家庭教師編
大学に入ってから暫くして、愁人は家庭教師のアルバイトを始めた。初めて教え子の一条舞結を紹介された時、予想外に可愛い子だったので少し戸惑ってしまった。笑顔の時にチラッと見える八重歯が印象的だった。
「先生、彼女いるんですか」
勉強部屋に入った途端、舞結がいきなり聞いてきた。今どきの中学三年生にしてみれば、一番興味のある質問なのだろう。
「いるよ」
「いるんだ。どんな人?年下?」
「同級生だよ」
「毎日会ってるの?」
「ちょっと舞結さん。もうそろそろ雑談は止めようか」
「もう少しだけ。駄目ですか」
「それはちょっと置いといて。勉強を始める前に一つお願いがあります」
何とかコッチのペースに持っていきたい。愁人が事前に準備していた作戦が発動された。
「舞結さんの成績アップのためには、お互いを尊重し合える関係になることが必要と思います。その第一歩として約束して欲しい。絶対に先生にウソはつかないこと。いいね」
「分かりました。先生」
釘を刺したつもりだが、反撃を食らってしまった。
「先生も私にウソはつかないんですよね」
「当たり前です。約束します」
「彼女さんと私、どっちが可愛いですか」
「バカな質問はしないで下さい」
「ウソはつかないんですよね。答えて下さい」
舞結が真剣な眼差しで返事を待っている。
「…黙秘権を使います」
「ずるーい」
「ウソは言えませんので」
「…先生、彼女さんに気を使わなくても良いと思いますよ。居ないんだから」
「まさか自分の方が可愛いと思っているの?」
「え、違うの?」
「…」
四歳も年下の女の子に振り回されそうになる愁人だった。
先生が次の話題に話を切り替えてきた。
「次に目標設定の話しをしょうか。舞結さんは将来なりたい職業とか行きたい高校や大学とかあるかな」
「まだ何も分かりません」
「正直でよろしい。でも目標も持たずに、ただ単に勉強しても身につかないし、やり甲斐もないからね。要するに有言実行ってやつだよ。例えば、〇〇大学に入って格好いいボーイフレンドを見つけるとかでもいいんだけど」
勉強を始める前に、ウソをつくなとか、目標設定とかこんなことを言ってくる大人は今までいなかった。この先生は本気だった。本気で私と向き合おうとしてくれている。舞結はこの先生のことなら少し信用しても良いかなと思った。それにこの先生に興味も湧いてきた。
「ボーイフレンドのイメージが湧きません。なので先生でイメージしても良いですか。例えば先生と同じ大学に合格するとか」
「…まあ良いでしょう」
「成績が上がったら先生からご褒美が貰えるとか」
「…分かりました。では、暫定的に目標設定はこの二つにしましょう。この目標設定は、後で変更しても、追加してもOKです」
「先生からのご褒美は、何でもしてくれるということで良いんですよね」
舞結が遠慮なく聞いてきた。
「…先生ができる範囲なら良いですよ」
「やった。じゃあ考えておきます」
舞結はいきなりやり甲斐を持つのだった。
舞結にとって愁先生の教え方は本当に上手だった。一つ一つ丁寧にわかり易く真剣に教えてくれた。
また、愁先生に教えて貰ったところは、愁先生との記憶と同時に舞結の脳に刷り込まれ、ほとんど一回の説明で十分身についてしまった。また、休憩中の愁先生との雑談でも、同級生には感じない大人の魅力を感じてしまうのだ。
ある日、愁先生から普通の大学ノートを手渡された。
「これに一日勉強した内容や分からなかった所を書き出しておいて下さい。今度来た時に内容をチェックして返事します」
舞結はニヤッとしながらこう返した。
「これって交換日記ですか」
「全然違うし。これは自分メモといってこれで勉強した内容のまとめや理解度などを確認して勉強の進捗管理をするんだよ」
「要点は三つにまとめると覚えやすいからそうするようにね」
「分からないことを書くんですよね。これってここに私の分からない気持ちを書けば、愁先生はチェックして答えてくれるんでしょ」
「…」
