ジュミ、47年のキャリアデザイン(明治26年~昭和15年)熊本-博多-後編
15歳といえばそろそろ嫁入りの年頃になるが、
手伝いの女たちと違って首や手足まで透き通るように白い肌で薄茶色の大きな瞳を持つジュミには縁談は無かった。
ジュミが石切場で働く若い男たちに連れ去られたあとで何が起こったか、
事実以上にひどい脚色をされたまま広まった出来事が、
いつまでも興味深げに話題になっていたからだった。
翌年ジュミが難産で自分も命を落としそうになりながら産んだ赤ちゃんは父によってすぐにどこかへ里子に出されてしまい、
飲んでくれる乳児の居ないオッパイが溢れ出して太い針で突き抜かれたような胸の痛みに何週間も耐えなければならなかった。
一時の快楽だけで忘れてしまう男と新しい命を宿して慈しみ育てる女との大きな違いを、
ジュミは身をもって知ることになり、
自分が二度と子どもが産めない身体になっていたことを知るのはずっと先の40歳を過ぎた頃だった。
ジュミの地元ではピンク色の美しい石が採れ、
父や兄が家業にしているものでもあり見ているだけでとても安心した。
村にはいくつか石造りの眼鏡橋があって、
ジュミの一番お気に入りのピンク色の眼鏡橋は建造年代ははっきりしないが江戸時代末期頃のものだといわれているもので、
長さ14メートル幅4メートルの単一アーチ橋でもちろん石材は網津村で採れる馬門石と安山岩だった。
笑顔で家族や友だちと言葉を交わすこともしなくなったジュミの楽しみは、
ピンク色の眼鏡橋がよく見える河原に座って母が大切にしていた自分には読めないハングル文字の本を何時間も眺めていることだった。
21歳のころ日本は第一次世界大戦に突入し、
家業に関わってくれる人たちの食事を作っていたジュミにも次第に食材の入手が不自由になっていくのがわかり不安な心持ちであった。
25歳の年にようやく第一次世界大戦が終結したので傾きかけていた家業の手伝いだけでなく、
天草大王(中国から入っていた背丈90cm重さ6キロもある大型の食用鶏)の飼育と優良種にするための交配をする職場に週に数回働きに行ったりしていた。
友だちも交際する男も作らないまま特に大きな変化もなしに10年が過ぎたが、
やがてジュミは自宅から出ることもつらくなってしまい自分の部屋で寝たり起きたりするようになったが、
なんの病気なのかは分からなかった。
38歳の年の春、
度々博多に仕事に行く兄のマサハルが「どんな病でも良く診てくれる医者がいる」と聞いてきてくれ、
博多の天神にあるその診療所に行ったところ、
しばらくここで療養をしてみよ、と優しい眼差しの老医師に言われたために兄だけが村に戻っていった。
ジュミが安心していられたのは、
自分に近づき触れる医者が仏様のような笑顔の爺様だったからで、
診療所の他の医者たちや家族らの食事を作ったりして重宝されたことで自分の仮の役割も出来、
網津村に戻らぬままあっという間に1年がたってしまった。
40歳の時、
もう夢見るような希望的な未来などまるでないだろうと思える自分の人生に絶望的になって川に身を投げようとしたが誰かに引き留められ、
そのうちに心を痛めた診療所の老医師が自分と結婚して診療所の母役になればよろしい、と、
結婚式などは無かったがきちんと戸籍に入れて正式な居場所を持つ権利を与えてくれた。
世間では5-15事件で犬養毅が射殺されるという歴史にのこる大事件が起きたが、
ジュミは老医師の娘たちと同じように診療や薬の調合の手伝いをするようになっていき、
村にいた頃とはまるで違った初めての新鮮な心地よさを味わっていた。
患者の不安な心を取り去るような上品で笑顔がまだまだ若々しく美しいジュミも45歳となった年の暮れ、
風邪をひいていた老医師のゲンシンが肺炎で亡くなってしまった。
夫ゲンシンの遺産相続には問題が少なくなかった。
妻でありジュミは、
婚姻前から実子入籍されていた老医師の5人の子供(ウシ52歳、ノブオ40歳、ミツル31歳、小学生のツネオ9歳とノノコ8歳)らの義母という立場だったが、
戸籍では子であるも先妻の連れ子で家族との血の繋がりが特にない成人男子のイワオについたとうに亡くなっていた先妻の親族らから、
過分な相続請求をされてしまった。
困ったジュミは実家に相談し、
兄の友人によってイワオ24歳だけは親子関係不存在、という判決を勝ち取ることができた。
しかしながらジュミとて、
ゲンシンの居ない博多で亡き夫の部下の医師たちの診療の手伝いをする気持ちにもなれず、
裁判をしたことで居ずらくなったことを理解していた兄が、
自分達家族とは別の離れになにも使っていない部屋があるので今は戻って来てひとまず実家で暮らせばよいと万事取り計らって遺産相続も代理で処理してくれ、
ジュミに引っ越しをさせてくれた。
兄の妻が食事の采配を取り仕切る実家に戻ってからは役割もなく、
また笑うことも無くなって部屋に閉じこもる日々が続き寝たり起きたりしていた47歳のある朝、
痩せたジュミが離れの部屋の布団の上で静かに死亡しているのに気付いたのは、
夕食について声をかけに来た小さな甥っ子だった。
枕の下にはボロボロになったゲンシンからもらったオランダ語で読めない治療の指南書らしき本がひいてあった。
日本社会は、
ちょうど東京オリンピックに沸き上がって明るい希望に満ちていた。