“勇者”よりも、ただの人間カイルの叫びだった。
◇
毒が撒かれたと噂されたのは、以前見た橋から三つ隣の集落だった。
井戸の周りには縄が張られ、近寄るなと描かれた札――そして見慣れない封蝋がぶら下がっている。
アイラが眉間に皺を寄せた。「王都の印章? なぜ魔王領に」
ローレンスが地面に膝をつき、土を嗅ぐ。「……腐敗臭はしない。鉱物系の臭いが微かに」
ミーナが耳を澄ませる。「人の気配、右手の納屋」
弓手の指が示す方向で、黒い外套の男が身を寄せ合っている。
カイルが歩み出た。「王都の者か。何をしている」
男は一瞬だけ青ざめたが、すぐに薄笑いを浮かべた。「勇者様。魔王の悪行の証拠固めを」
「その封蝋は王都のものだな。なぜ魔王領の井戸にぶら下がっている」
「……風で飛んできたのだろう」
「風で封蝋が縄に結びつくなら、天使の仕事だ」
言い終わらぬうちに、男は煙玉を放った。視界が白に閉ざされ、足音が散る。
ミーナの矢が煙を裂いたが、命中の手応えはない。
アイラが風の術で煙を払い、ローレンスが祝詞で周囲を清める。
井戸を覗き込み、カイルは頬を強張らせた。「黒い粉の袋……まだ口が結ばれていない」
袋を縛る紐は、王都軍の糸印。
ローレンスが乾いた笑いを漏らした。「“魔王の悪”を証明するために、人間が毒を入れる……か」
真実は、たった一瞬の逃走劇でひっくり返った。
だが、世間は一瞬では変わらない。
“毒の井戸”という言葉は、事実より早く走る。
◇
その夜、カイルは一人、街道の端で空を仰いだ。
星は騒がない。
善と悪がねじれても、宇宙は何も言わない。
ただ、選ぶのは人間だ。
背後で草が擦れる音がした。
振り向けば、影のような人影が立っている。月明かりに、角の小さな少年――昼間のリュンだ。
「勇者、さま」
「どうしてここに」
「城の、おじさんが言ってた。“勇者は話がわかる顔をしてる”って」
子どもの言う「顔」が、いつから自分から失われていたのか、カイルは思い出せなかった。
リュンは小さな包みを差し出した。「これ、魔王様から」
中には、巻紙がひとつ。
封を切ると、簡潔な文があった。
――勇者殿へ
井戸の件、そちらにとっても都合が悪いと察します。明日、国境の小礼拝堂で会いませんか。
民の前でなく、剣の前でもなく、ただ言葉の前で。
魔王ユウト
ミーナが目を丸くする。「会うって。行くの?」
ローレンスが慎重に言った。「罠の可能性は捨てきれん」
アイラは巻紙を覗き込んで、ふっと笑った。「“言葉の前で”。魔族の王がこんな言葉を使うなんて、なかなか洒落てる」
カイルは巻紙を握りしめた。
罠でもいい。言葉が交わせるなら、剣よりもましだ。
「行く」
言葉は驚くほど軽かった。
だが、その軽さが、次に踏むべき石の重みを逆に教えてくれる。
◇
国境の小礼拝堂は、昔、戦死者のために建てられたという。
夜明けのモルゲンが窓を水色に染め、埃の匂いを淡く照らす。
先に入っていたのは、黒い外套をまとった男――魔王ユウトだった。
甲冑を着るでもなく、杖や王笏もない。
やけに普通の、疲れた目をした男が、ベンチに腰を下ろしていた。
「来てくれてありがとう」
その第一声は、驚くほど人間的だった。
カイルは、剣帯を解いて入口脇に置いた。
「こちらも武器は置いた。……罠ではないのだな」
「罠をしかけたら、“善人ポイント”がまた勝手に上がる」
魔王は自嘲気味に笑った。「もう、あれはこりごりだ」
礼拝堂の中央に、古い石の祭壇がある。
祭壇の縁には、どこかの僧が彫ったであろう拙い祈りの言葉が残っていた。
ローレンスが一歩前に出ると、ユウトは軽く会釈をする。「あなたが神官?」