十秒程度の沈黙の後、愁人は大学ノートを引っ込めた。
「これは無かったことしましょう。良く考えたらそこまでやる義理は無いし」
「冗談です。やります。やらせて頂きます」
舞結はノートを奪い返すのだった。
せっかく準備して貰った愁先生とのコンタクトウエポンを、やめる訳にはいかないのだった。
「じゃあここに質問欄と返信欄を作っておきますね」
「個人的なことは聞かないようにね」
「分かってますって。そんなに警戒しないで下さい」
と言って舞結はこの二つの欄を少し大き目に設定した。
愁先生にもっと色々教えてもらいたい。
舞結は、勉強を滅茶苦茶頑張ることに決めた。今度の中間テストで私の成績が上がれば、両親も愁先生を認めるだろう。それで家庭教師の回数を二回/週から三回/週に増やしてもらおう。
舞結に、新しい目標が追加された。
舞結は、愁先生と一緒に過ごす時間がとても貴重で最高に幸せなのものになっていた。
舞結にとって愁先生は、尊敬しつつも恋愛対象の存在となっていくのだった。
愁君が家庭教師を始めたと聞いて、司彩はなんだか嫌な予感がした。
「その教え子ってどんな子。写真ある?」
ピロンと写真が届いた。司彩は写真を見るなり血の気が引いてしまった。
「この写真撮ったのって、もしかして愁君?」
「そうだよ。その子のスマホを借りて撮ったんだ」
そこには、好きな人に撮って貰ったとしか言いようがない照れ嬉しい表情をした女の子が写っていた。とても中学生の子供が出せる表情ではなかった。司彩はこの子は危険だと直感した。
「この子の家庭教師を直ぐに辞めて欲しい」
思わず言っていた。
「どうして?いきなり辞められる訳ないだろ」
「この子に愁君取られちゃうよ」
「そんなバカな、相手は中学生の子供だよ」
「だって…」
「全然大丈夫。子供だって」
「…もう知らないから」
愁君とケンカしてしまったのはこれが初めてだった。しかも痴話喧嘩だ。
このまま愁君から連絡が無くなったらどうしよう。遠距離で今の状況って、どうしたら仲直り出来るの?
司彩はとても怖くなった。良く考えると、写真を見ただけでヒステリーを起こし、愁君の話を何も聞かなかったのはこっちだった。でも、愁君が家庭教師を辞める気がなく、また同じ話しの繰り返しになれば本当に終わってしまう。
先ほどの会話のやり取りと、もう二度と愁君と話しが出来なくなるという焦燥感がぐるぐると何回も脳裏を周回し、それ以外は何も考えられなくなった。
司彩は目の焦点が合わせられなくなった。なにも聞こえなくなった。指が動かせなくなった。
どんよりした景色の中で、その場からピクリとも動けなくなってしまった。
夜が明けて外が明るくなってきたが、まだ司彩の体は脳の命令に対して反応できる状態ではなかった。なんとか、昼前までには動けるようになった司彩だが、目の焦点は合わせられないままだった。
舞結は愁先生とご褒美のパンケーキデートをしているのだが、愁先生の様子が昨日からおかしい。茫然自失しているようだ。
「愁先生、昨日から元気ないよ。どうしたの」
「…実は彼女と少しケンカしたんだ」
「その原因ってひょっとして私のせい?」
「…」
愁先生が黙っていると言うことはそういうことだった。愁先生が私のことをそんな風に言うことは無いはずだが、流石に彼女のカンは鋭いと言うべきか。せっかくの愁先生とのデートなのに、一緒にいても全然楽しくない。それどころか、まるで今にも別れ話を切り出すような顔をしている。舞結は何だかとてもイヤな予感がしていた。
「舞結さん。考えたんだけど、俺、家庭教師辞めようかと思ってる」
舞結の不安が的中してしまった。
「絶対イヤ」
「そんなこと言われてもこれしか方法が思いつかないんだ。申し訳ないけど…」
「そんなの絶対イヤ」
「…」
なんで彼女のためにそこまでするのだろう。でもこのままでは本当に愁先生が辞めてしまう。愁先生との別れのカウントダウンが始まり、舞結の命が風前の灯火になった。
もうこれっきりってこと…。
