第七十八話『僕は静かに噛み締める』
『海だー!』なんて言って両手を上げて、目の前に広がる青を思いっきり視界の中に取り込む。それは青春の一ページの代名詞と言ってもいいレベルの行事だけど、同時に創作世界じゃなければなかなか起こらないイベントであることもまた確かだ。憧れはあるけれど、それが実行への意欲になるかと聞かれたら首を捻るしかないし。
実際、僕の口からそんなに景気の良いフレーズが出ることはなかった。初めてその青が目に見えた時、僕の胸に去来したのははしゃぎたくなるような高揚感ではなくてーー
「海だぁ……」
まるでアニメか映画かのように海は青く輝いて、その上を白い鳥が身軽に飛んでいる。その光景はバスの窓越しに見ても息を呑むような綺麗さで、僕は静かに声を上げた。
「でしょ? ここは海が綺麗だから、一度紡君に見てほしいなーって思ってたの」
窓際を譲ってまで僕にこの景色を見せてくれた千尋さんが、僕の反応を見て嬉しそうに笑う。冷房はしっかり聞いているはずなのに、それを前にして僕の頬はかあっと熱くなった。
あの突然の提案から二日が経ち、僕たちはバスに乗って今回のデート……もとい泊まりがけでの勉強会の会場へと向かっている。結構電車を乗り継いだから時間は経っているはずなのだけれど、不思議と疲労感は溜まっていかなかった。
夏休みとは言え平日だし、千尋さんの日取りも良かったんだろうな……民宿の方にももう話はついてるってことだし、僕がしたことと言えば千尋さんの提案に首を縦に振ったことぐらいしかないだろう。何もする余地がないほどに、千尋さんは色んなところに手を回し終えていた。
「こんな海の近くの民宿、人気ないなんてことはないだろうに……」
「うん、しっかり人気の民宿だよ。あたしの友達繋がりで三年ぐらいは毎年こっちに泊まる時間を作ってたから、今年はちょっとお願いして紡君の部屋も取ってもらったの」
「ちょっと……って、一部屋増えるって民宿だとかなり大きなことなんじゃない……?」
ホテルの一室ならばいざ知らず、民宿サイズの一室は結構大きい。それを優先的にねじ込んでもらっているあたり、千尋さんがどれだけこの海旅行に入れ込んでいるかが現れているかのようだった。
「大丈夫だよ、お金払ってないわけじゃないんだし。早く予約を入れてもらう代わりに海の家の手伝いをするってところもあるし、結構等価交換って言えるんじゃない?」
「等価交換……かなあ……?」
なんだかうまく言いくるめられているような気がしないでもないけれど、言われてみれば平等のような気がしてしまうから難しい。それで実際民宿の人がオーケーを出してるんだし、まあいいってことで納得するべきなんだろうけど……
「まあ、それも社会経験ってことであたしたちの課題には有益だしね。ご厚意で毎年こういうことをしてくれるから、できるだけ色んな思い出を作って帰らないと」
「うん、それは間違いないね。こんないい場所に案内してもらったし、僕も返せる分は全力で返すよ」
窓の外の海から視線を外さないまま、僕と千尋さんは言葉を交わす。周りには結構な人が乗っていたけど、その人たちもほとんど窓の外を見ている。この人たちもきっと、同じ海を見に来た観光客の人たちなんだろうな。
この人たちと明日か今日には海の家のスタッフとして顔を合わせる可能性があると思うと、それはそれでなんだか変な感じがしてならない。観光客であり海の家側のスタッフでもあるなんて考えてみるとなかなかないし、千尋さんは僕に屯田御なく貴重な経験をプレゼントしてくれているのかもしれない。
「――いい旅にしようね、千尋さん」
「もちろん! 紡君と来る海はこれが初めてだもん、名一杯楽しい思い出にするよ!」
僕が改めてそう千尋さんに告げると、満面の笑みがはじける。その宣言を後押しするように運転手さんがバス停の名前をアナウンスして、降車しますのブザーが軽快な音を立てて鳴り響いた。
次回、青く眩しく光る海が紡たちの前に現れます! お互いに決意を抱く夏休み、果たして何が待ち受けるのか!是非お楽しみにしていただければ幸いです!
ーーでは、また明日の午後六時にお会いしましょう!




