第八十七話『僕は想像がつかない』
「ありがとう。……そう言ってくれるだけで、私も照屋君のことを信じられるよ」
僕の返答を聞き届けて、亜子さんは嬉しそうにふんわりと笑う。纏う雰囲気は新谷さんと真逆なのに、どうしてだか二人の笑顔はそっくりに思えてならなかった。
これが親子の縁――それとも、千尋さんを想う気持ちの一致がそうさせているのだろうか。そのどっちでもあるのかもしれないけれど、それを見られれば二人のことを心から信じることが出来た。
「まあ、今は時間もないし全部を話すのはちょっと難しいけどね。また隙を見て――というか、何とかして伝える方法を考えとくよ」
少しこっちに身を乗り出して、亜子さんはそんな風に伝えてくる。少し気弱な印象を今までは受けていたけれど、千尋さんが絡むとどうもかなり前のめりになるようだ。
「亜子ちゃん、おじさんの酔い覚ましセット準備終わったよー!」
その話がちょうど終わりを迎える頃に、水道であれやこれやと作業をしていた千尋さんが机に戻ってくる。その手に抱えられた桶には水が目一杯張られ、その中でタオルが湿らされている。……これから先に何が起こるのか、それを見るだけで大体想像がついてしまう取り揃え方だった。
「うん、これさえあればあとはお母さんにお任せだね。酔っちゃっても予定が変わるなんてことはないわけだし、責任を持ってしっかり役割は果たしてもらわなくちゃ」
その成果を見て亜子さんは満足そうに頷き、寝こけているお父さんに厳しい視線を向ける。……なんだろう、さっきの会話を経て亜子さんが急に強気になったような気がしてならない。
「……もしかして、普段からこれで?」
「ううん、これでもまだまだ優しい方だよ? お母さんが準備した方が早く酔いも醒めるし、向こう二か月ぐらいはお酒も飲まなくなるの。いつもいつも起こし方がワンパターンだとお父さんもなれちゃうかもしれないし、たまにはこういう緩めの奴も交えないといけないんだけどね」
「……これが、緩め……?」
『どこが?』という内心の疑問をどうにか押し殺して、その代わりに僕はただオウム返しをする。これ以上に激しい酔い覚ましとか、とてもじゃないけれど僕には想像ができなかった。
なんだろう、冷たいのじゃなくて熱湯とか使うんだろうか。……いや、それは正直危なすぎるしな……。
水をこんなに使う時点で危なくないなんてことはないのは一旦隅に置きつつ、僕は正体不明の酔い覚ましに想いを馳せる。だが、結局僕の中でアイデアが出てくることはなかった。
ただまあ、それでも新谷さんが今から結構厳しい目に合うのは僕でもはっきりと分かることだ。――『酒は飲んでも飲まれるな』、肝に銘じておこう。
「まあまあ、お父さんはしばらくすれば合流できるから大丈夫だよ。そんなことよりも、今は目の前の楽しいことを目一杯迎えに行かなくちゃ」
丁寧な手つきで桶とタオルを隅に置きつつ、亜子さんは僕たちの方を向き直って笑みを浮かべる。とんでもない切り替え速度で新谷さんの存在が意識の外へと移動していて、僕は内心嘆息せざるを得なかった。……新谷さん、もしやお酒を飲むたび毎回こうなってるんだろうか。
「うん、紡君と楽しむためにここに来たんだからね。やらなくちゃいけないこともあるけれど、それより先にまずひとつの目的を達成しないと」
「そうそう、じゃなきゃもったいないからね。二人にとって海はお手伝いの場所でもあるけれど、お手伝いさんである以前に二人はここに来たお客様でもあるんだから」
心当たりがあるように頷く千尋さん以上に首をぶんぶんと縦に振りながら、亜子さんは僕たち二人の間で視線を移動させる。そして唐突に振り返ると、その先にある小さな窓から見える景色を指さした。
「この場所に来てこの宿に泊まってくれるからには、二人には最高の思い出を作ってもらいたいからね。その一ページ目にどこの思い出が収まるかは、私の中でもう決まってるの」
ピッと伸ばした指の先で海の青色がゆらゆらと揺らめき、観光客の歓声が潮風に乗って聞こえてくる。今も誰かの思い出となっているその場所に、もうすぐ僕たちも向かうのだ。……そう思うと、不思議なぐらいに僕の気分は高揚してきて――
「さあさあ、荷物を準備して。……最高の海が、ちーちゃんと照屋君を今か今かと待ってるから!」
とても得意げな様子で、亜子さんは僕たちを海へと促す。……この旅行のメインディッシュと言ってもいいイベントが、もう目の前にまで近づいてきていた。
次回、ついに二人は海へと向かいます! 紡たちの夏、ぜひ皆様も一緒にお楽しみいただければ幸いです!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!