舞結の目から一筋の涙が流れた。
それだけは絶対イヤだ。何としても絶対に、絶っ対に止めさせなければならない。舞結は考えに考えて、ある一つのことを考えついた。でもこれは、本当は絶対にやってはいけないことだ。でも…どうしても他に方法が思いつかない。
舞結は一大決心をして愁先生に話し始めた。
「愁先生、今まで隠していたけど、実は私、彼氏いるんだ」
舞結は、生まれて初めて愁先生に嘘をついてしまった。
大事な話があるから電話に出て欲しいと、愁君から連絡が来た。喧嘩してから丁度丸二日が経ったころだ。司彩は、思考回路が完全に停止していてどうしていいか全く判断できなかった。でもこんな思いのままでは何も手につかないし、これ以上は耐えられなかった。司彩は気持ちの整理がつかないまま電話に出てしまった。
「家庭教師の件なんだけど、辞めなくても良さそうだよ」
「え、どういうこと?」
「家庭教師を辞めたいって言ったら、実は彼氏がいるんだって。これなら辞めなくて良いよね」
この愁人の言葉に丸二日間停止していた司彩の脳が動き始めた。
「えっと…その子ってどんな子だっけ」
「がんばり屋さんだよ。最近成績も上がってきたみたいだし」
司彩はそんなことではなく女の子としての印象を聞いたつもりだったが、そんなことを考えている自分がとても恥ずかしくなった。しかし愁君のあの子に対する印象を聞けて逆に良かった。
司彩は暫く考えたあと、吹っ切れたように言った。
「うん。分かったよ。愁君のこと信用する」
彼女の言うことを信用している愁君に対して、まだ信用出来ないからやっぱり辞めてくれとはとても言えないのだった。何よりいざと言う時は家庭教師を辞めるとまで決意してくれているのだ。正直彼女のことは気になるが、今までの話を総合すると、現時点では私の方が二歩も三歩もリードしていると思った。
でもそんなことはもうどうでも良くなった。愁君と仲直りが出来てこんなに嬉しいことはない。愁君と話していると自然と涙が頬を伝ってくるのが分かった。司彩にはもう愁君がいない世の中なんて考えられなくなっていた。司彩は愁君と話しながらこのしあわせは絶対に失ってはいけないと心に刻み付けたのだった。
司彩は通話を切ると、愁君から貰ったラブレターのことを思い出した。そこには遠距離恋愛の秘訣が、わざわざ書いてあったのだ。その秘訣とは「相手を信頼すること」と書いてある。愁君は「こんなの私に強要できない」と否定したようなことを書いていた。しかし、これは裏を返せば、「俺は司彩を信頼するから、司彩も俺を信頼して欲しい。そして遠距離の壁を一緒に乗り越えよう」という愁君から私へのメッセージに他ならなかった。司彩は今頃になって、愁君が私にラブレターを渡したもう一つの意図を理解したのだった。
元々愁君のことを万が一にも疑わなくて良かったのだった。万が一だから0.01%も疑う必要なんてない。絶対に愁君を失わないために私がするべきことは「大好きな愁君を100.00%信用する」たったそれだけでよかった。今の私なら絶対に出来る。こんなに単純で簡単なことはない。司彩にとって愁君を信用することは毎日歯磨きをすることよりも簡単なことだと思えた。
司彩は、これからは、何があっても、どんなことが起ころうと、愁君を100.00%信用すると固く決心することにした。
舞結の目には愁先生の元気が戻ったように見えた。家庭教師も継続すると言ってくれている。舞結の部屋で愁先生は完全復活をはたしていた。舞結は単純に嬉しかったが、良く考えると私に彼氏がいたら元気になるって、喜んでいる場合ではなかった。現時点での自分の立場は、恋愛対象として全く見られていないということだった。今のままではスタートラインにすら立てていない。
このままではいけなかった。
愁先生が家庭教師をしてくれるのは、今年一杯が限界だ。その間に愁先生をこっちに振り向かせなければいけないのだ。
「次のご褒美は、愁先生とのツーショット写真が欲しいな。頬っぺたくっ付いた感じでお願いします」
