ノブオ、49年のキャリアデザイン(明治26年~昭和17年)福岡-中編
熊本市の料亭に嫁いで10年が過ぎ25歳になっていたがいまだ子宝に恵まれず月に何度も実家の診療所に顔を出すようになっていたノブオのことを、
姑は長男の嫁選びをミスったと思うようになっていた。
ノブオの実家では母のミヨが亡くなりノブオが家を出てから、
父が29歳のときの最初の妻オトの娘のウシだけが家族として父と診療所の離れの自宅に住んでいた。
父のゲンシンはたびたび外泊して何日も帰らぬ日もあったが、
診療所は若い数名の医師がしっかりと稼働させてくれていた。
66歳になった父とようやくゆっくり時間を持てたノブオは、
母のミヨが亡くなった半年ほどあとから愛媛のトクという面倒をみることになった女がいて、
そちらで祖母とトクと農業をしながら暮らす彼女の子どもたち=ゲントク、ハツエ、ハナコ、キクエ、ヒデオ、マサコをゲンシンが子として認知入籍していることを話された。
16歳になる長男のゲントクは近々天神の診療所で引き取って働かせて医者にするつもりでいるということや、
トクは自分の母親とも子ども5人とも離れたくないから愛媛から博多へは移る気はないといっているということで、
彼女を妻として実家に迎える雰囲気ではないことなどが分かった。
初めて父親に大人と扱われたような気がしてノブオは嬉しかった。
思えば幼い頃からの習い事で自分の人生はいろいろとうまく助けられてきていたのも事実なのだから、
この父を尊敬していないわけは無かった。
ただ、
自分の意思で愛媛から動かないまま好きな男の子どもを6人も持つ、
博多に仕事場を持つ父が惹かれどおしのトクという強い女に会ってみたいような気もした。
結婚して15年目、
仕事一筋で料理に励んでいると思っていた夫に芸妓見習いの恋人がいて妊娠していたことが分かった。
姑は産まれてくる子どもだけを養子に入れてノブオに母として育てるようにと告げてきたが、
ノブオは聞く耳を持たず気に入っていた髪飾りやメイク道具など手に持てるだけの荷物を風呂敷に入れてさっさと実家に帰ることにした。
離婚については養父母への正当な言い訳もたち、
自分の手足に繋がれていた紐が切れるようで心身ともにスッキリとして、
その後の生活を実家の診療所に移すことへのノブオの足取りは軽く、
父のゲンシンも喜んでいるような温かで優しい笑顔で迎えてくれた。
ノブオは診療所の治療の補助ではなく忙しく働く皆や療養患者のための食事を作る担当をして、
台所で働く女たちに的確な指示を出しうまく取り仕切るようになった。
料亭の女将から給仕責任者にやりがいを感じていたとき、
父のゲンシンから医者名ゲンショウを与えられていた2歳年上の精悍で誠実な医者と惹かれあって付き合うようになった。
独身の医者たちには敷地内に四畳半の小さい寝るだけの個室があったが、
ノブオの部屋で過ごすことも公認となっていた。
ノブオが34歳のとき、
ツネオが産まれ、すぐ翌年にノノコが産まれた。
ノブオは相変わらず実家の自分の部屋の方で年子で埋まれたツネオとノノコの育児に明け暮れ、
家族四人で近所にここより少し広い家を構えようかと相談していた矢先、
夫のゲンショウの呼吸しずらそうな強い咳が止まらなくなったかと思うと数ヵ月で亡くなってしまった。
ノブオは、
また患者から死の病をうつされたに違いないと思い、
医療と関係ないところで安心して2人の幼子を育てたいと父に泣く泣く訴えた。
医療のことしか知らない父は、
ノブオが料亭で嫁として15年間暮らしたことが身を助けるだろうと、
京都の銀閣寺なら品の良い客も多く経営には困らぬらしいと聞き自宅付用の離れが付いた80坪ほどのこじんまりした料理屋を契約してくれた。
行ったこともない遠い京都で一人は難しいが、
愛媛のトクの娘のうち仲居として働いた経験がある愛想が良いハツエとキクエが一緒に行くというので思いきって行く事になった。
遠い京都に行かせるという父の判断はあまりに衝撃だったが、
実家から2人馴染みのお手伝いを連れていけたことと父の信頼できる知り合いが京都にいること、
トクの娘たち、といっても母違いの妹なのだが、
思いのほか素直でよく働く良い子達だったことで、
まだ38歳の若いノブオは料亭の若女将をやらことにした。
ゲンシンは
娘三人、ノブオ、ハツエ、キクエが経営する小さな料亭を「三勝」という屋号にした。
祇園で修行した三人の板前は店が繁盛するように博多の料理も取り入れてくれたり何かと頼りになったが、
焼き方の板前が大口客の支払った金庫の金を持ち逃げしたり、
ご贔屓さんと呼んでもらえるリピート客がなかなか増えなかったり、
毎日がどこまで頑張れるかというような修行の日々を過ごしているようだった。
それでもノノコが5歳の頃には観光客も入るようになり、
紅葉の美しい寺の経営する幼稚園に行かせることができるようになり自分と同じように日本舞踊も習わせた。
ツネオは私立の男子校に入学したが、卒業後は板前修行に出すことも決まっていた。
40代半ばのノブオは、
このままうまく料亭が続いてくれることを心から祈っていたが、
もちろん経済的な父の支援ありきであった。
父は、
自分が京都に来てから少しして自分と同い年のジュミとかいう女と結婚してしまっていたが、
そろそろ88歳になろうかというところで亡くなってしまった。
父の遺産や診療所はみな、
ジュミのものになるのだろうか…。