第七十三話『僕は名前を知る』
「忘れられるってのは、とても恐ろしいことです。……それを強いることが一番の解決になるなんて、僕にはとても思えない。……だから、いくら何でも見過ごすわけにはいかなかった」
過去の痛みをありありと思い返しながら、僕はお姉さんに頭を下げる。これで対等なんて口が裂けても言えないけれど、僕にだってバックボーンはある。それを知ってもらおうという完全なエゴだけで、僕はお姉さんに語りかけていた。
「そっか。……お前からしたら、確かに無神経な提案に聞こえても仕方がないな」
「それも一つの方法だってことは、僕だって理解しているつもりではあるんですけどね。……だけど、千尋さんの意志がないままそれをやろうとするのは違うって言いたいだけで」
どこか遠くを見つめるお姉さんに、僕は小さく首を振りながら返す。この過去にお姉さんが何を思ったかは分からないけれど、それを全て無視するような人ではないはずだ。……押しつけに過ぎない行動にも、何かしらの意味はあったんだと信じていたい。
「千尋さんは、僕に『小説を読めるようになりたい』ってあの日はっきり頼んでくれました。その言葉があったから、僕は今千尋さんの隣にいられる。……僕が一つ前に進めたのは、七割ぐらい千尋さんのおかげなんですよ」
あと三割は運の良さで、僕が何かを頑張ろうと思って千尋さんと出会えたわけでは絶対にない。だからこそ、ここで気を吐こうと思えた。……ここまで何にもなびいてこなかった自分の意志って奴を、真正面からぶつけたいと思えたのだ。
「千尋さんが居なかったら、きっと僕は今でも大切な人と一緒に居ることを怖がってたと思います。大切な人がいつか大切じゃなくなることにただ怯え続けて、あの記憶の影に脅かされながら生きていくしかなかった。……大切が変わっていくことを怖がりながらも受け入れてくれた千尋さんがいたから、僕は今お姉さんの前に居ます。僕の想いを分かってくれた千尋さんの想いを無駄にしたくなくて、ここに居ます」
まっすぐにお姉さんの瞳を見つめ返して、僕は改めて頭を下げる。二つの視線が交錯して、お姉さんの視線が微妙に揺らいでいるのも分かる。……だけど、それでも僕は視線を向けることをやめなかった。
千尋さんの力になるためには、ここが一つ大きな分水嶺だ。だからこそ、僕がここで折れるわけにはいかない――
「――カスミ、だ」
「……え?」
突然そんなことを言われて、僕は思わず口をぽかんと開ける。それに対して返ってきたのは、どこか憮然としながらも笑みを浮かべたお姉さんの顔で。
「お姉さんじゃなくて、私のことはカスミって呼べ。私は千尋だけのお姉ちゃんだからな」
お前のことを義弟と認めた覚えはねえよ――と。
そんなことを付け加えながら、お姉さん――カスミさんは小さく笑う。……それは多分、カスミさんなりに僕のことを受け容れてくれた証だった。
かなりの時間はかかりましたが、紡とお姉さん――カスミも無事に分かり合うことが出来ました! 千尋さんを思うもの同士ここからどう連携していくのか、ぜひお楽しみいただければと思います!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!