「教国ローレンス。しかし今日は、礼拝ではなく対話に」
「対話、歓迎。……俺、もともと会議ばっかりの仕事してたから」
「会議?」
ミーナが首を傾げる。
「昔の世界の話。――まあ、それは置いといて。井戸の件、あんたらも困ってるだろう」
カイルは頷いた。「人間の印の袋が、井戸から出た。そちらも気づいていたか」
「うん。うちの医療隊が見つけて、手は触れずに封鎖した。誰がやったかは、そっちのほうが詳しいはず」
「……王都の一部の貴族が、戦を続けたい。戦が彼らの富を増やすからだ」
アイラが吐き捨てる。
ユウトは一瞬だけ目を伏せ、その目をカイルに戻した。「俺は、魔界のために“まともな暮らし”を作ってるだけ。善人扱いは余計だ。でも、これ以上戦で人が死ぬのは、もっと嫌だ」
その言い方は、妙に刺さらない。
正義を振りかざす人間の尖り方ではなく、疲れてなお手放さない誠実の平らさがあった。
「ならば、なぜ“魔王”を名乗る」
ローレンスの問いは、信仰というより倫理の問いだった。
ユウトは肩をすくめた。「目を覚ましたら玉座の上だった。役職を降りると空位ができて、もっとひどい魔族が座るかもしれない。だから“引き受ける”。……善人か悪人かのラベルより、現実のほうがいつも先にある」
現実。
カイルは目を閉じた。
自分の「勇者」という名もまた、現実より先に押されたスタンプだったのかもしれない。
「明後日、王都から第二次遠征が出る。俺たちは先鋒だ」
ユウトの表情が、ほんのわずか固まった。「早いな」
「止められない。だが――無益な衝突だけは避けたい」
沈黙が、礼拝堂の梁にぶら下がって揺れた。
ミーナが一歩踏み出し、祭壇に小さな矢羽を置いた。「これ、私の“誓い”。次に撃つのは、誰かを守るためだけ」
アイラも、彼女の杖から星の欠片のような石を外して置く。「真実を曲げる魔術は使わない」
ローレンスは聖印をはずし、祭壇に重ねた。「神もまた、対話を喜ぶはずだ」
ユウトは苦笑した。「なんか、こっちが宗教に入信するみたいだな」
そして、彼は自分の指輪を外した。黒曜石の指輪――魔王の印。
「俺も預ける。一時的にね。……互いに“引き金”を置いていこう」
四人と一人。
祭壇の上に、誓いが並んだ。
見れば滑稽で、けれど、世界のどこよりも真面目な光景。
だが、その瞬間。
礼拝堂の外で、蹄の音が荒々しく止まり、扉が乱暴に開いた。
「勇者カイル!」
怒声とともに飛び込んできたのは、王国軍の中隊長だった。背後には兵士が十。
彼は祭壇に並ぶ指輪と聖印を見て、顔に嘲笑を貼り付ける。「何をしている。魔王と通じ、国を売るか」
ミーナが弓に手を伸ばしかけ、アイラが制止する。
ローレンスは前に出た。「誤解だ。今、我々は――」
中隊長は聞かなかった。
彼は巻紙を広げ、高らかに読み上げた。「王命である。――“魔王との一切の対話を禁ず。発見し次第、討て”。違反者は反逆者として裁く」
剣が抜かれる音が、礼拝堂の穏やかさを切り裂いた。
ユウトはゆっくりと立ち上がる。「困ったな。話し合いって、そんなに悪いこと?」
カイルは彼と兵士の間に入り、背中で魔王を庇った。
「刃を納めろ。ここは礼拝堂だ」
「勇者よ、そこをどけ。王命だ」
「――王命のために、王国を壊すのか」
言葉が刃になり、中隊長の目が血走った。
彼は合図をし、兵士が一斉に踏み込もうとする――その時。
礼拝堂の窓が、外から鳴った。
誰かが鐘を鳴らしている。
あの鐘は本来、火事や敵襲を知らせるためのものだ。
兵士たちが一瞬だけ戸惑い、動きが止まる。