少し強引な気もしたが立ち止まっている訳にはいかなかった。
「舞結さん。彼氏いるんだよね」
愁先生のこの質問に舞結の心臓は止まりそうになった。ついにこの時が来てしまった。いずれは、ばれると思っていたが、これ以上嘘をつき続けることは出来なかった。
「別れました」
舞結はうつむきながら消える様な声で返事した。
そんな都合良く…と言いかけて愁人は止まってしまった。舞結がうつむいたまま、小刻みに震えている。愁人は胸に重りが入ったような感覚に陥った。良く考えると舞結に彼氏がいるなんてありえなかった。俺が家庭教師を辞めると言ったから病むにやまれず言ったのだろう。嘘をつくな、など偉そうなことを言って彼女を追い詰めた。愁人は彼女のその純粋な心に傷をつけてしまったことを心から反省した。もうこの子に嘘をつかせるようなことはしないと誓うのだった。
愁人は嘘をつかせてゴメンねと言いながらそのうつむいた頭を優しく撫でていた。
「ゴメン、なさい」
舞結は小さな嗚咽を漏らしながら愁人のもう片方の腕の袖にしばらくしがみついていた。
ようやく舞結が顔を上げた。
「愁先生に彼女がいることは分かってます。分かってますけど、どうしようもないじゃないですか。好きなんだから」
舞結の気持ちが爆発してしまった。
舞結の猛反撃が始まった。
「愁先生は、家庭教師のくせに受験生のモチベーションを奈落の底に突き落とすつもりですか。ちゃんと責任取ってください」
舞結の顔が直ぐ近くに寄ってきた。目に涙が溜まったままだ。
「責任って」
「じゃあ順番に行きます。黙秘権は無しだからね」
舞結が有無を言わせない感じで説明を始めた。
「私のこと好きですよね。この前、私のこと自慢の教え子だって言ってましたよね。自慢の教え子のことが好きじゃないなんてことありえませんよね」
「…そうだね。好きだね」
「私って可愛いですよね。この前可愛いって言ってましたよね」
「…言ってたね。可愛いよ」
「愁先生は私のことが好き。私は可愛い女の子である。ゆえに、愁先生は可愛い女性として私のことが好きってことです。私も愁先生が好きなんだから理論上は二人が付き合うのは自然のことです。それなのに何故私を恋愛対象から外すんですか」
「そんな三段論法で言われても」
「私の本当の最大目標は、愁先生の彼女になることです。私に目標設定をさせたのは愁先生ですよ。責任を取ってください。なにも今すぐ彼女さんと別れてくれなんて言ってません。遠距離なので自然消滅を狙ってます」
「そんなの、ありえないし」
舞結の目が鋭く光った。
「そんなことありません。三回/週会っている私が遠距離の彼女のことなんて忘れさせてあげます」
「ちょっと落ち着いて。一旦冷静になろうか」
「今までどれだけガマンしてきたと思ってるの!」
舞結の声量が最高潮に達した。
「分かりました。舞結さんの気持ちは良く分かりましたから。少し考えさせて下さい」
「だから、返事は要らないってば。今返事されたら落ち込むだけでしょ。私受験生だよ。分かってないな」
「じゃあどうしたら良いの」
「私がして欲しいことはたったの三つです。要点をまとめると」
1.今まで通りに接して下さい。但し私のことはちゃんと女性として見ること。
2.絶対に家庭教師は辞めないでください。
3.自分メモですが、新たに私と愁先生メモを作って、あと半年かけて私が彼女になる迄の進捗管理をします。
目標設定も三段論法も自分メモも進捗管理も要点を三つにまとめるのも全て自分が教えた内容だった。舞結はこれらを見事に使いこなしていた。反論出来る筈がない。
「分かった。そうするよ」
「その代わり、彼女さんとは自然消滅した程で話しを進めますから」
「…」
これも今、反論するのは止めておこう。
それにしても、舞結の強烈な宣戦布告だった。本気の舞結の勢いは相当なもので止められなかった。この勢いで本当に迫られたらと思うと少し自信がなくなる愁人だった。