第七十九話『千尋さんは博識』
バスのステップをゆっくりと降りて、僕たちは目的地に上陸する。潮の香りの混じった風が吹いてきて、僕の隣に立つ千尋さんの髪をゆらゆらと揺らした。
窓越しでも青くきらめいていた海は肉眼で見るとさらに眩しくて、僕は思わず目を細めてしまう。結構な数の観光客を受け入れても、海の青色はきらめき続けていた。
「こんなに綺麗なら、もっとたくさんの人が来てもおかしくなさそうだけど……」
「だよね、あたしもそう思う。……だから、この街の人たちは凄い工夫をしてるんだよね」
何の気なしに呟いた言葉に頷いて、千尋さんは得意げに笑う。そのまま手を海とは反対側の方に向けると、僕に質問を投げかけてきた。
「ねえねえ、紡君。ここって他のリゾート地みたいな海とはかなり違う所があると思うんだけど、それってどういう所か分かる?」
「どういう所が……かあ。パッと見た感じ普通の風景だと思うんだけどなあ」
個人経営と思しき商店が結構な数残っていることは目を引くけれど、それ以外は至って普通の住宅街と言った感じだ。高さとか幅もまちまちな屋根が並んでいて、その家一軒一軒に人の営みがある。その中に民宿が混ざっているなんて思えないぐらいに、町並みは自然な雰囲気を醸し出していて――
「――って、あ」
そんなことを考えているうちに、僕は千尋さんの言っていた違和感にふと気づく。……多くの観光客を受け入れるための大きな建物が、見渡す限りどこにも存在していなかった。
「うん、紡君なら気づいてくれると思ったよ! この海って観光地としては本当にすごい価値があると思うんだけど、お客さんが来過ぎちゃうと汚れたり荒れたりしちゃいかねないからね。だからこの街にある宿泊施設は民宿だけだし、大きなショッピングモールも車で一時間ぐらい行ったところにしかないの」
両手を嬉しそうに合わせながら、千尋さんはそんな風に説明を付け加えてくれる。……確かにそうすれば来る人の量は制御できるかもしれないけれど、それって地域に住む人にとってはかなり不便なんじゃないか……?
「食材だけしか取り扱わないショッピングモールとかがあるから地元の人は困らないんだけど、水着とかそういうのを買うためのお店は一切ないって感じの方が正しいのかな。……なんにせよ、観光のお客さんが一度にどばーっと来ないように街の人たちみんなで守ってるんだって」
ホテルを立てたいって話は本当にたくさん来てるらしいんだけどね――と。
やはり何度も訪れた町なこともあってか、つらつらと千尋さんの口からは知識が出てくる。その熱量がそのままこの街に対する愛の表れのような気がして、そこに連れてきてくれたことの意義がより温かく僕の胸の中に広がった。
照り付ける日差しは厳しいけれど、海から吹き付ける風はその辛さを多少なりとも軽減してくれる。民宿がどこにあるかは千尋さんに案内してもらわないと分からないけれど、歩くことはそんなに苦にならなそうだった。
「さて、それじゃあそろそろ行こっか。勉強道具も詰め込んだら結構大荷物になっちゃったし」
「だね。……まあ、どれだけ勉強道具の出番があるかは分からないけど……」
手元のスーツケースをお互いに見つめながら、僕たちは苦笑を交換する。これが『勉強会』という名目を持っていることは共通認識だけど、行ってしまえばそれは遠出を許容するための免罪符のようなものだ。それを持っていればもちろん許されるけれど、だからと言ってその免罪符通りの行動を行うかは分かったものじゃないわけだし。
「もちろんやるよ、そのために持ってきたんだもん。もちろんその前に海は満喫するし、美味しいものもたくさん食べつくすつもりだけどね?」
そんなことを思う僕の言葉に、千尋さんは欲張りを隠すことなくそう断言する。千尋さんにとっての問題は『どれに力を入れて頑張るか』じゃなくて、『どうすれば全部の目的を両立できるか』にあるようだった。
どれを満喫しようかなと僕が考えている間に、千尋さんは最初から全部堪能するつもりで計画を立てていたってわけだ。……確かに、そっちの方がワクワクできるな。
「せっかくこんなところまで来たんだし、やりたいことは全部やろうか。それで帰ってから疲れ切ったんだとしても、その時間は思い出を振り返る時間にすればいいし」
「あ、それいいアイデアだね! 全部やりきって寝ちゃって、振り返るのは明日の夜に帰ってからにしよう!」
僕の言葉に反応して、千尋さんは楽しそうに笑う。それに僕も笑い返して、一緒に目的地に向かおうとしたところで――
「おーおー、やっぱりちーはそうじゃないといけないな! 高校生になっても変わらなくておっさんは嬉しいぞ!」
後ろから突然そんな声が聞こえて、僕はとっさに振り返る。――そこには、真っ黒に日焼けした麦わら帽子のおじさんがいつの間にやら堂々と立っていた。
新キャラを交えつつ、海編さらに盛り上がっていきます! 前半のシリアス分も賑やかにやっていきますので、どうぞ陽気な皆を楽しんでいただければ幸いです!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!




