第1話 巻き戻りの令息
手から滑り落ちたグラスがやけにゆっくりと見えた。
中身の零れる様子がまるでガラス玉のように美しい。
――嗚呼……このグラスを選ばなければよかった……
『母の愛したグラスと共に逝こう』
祖母が嫁入り道具として持ってきた繊細な細工の入ったグラスで毒をあおった。
だが……
(苦しい!! イヤだ、死にたくない!! ああ、もしも神がいるのなら、時間を戻してくれ!! 今度こそ愚かな選択はしない!!)
自分の手から滑り落ちたグラスが割れて失われてしまうのを見た俺の胸の中にあったのは最期の瞬間まで後悔と――苦悩と、絶望だった。
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俺、レオナルド・ノルンは家族を屋敷から追い出し、高位貴族の不興を買い、領にとって重要な交渉に失敗し、信頼して領地の経営を任せていた叔父にも騙され、ノルン伯爵家を没落させてしまうほどの負債を負った。
議会や他の貴族に助けを求めたが、高位貴族の不興を買った年若い領主を助けてくれる者は誰もいなかった。
誰の協力も得られず、山積みの問題と負債を残した俺は、せめて自分の後に優秀な者が領主になってくれることを願い、自ら毒を煽り26年の生に幕を降ろした。
何が悪かったのだろうか?
どこで間違ったのだろうか?
死ぬ間際に考えた。
だが、思い当たる原因が多すぎてわからなかった。
――……ただ、空気を求めもがき苦しみながら、この命が尽きることだけは理解できた。
ドクン。
苦しくて終わりそうな心音。
ドクン。
ドクン。
(神よ、どうか、もう一度だけ……)
ド……クン。
ド…………ン。
ド……………
――――
自らがあおった毒によってもたらされた途方もない苦痛と絶望の果てに……
俺は26年の生涯を終えた。
………クン
………ドクン。
………ドクン。
――レオナルド、あなたは将来領主になるのです、たくさんの信頼できる人と巡り合えますように……
ドクン。
ドクン。
ドクン。
+++++
「……レオ……ナルド……レオナルド」
先程まで感じていた呼吸が出来ずにもがくような感覚がなくなっていた。
気が付けば自身の胸に手を置いていた。
(息ができる……)
息ができるという当たり前のことに感動していると、懐かしい低音の声色が聞こえてきた。
「レオナルド聞いているのか?」
視線を上げれば眉を寄せ、怪訝そうに俺の顔を覗き込む父の顔が見えた。
「………父上?」
気が付けば、18歳の時に死んだはずの父が目の前にいたことに驚いて思わず目を大きく開けた。
(なぜ父上がここに!? 夢なのだろうか? それともこれが噂に聞く走馬灯か??)
「具合でも悪いのか?」
「……いえ」
俺は動揺を隠して精一杯冷静さを保った。
だが思考は、秩序もなく混ざりあった絵具のように混沌としていた。
現状が整理されていない俺に向かって父が低い声をさらに低くした。
「これから新しい母と、お前の弟が来る」
「……」
(継母と弟?)
俺は思わず自分の手を見つめた。
大人の手にしては小さいし、視線もいつよりずっと低い。
よく見ると父も死ぬ間際の父よりも若いように思えた。
(……どういうことだ?)
――コンコンコンコン。
ドアをノックする音が聞こえて、深く思考していた身体が驚きでビクッと跳ねた。
「入れ」
父が入室の許可を出すと、執事が入って来て父の側に移動すると耳元で何かを告げた。
すると父は感情のない表情を浮かべながら俺に視線を移した。
「レオナルド、行くぞ」
俺はこの状況に身に覚えがあった。
(まさか……これは!!)
「……はい」
返事をして父について行くとそこには、予想した通り、俺が18歳の領主になった時に追い出したはずの継母と弟が立っていた。
(やはり幼い……)
俺は継母の後ろに隠れるように立つ弟をじっと見つめた。
以前の俺は怒りと戸惑いで弟の顔をしっかりと見たことはなかったが、なるほど、たれ目で整った鼻に小さめの口は父によく似ていると思えた。
髪と瞳の色もダークブラウンで俺や父と同じだ。
(この子は確かに父との血のつながりを感じるな……)
その子の身なりはよかったが着慣れていないのか違和感があった。
身体も痩せこけていて8歳とは思えないほど発育状況が悪かった。
だが一方、母親はふっくらとした頬に手入れされた肌に髪。
まるで高貴な貴族の令嬢のようだった。
「レオナルド。これからお前の母親になるマリーと息子のアルフィーだ」
父から紹介されると継母は優雅にお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。マリーと申します。こちらが息子のアルフィーでございます。アルフィー。レオナルド様にご挨拶をなさい」
継母に鋭い視線であいさつを促され、アルフィーは怯えた瞳で口を開けた。
「レオナルド様。アルフィーです。よろしくお願いします」
これだけ震えた様子なのに、淀みない不自然なあいさつは、完全な付け焼刃だ。
大方ここに来る途中に、継母に教え込まれたのだろう。自然に身についているあいさつといった、類いのものではなかった。よく見ると手の甲にムチの跡がある。
何度もぶたれたのかもしれない。
(こんな小さいな子に……こんなに跡が付くほど……)
このムチの跡がどうか、この淀みないあいさつの練習のためではないこと願っていた。
(昔はあれほど腹が立ったのにな……)
以前は父の不貞を許せずに罪もないアルフィーに向かって「俺に話しかけるな! 汚らわしい」と怒鳴り散らした。
だが目の前で不安そうな瞳を向けてくる弟はまだ8歳。小さな子供だ。
継母の方は、父と浮気をしていたと思うと相変わらず吐き気がするが、アルフィーに対してはすでに以前のような激しい感情は一切湧いてこなかった。
(今さら、こんな幼い子を怒鳴りつける気にはなれないな……)
俺は小さく息を吐いた。
「俺はレオナルドだ。慣れ合うつもりはないが、とやかく言うつもりもない」
そして父の方を見た。母が居ながら浮気をしていた父を、ずっと許せなかった。
今でも浮気をしていたという事実は許せない。
だが自分も死ぬ前まで、領主をしていた。自分が領主をしたからこそ、今、その地位についている父の苦労もわかってしまう。
すでに俺は以前のように父の浮気を恨むだけの子供ではいられなかった。
(いつまでも父を恨み続けることができたのなら少しは楽だったのだろうか?)
『浮気』という母に対する不義理は許せない。
だが……
『領主』としての父の手腕は尊敬している。
だからこれは俺から父への最大の譲歩だ。
「これでよろしいでしょうか? 父上」
チラリと隣に立つ父の顔を見ると、父は「ああ」と少しだけ口角を上げながら答えた。
(母上、これはあなたへの裏切りになるのでしょうか? だとしたら……親不孝な息子で申し訳ございません)
俺は心の中で母にあやまると、静かにその場を去った。
背後からは、継母が父に甘える甲高い声が聞こえた。
だが俺は何も言わずに、母の死を悼むために着ていた黒い服をぎゅっと握りしめて部屋に戻ったのだった。