第八十二話『千尋さんは飛びつく』
資料として海の写真を見た経験は決して少なくないけれど、目の前に広がっているのはそれとはけた違いに綺麗で鮮明な景色だ。レンズを介さない景色がここまできらびやかさを増すのだという事を、僕はこの景色で始めて知った。
「何回見ても、この景色に飽きることは絶対にないなあ……紡君もそう思うでしょ?」
「うん、きっとそうだね。この景色は忘れられないし、何度見たって綺麗だって思えるよ」
美人は三日で飽きないし、綺麗な景色も見飽きることはない。……それが特別な人の大切な景色だというのなら、その価値は何倍にも何十倍にも跳ね上がるってものだ。こんなうっとりとした表情の千尋さんを見るの、もしかしたら初めてかもしれないし。
「いいだろ、ウチ自慢のオーシャンビューだ。これにほれ込んだ人が冬にも泊まりたいって言ってくれるからこそ、観光シーズンの夏が終わってもこの街はにぎやかでいられるってもんなんだよ」
「そうそう、冬の海もきっと綺麗だよね……。あたしはまだ来れたことがないけど、いつか冬にもここに泊まってみたいなあ」
後ろから聞こえてくる新谷さんの説明に頷きながら、千尋さんは目の前に広がる景色を堪能している。白波一つ立っていない海はこの距離からでも底が見えるような気がして、僕は無意識のうちに目を凝らしていた。
結論から言えば海の底は流石に見えなかったけれど、海を悠々と泳ぐ魚の姿はちらほらと見えた。観光客もいかないような沖合には大きな魚が心地よさそうに佇んでいて、人間だけじゃなく海の生き物にとってもこの海が理想的な環境なのがよく分かる。
「……ダメだな、うっかりするとここから海を眺めるだけで二時間ぐらい使っちゃいそうだ」
「紡君とゆっくり話しながらなら三時間でも四時間でも見てられそうだけどねー……。まあ、やりたいこともやらなくちゃいけないこともいっぱいあるからそうもいかないんだろうけど」
僕の独り言に名残惜しそうに答えながら、千尋さんは手に持っていた荷物を床に置く。それを見て僕もまだ荷物を整理してなかったことに気が付いて、何分かぶりに窓から目を離した。
「ねえねえ、そろそろアコちゃんたちの料理もできる頃かな?」
「ああ、そろそろ出来上がるころだと思うぜ。一応出来上がったら持ってきてくれって頼んであるんだが、もしよかったらちーの方から取りに行くか?」
整頓を終えて気持ちを切り替えたらしき千尋さんの質問に答え、新谷さんがそんな提案を持ち掛けてくる。それに対して千尋さんが頷くまでに、多分一秒もかかっていなかった。
「うん、アコちゃんの料理楽しみだもん! アコちゃんともたくさんお話したいし、あたしの方から迎えに行かせて!」
そう答えた直後『もちろん紡君もいくよね?』と言わんばかりの視線が僕に向けられて、とっさに頷きを返す。すると千尋さんの笑顔はさらに深まって、扉の前に立つ新谷さんを急かすように突っついた。
「さささ、そうと決まれば早く行こ! 食堂までアコちゃんをびっくりさせなきゃ!」
「ああ、その方がアイツもきっと喜んでくれるだろうしな! さあさこっちだ、付いてこい!」
千尋さんの熱量にあてられるようにしてテンションの上がった新谷さんの足取りについて行って、僕たちは今しがた上ったばかりの階段を下っていく。おり終わったところで後ろを向くと特徴的な引き戸があり、その奥から何か水の流れるような音が聞こえてきていた。
それから少し遅れて香ばしいにおいが鼻をくすぐって、ドアを開けずともここが厨房なのだという事が何となく理解できる。新谷さんが扉に手をかけて開けるまでの短い時間ですら、千尋さんは小刻みに足踏みしてうずうずしていた。
ほどなくしてガラリと音を立てながら扉が開いて、厨房の景色が目に飛び込んでくる。そうして新谷さんが何か言葉を発しようとしたその時、その後ろから千尋さんがものすごい俊敏な動きで厨房の中へと駆けて行った。
「アコちゃん、久しぶりーーー‼」
「ふえ、わっ、わあ⁉」
突然千尋さんに強く抱きしめられて、アコと呼ばれた女の子は戸惑った様子で声を上げる。その戸惑いに構わず頬ずりの姿勢に移行するその姿は、学校の友達に見せる千尋さんの姿とは少し――いやかなり違っているように見えて。
「会いたかったよアコちゃん、あたし話したい事いっぱいあるの!」
――多分これも素の千尋さんの一面なんだろうなと、何となく理解することが出来た。
千尋さんは高校においてアイドルですが、そうじゃない一面というのも少し外を見てみれば多々あるわけで。そんな姿を一緒に居る度見付けていく紡が何を思うのか、そしてそれがどんな結末に繋がるのか、ぜひお楽しみにしつつこの先を楽しんでいただければなーと思います!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!




