魂の紐
これは、知人が住む古びたアパートの部屋で起きた話だ。夜中、彼は寝ようとして部屋の電灯の紐を引き、明かりを消した。
――ん?
そのとき、彼はもう一本、見覚えのない紐が垂れ下がっていることに気づいた。
――さっきまで、こんなのなかったよな……?
それは天井からぶら下がり、ぼんやりと白く淡く発光していた。蜘蛛の糸かと思ったが、それにしては太い。彼は気になって、その紐を引っ張った。するすると滑らかに引けた。ただ、どこか生々しい反発力を感じた。
違和感を覚えながらも引き続ける。そして、糸の先を追って天井を見上げたときだった。そこに奇妙なものが浮かび上がった。
――あれは、なんだ……?
それは丸く、紐と同じく淡く発光していた。彼は手を止めずに目を凝らし、それをじっと見つめた。
――頭……か?
毛のようなものが生えており、その毛がゆらゆらと、水中に漂うようにゆっくりと揺れていた。
さらに紐を引き続けると、額、目、鼻、口と次々に現れた。
――上の部屋の爺さんか……?
天井から降りてきたのは、アパートの上の部屋に住む老人だった。白目を剥き、口を半開きにしたその顔は、まるで……
――死んでる……? いや、これは……
魂だ。彼は直感した。おそらく、老人はこの真上に布団を敷いて寝ており、そしてこの紐はその体から伸びた魂の先端だったのだ。
彼はぞっとして、慌てて紐を手放した。すると、老人の魂はゆっくりと天井に戻っていった。
彼は手をズボンで拭きながら、それを呆然と見ていた。だが、ふと我に返り、再び紐を掴んで引いた。
そして、老人の両肩が現れたとき、彼は睨みつけて言った。
「おい、クソジジイがよぉ……てめぇ、毎日、毎日、ドンドン足音とか独り言とかうるせぇんだよ……。そのくせ、こっちの生活音がうるせぇだの文句言ってきやがって、なんなんだよぉ、ボケクソゴミゴミゴミゴミ……」
彼は、自分が他人に迷惑をかけることには無頓着なくせに、他人から迷惑をかけられると異様に神経質になる性格だった。それゆえ、上の階の老人とはたびたび言い合いになっていたそうだ。
ひとしきり文句を言うと、彼は紐から手を放し、すっきりした気分で眠りについた。
そして彼はそれから毎晩、天井から老人を引きずり下ろし、罵り続けた。
老人が相変わらず騒音を立て続けていたからだ。「魂に直接文句言ってるのにまったく効果がないって、あのジジイの魂自体が歪んでるんだな」と彼は笑った。
そして、ある夜のこと――。
いつもは老人の胸の部分までしか降ろしていなかった彼だったが、その夜は紐を限界まで引っ張ることにした。言葉だけでは物足りない。可能なら、殴りつけてやろうと考えたのだ。
ズル……ズッ……
紐を引っ張るたびに、老人の体が蜘蛛のようにゆっくりと降りてきた。顔、両肩、胸、腹と順に見えてきて、彼はニヤッと笑った。もうすぐ届くぞ――。
だが、腰の部分が天井から出たとき、彼は手を止めた。
――あれは、なんだ……?
老人の腰のあたりに手が見えた。それは一本や二本ではなく、幾重にも折り重なり、まるで無数の蛇のように蠢いていた。指の数も多く、老人の体を強く掴んでいる。
その異様な姿に、彼は思わず紐を放した。しかし――。
ズルッ……ズッ……
老人の体は上へ戻らず、重力に従うようにそのままゆっくり降り続けた。
ズルッ……ズッ……トン……
そして、彼の部屋の床に横たわった。
その姿は、まるで羽化の途中で死んだ蝶のようだった。老人の下半身には、いくつもの手と顔が溶け合い一つに混ざったものが覆っており、老人の体を飲み込むように絶えず蠕動していた。そのつなぎ目からは、まるで潰されたニキビのような勢いで、粘液を帯びた糸のようなものが飛び出し、老人の肌に絡みついていく。その糸は、老人の頭のてっぺんの紐に似ていた。
彼はゆっくりと後ずさりし、部屋を飛び出した。朝まで戻ることはなかったという。
その後、どうなったのか。
翌朝、上の階の老人は布団の上で冷たくなっていたらしい。死因は自然死とされた。彼が魂を引っ張り出したこととの因果関係はわからない。彼は『死期を早めてやったかもしれない』と笑ったが。
彼は今もそのアパートに住み続けている。
「よく住めるね。人が死んだ上に、そんな怖い体験までしたのにさ」
僕がそう言うと、彼は鼻で笑った。
「馬鹿だな。もう天井から紐が垂れてくることもないし、騒音に悩まされることもねえ。引っ越すのは損だろ?」
これで話は終わり。
……だって、彼には言えない。
眠っているときの彼の頭にも、紐のようなものが見えていたことを。そして、僕がそれを……