第2話 母への懺悔
「はぁ、はぁ、はぁ………生きて………る」
俺は苦しさを感じて目を開けたと思ったが夢だったようだ。
あの苦しみは忘れ難い恐怖を植え付けた。
俺はベッドから出ると窓の外を見た。
外にはゆっくりと陽が昇って来た。
(ああ、オレンジと淡い紫が美しいな……)
世界が美しく見えた。
こんな風に思えたのは本当に久しぶりだった。
「……行こう」
俺は着替えを済ませると、厩に行き愛馬のピートを撫でた。この馬は俺が学園を卒業する前に寿命で亡くなってしまった。だが最後まで優しく穏やかないい馬だった。ピートの毛並みに触れると思わず声を出していた。
「久しぶりだな、ピート。また会えて嬉しい。なぁ、一緒に出掛けてくれるか?」
ピートはブルンと息を鼻を鳴らすと俺の手に顔を寄せた。
「じゃあ、行くか」
そしてまだ朝早いからか誰もいない馬小屋からピートと共に馬に乗って駆け出した。
目的地はあそこだ。
◇
「母上、申し訳ございませんでした」
俺は教会裏の墓地にいた。
そして母のお墓の前で必死で謝罪をしていた。
そう俺はこれまで一度も母の墓に来たことはなかったのだ。
母が死んだことも認められず、頑なにこの場所に来るのを拒んでいた。
だが、いつまでもそれでは前に進めないことを今の俺はすでに……知っていた。
虫のいい話だが、母に謝罪することは俺の新しい生き方を選ぶという決意でもあった。
母に謝罪をすることで、俺は前に進みたかった。
謝罪をすることは3つだ。
1つは、母を裏切り不貞をはたらいた父と弟の存在を許してしまったこと。
そして……あとの2つは……
「折角、母上が与えた下さった生を自らの手で終わらせてしまったばかりか、母上の大切にされていたグラスを一度壊してしまいました……」
心の中で告げたつもりだったが、声に出していたようで朝のシンと静まり返った墓地に自分の声は思いのほか響いていた。
木の葉の揺れる音がして、風が頬を駆け抜けた。
鳥のさえずりがまるで母の許しを与える声に聞こえた……気がした。
俺はただ母の墓を見据えた。
「母上……もう二度と、自らの手で命は絶たないと約束します」
――朝焼けの死者との約束……
この国では早朝に墓前での死者との約束は決して違えることができない『魂の約束』と言われている。
母の墓前で決して破ることのできない死者との魂の約束をしてしまった。
(絶対に破ることができないな……)
「ピート、待たせたな。帰ろう」
ピートは鼻を鳴らして頭を下げた。
俺は生きる覚悟を決めて、家に戻るためにピートの背に乗ったのだった。
+++
王都の屋敷の門をくぐり、馬から降りて、馬を引きながら馬小屋に戻る途中、用具入れの前で、庭師と戯れるアルフィーの姿を見つけた。
(こんな早朝に何をしているのだ?)
眉をひそめていると声をかけられた。
「おはようございます。レオナルド様、お早いですね……何を見ているのですか?」
声のした方を振り向くと、我が伯爵家の馬世話と御者をしてくれている者が立っていた。
「……《《あれ》》を見ていた」
視線をアルフィーと庭師に向けた。
「……《《あれ》》でございますか?」
御者が不思議そうに俺の視線の先を見つめて、ほっとしたように声を上げた。
「ああ、昨日お見えになったアルフィー様とムトですか」
御者の言葉に思わず眉間に皺を寄せながら尋ねた。
「なぜあの者はこんな早く、ここにいるのだ?」
「アルフィー様はまだ夜が明けてもいない時間から、庭で寂しそうに月を眺めていました。私とムトが見つけて、ムトが話しかけることにしたのです。ですが、どうやらムトになついたようですね。先程までの悲しそうなお顔が笑顔に変わっていて安心しました」
想像もしていなかったセリフに動揺した。
(寂しい!? あいつには自分の母がいるだろう? それに、父上だって……)
ずっと同じ家に住んでいたが、以前の俺は弟の顔を見れば怒鳴りつけていた。
弟はいつも無表情で冷静に対応していた。弟のその大人びた様子に尚更腹が立ったことを思い出した。
気が付くと俺は自身の手のひらをきつく握りしめていた。
「アルフィー様は……立ち振る舞いや言葉遣いが……幼いように……思えます」
「え?」
俺はじっと御者の顔を見た。
以前の俺はひたすら、アルフィーのことが憎くて仕方なかった。
だからだろうか、生意気だという感情はあったが幼いという言葉は記憶の中にある弟とは結びつかなかった。
俺は御者に愛馬を託しながら言った。
「……そうか、では後は頼んだぞ」
「はい」
なんとなく釈然としない思いでその場から去ったのだった。
+++
それから数日が経った。
私はやはりまだ黒い服を脱ぐ気にはなれなかった。
今の自分にとって母が亡くなったのは数日前ではなく、もうすでに何十年も昔のことだ。
だから母の追悼というより、以前の自分の追悼のために喪服を着ていたように思う。
(俺はこれからどうすればいいのだろうか?)
何も知らなかった頃の無邪気な自分にはもう戻れない。すでに1度領主として失敗しているのだ。このまま何もしなければ、また以前の二の舞になってしまう。
(また同じような運命を辿るのだろうか……)
そう思うと毒を飲んだ時の苦しみと絶望を思い出して身体が震えた。
――絶対的な恐怖。
呼吸が出来ずにもがく感覚を味わってしまった今の自分は、漫然と生きることに危機感と恐怖感を覚えるようになってしまった。
俺は、何かに急かされるように立ち上がると、母の管理していた酒棚から母の好きだった果実酒を取り出した。
するとその棚の奥。俺の生まれた歳の果実酒に手紙のようなものが取り付けてあった。
――レオナルドへ
(この手紙は何だ?)
俺はまだ手付かずの母の使っていた執務机の中からペーパーナイフを取り出すと、急いで封を切った。
そして手紙を見て愕然とした。
「………え?」
手紙の内容がとても信じられなくて、俺は手紙を読むとその手紙をポケットに入れて母の好きだった果実酒を手にサロンに向かったのだった。