鐘の音は、国境の小さな村を駆け、橋へ、井戸へ、掲示板へ、夜勤の見張りへと連鎖していく。
――誰かが知らせている。戦の前に、対話が行われていることを。
ユウトが小さく笑った。「民は賢い。上が止めても、鐘は鳴る」
中隊長は怒号を上げた。「黙れ!」
剣が振り上げられる。
カイルは一歩も退かなかった。背中に、魔王の気配。祭壇には、互いに外した“引き金”。
彼は深く息を吸い、決めた。
「――剣を抜くのは、今じゃない」
腰の白銀の剣を、カイルはゆっくりと床に置いた。
兵士たちがたじろぐ。勇者が、剣を放す。
ミーナとアイラとローレンスも、それに倣った。
武器が音を立てて床に並び、礼拝堂は奇妙な静寂に包まれる。
「王命に従い、魔王を討つならば、まず俺を討て。俺は“善を斬りたくない”。……それが反逆なら、喜んで受ける」
震えは、なかった。
剣を置くことのほうが、今は剣を握ることよりも、勇気が要る。
その難しさを、背中の男はきっと誰よりも知っている。
中隊長は顔を歪め、躊躇した。その間に、外の鐘の音がさらに大きくなる。兵士たちの足元が揺らぐ。
一人がぽつりと呟いた。「……民が、集まってきます」
集落の人影が、礼拝堂の外に膨らんでいくのが窓越しに見えた。
大勢の目の前で、勇者を斬り、武器を置いた魔王を斬り、祭壇に並ぶ誓いを踏みにじる――そんな絵は、いかにも「悪」だった。
「退くぞ!」
中隊長が吐き捨てるように言い、兵士たちは後退した。
扉が閉まり、外のざわめきだけが残る。
礼拝堂の中で、誰もすぐには口を開かなかった。
やがて、ユウトがぽつりと言った。
「ありがとう」
カイルは首を振った。「礼を言うのは、まだ早い。次に来るのは、もっと大きな波だ」
「だろうね。――でも、今は助かった」
ユウトの笑いは、疲れていたが、どこか軽くなっていた。
「次は、こちらから王都へ“話”を送り込む番だ。橋を使って、鐘を使って、掲示板を使って。武器じゃなく、段取りで」
ユウトの口調に、どこか仕事モードの色が差す。
ミーナが目を丸くした。「段取りで戦う魔王、初めて見た」
アイラが肩をすくめる。「私たちも段取りを整えましょう。情報を集め、味方を増やす。……“善人ポイント”なんて言葉、好きじゃないけど、今は冗談で済ませておく」
ローレンスが祭壇に並ぶ誓いをひとつずつ手に取り、元の持ち主に返す。「誓いは預け合い、責任はそれぞれが持つ。――これが、対話だ」
カイルは白銀の剣を腰に戻した。
剣は重い。
だが、背中の軽さは不思議だった。
魔王を庇ったからではない。
自分の中の、見えない像をひとつ、そっと床に置けたからだ。
礼拝堂を出ると、朝の光が村の屋根を金色に染めていた。
鐘を鳴らしていたのは、角の小さな少年――リュンだ。
彼は鐘の綱から手を離し、胸を張って言う。「勇者さま、聞こえた?」
「ああ。よく、鳴らした」
少年は満面の笑みを浮かべ、走っていった。
その小さな背中が、カイルにはどんな軍旗よりも頼もしく見えた。
◇
王都に戻れば、審問と罰が待っているだろう。
だが、恐れと同じくらい、奇妙な高揚が胸にあった。
“善”は、名札ではない。
“悪”は、仮面ではない。
それらはいつも、誰かの暮らしの中で、井戸の水や橋の丸太に、鐘の音や掲示板の絵に、静かに宿る。
勇者の剣は、そういうもののためにこそ抜かれるべきだ。
カイルは歩き出した。
次に会うとき、彼は魔王に伝えるつもりだ。
――あなたを信じたのではない。
――“信じられる現実”を、少しだけ信じてみたのだと。
そして、まだ名もない第三の道――善でも悪でもない、誰かの暮らしを続けるための道――に、一歩を置いた。
(つづく)




