第九十七話『僕と夢の中』
いつの間にか、僕は夢を見ていた。ここは夢の中なんだと、誰に言われるまでもなく何故か理解できていた。
それは僕の背丈が少し縮んでいるからなのかもしれないし、今民宿の中にいるのに全然違う場所が見えるからなのかもしれない。だけどここは間違いなく夢の中で、現実じゃない世界だ。
「……だから、君がいるのかな」
小さな声で呟いて、僕は目の前にいる一人の女の子に視線を戻す。それは僕の彼女――ではなく、作家としての僕が生まれるきっかけになった、親友の女の子だった。
あの子はいつも長い黒髪を下ろしていて、歩くたびに揺れるそれが邪魔そうに見えたのを覚えている。今この夢の中に風なんて概念はないから、それが揺れることはないのだけれど。
千尋さんの彼氏になった今も、このことの思い出を忘れることはできない――いや、したくてもできない。痛みを伴う記憶ではあるけれど、それと同時に今の僕を形作る記憶でもあるのだから。……この出会いを否定したら、今の僕はここにいない。
だからこのことの思い出は誰にも語らずに、自分の中で静かに抱えていこうと思っていたのだ。たまに見返して傷の痛みを思い出して、自分の原点に返ってくるために。……大切な人に忘れられる痛みを、この先も決して忘れないように。
だけど、こうして夢の中に出てくるのは訳が分からない。千尋さんと出会ってからは、あの時の痛みをリアルに思い出す機会も減っていたのに。……なのに、どうして今更。
「……ねえ、つむくん」
「……ッ」
彼女しか知らないはずのあだ名で呼ばれて、現実のものでないはずの僕の背筋に寒気が走る。傷口をナイフで強引にこじ開けられているような、そんな気分だった。
「つむくんは、私のことを嫌いになったの?」
そんな僕の様子を無視して、彼女は問いかけを続ける。……それに対して、僕ははっきりと首を横に振った。
「ううん、そんなことはない。手紙を返してくれなかったことは悲しかったし、傷ついてたけど――それでも」
悲しいし傷ついたのは、この子とならずっと一緒に居られると思ったからだ。お互いの事を忘れずに、置いて行かずに、二人で年を取っていけるかもしれないと思ったからだ。――とどのつまり、あの時の僕はきっと恋をしていたのだろう。
あの時はそんな風に名付けられなかったけど、今ならはっきりと分かる。アレがきっと僕の初恋だった。……もうすでにそれは終わったし、もう二度とはじまることもないのだけれど。僕の恋愛感情は、今隣にいてくれる人に全て注いでいるのだけれど。
「うん、よかった。つむくんならそう言ってくれるって、私は信じてたよ」
その答えに、彼女は安堵したような笑みを浮かべる。その声は穏やかで、思い出の中にあるあの子の声と何ら変わりはなかった。
当然だ、記憶は劣化なんかしないんだから。僕にとってあの記憶はずっと大事なもので、これからもずっと抱えていくものだ。千尋さんとの出会いがあったとて、それを変える気はない――
「――信じてたのに、君は変わっちゃったんだね」
「……っ、へ?」
そんな僕の覚悟を非難するかのように、あの子は声を低くして告げる。その声はだんだんとしわがれ始めて、まるで老人のようなものになっていって。……記憶の中にあるおばあちゃんの声に、それは残酷なぐらいによく似ていて。
「勝手に変わってしまった大切な存在に傷つけられたのに、紡はそれと同じぐらいに勝手に変わってしまうんだねえ。……だったら、いつかその千尋さんとやらに対しての思いも過去のものにしてしまうんじゃないかい?」
「ひ……っ」
これは悪夢だ、現実じゃない。僕の知っているおばあちゃんはそんな風に僕を責めないし、あの子だって僕を責めるようなことを言う人じゃなかった。これは現実じゃない、僕自身が生み出した呪いのようなものだ。
分かっている、これが二人の本音じゃないことぐらい。だから何も気にせず、自分の思いを言い返してやればいいのだ。『僕は千尋さんのことを絶対に忘れないし気持ちも薄れない』って、自信満々に言い切ってしまえば、それでこの夢は終わる。……終わる、のに。
「……ごめん、なさい」
威勢のいい言葉が出てくることなんてなくて、僕の口からは情けない謝罪の声だけがこぼれる。それが誰に向けたものなのかは分からないし、僕が謝ることなんかじゃないのに。……なのに、僕は謝罪を止めることが出来ない。
目の前の存在を直視できなくて、僕はぎゅっと目を瞑る。――早く夢が醒めてくれと、そう願う事しか僕にはできなかった。
変わることにはきっと何かを犠牲にする必要があって、それは紡君も同じです。果たしてそれを振り切ることが出来る日は来るのか、そちらにも注目していただけたら幸いです!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!




