ジュミ、47年のキャリアデザイン(明治26年~昭和15年)熊本-博多-前編
ノノコの戸籍上の母の(旧姓ツガワ)ジュミは、
熊本県の網津村という天草へ渡る途中の半島の町に住むクリスチャンの家庭に生まれた。
古くは小西行長というキリシタン大名が支配した土地で、天草四郎の出生地であるとする説も存在している。
両親は兄のマサハルにジュミの子守りを任せて馬門石の石切場で働いていた。
馬門石のピンク色の石は大変貴重で金銀と変わらぬ高額なもので、
戦国の時代からずっと遠くは奈良や兵庫や京都にまで届けて有名寺社仏閣や貴族の邸宅に使われていた。
ジュミの父のツガワは馬門石の事業を親から継いで全国への販路を拡げるべく精進していた。
ツガワは妻が亡くなったあと2人の幼い息子たちにまだ育児をしてくれる女が必要だったので、
博多で知り合って以来こっそり会いに行ったりしていた美しい韓国人女性を後妻に迎えた。
ツガワの次男が8歳になる頃後妻に女の子が生まれ、
韓国の女の子の可愛い名前のうちのユナとジュミのどちらをつけるか迷っていたところ、
宝石が美しいイメージを連想するということでジュミという名前をつけることにした。
当時の博多には京都や大阪ほどではないが韓国人もたくさん棲んでいたが、
宇土郡網津村ではどうしても目立つ存在であった。
周りの興味本位の視線を浴びながらもジュミの母はツガワの仕事をよく手伝ったので、
地元の住民からも次第に信用されるようになりツガワも安堵していた。
ジュミが産まれた翌年、
かねてから朝鮮半島を支配したかった清と日本が戦争に突入した(日清戦争)。
清はロシアへの懸念があるし、
日本は、
朝鮮での反日運動を押さえつけなければならないところにイギリスの支援を受けることで清とイギリスが手を結ぶのを防ぎたい。
朝鮮半島で勝手に外人どおしが国民の命を道具に喧嘩をするのが、
世界に軍力を示すためにも必然であったような時代だった。
戦争が起きれば、
ひやひやしつつ無事に大儲けをする輩や知らん顔のふりでこっそりもうける輩もいるし、
大きな既得権益も生まれるが、
ツガワの石のビジネスにはほとんど利益は回ってこなかった。
ジュミが1歳になる月に、
山口県下関にある医師に先立たれた妻が始めたふぐ料理の名店「春帆楼」で日本に有利な下関条約が締結されて、戦争が終わった。
朝鮮半島の国民=朝鮮人にとって大変な月日であったのだが、
それはいかにも次の闘いへのトリガーになりそうな日本に有利な条約でもあったけれど、
伊藤博文や陸奥宗光の名前は全国にとどろいた。
清からは当時の日本の国家予算のなんと三倍以上の賠償金を取り、
台湾や遼東半島をもらって世界に通じる強い国というイメージをつけ、
そこでおしまいでなく清から支払われたお金の8割以上をさらなる軍事費として使ってしまう日本に産まれたジュミ。
日本に戸籍法ができるジュミが6歳の年までは、
彼女の出生届け出はされていなかったが、
母ゆずりの飛び抜けた色白の肌と父に似た鼻筋が通った大きな瞳の顔立ちはツガワ夫婦の子供であると誰の眼にもすぐにわかるほどだった。
ジュミが11歳になった年、
今度は日露戦争が勃発した。
再びジュミの母の故郷の朝鮮半島と満州の権益を奪い合う、
日本とロシアのそれぞれの国民の命を無駄遣いしての戦いだ。
日本海や満州の南部、遼東半島がその戦いの場となり、
勝手に捧げさせられた多くの人間の尊厳が社会的な悪意の圧力下で失われてしまった。
ただ、
網津村では戦争を身近に実感するほどの怖さはなく、
病であっさり亡くなってしまった母よりずっと美しくなった15歳のジュミを気にかける男たちが増えていた。