ノノコ88年のキャリアデザイン(昭和7年~令和2年)京都-後編
ノノコは20代後半とはいえ、
ベルツ水(精製水、グリセリン、エタノール、水酸化カリウムで作られた保湿化粧水)をつけた上から粉白粉をはたく程度で良いほど肌がキレイだった。
たった2ヶ月半で辞めてしまった社交ダンスクラブでも、
平気で上から目線で語り愛想が良くないので逆に媚を売る女のなかでよく目立つのか面白がられたのか、
交際を申し込んでくる男性が何人もいた。
働いて生活費を稼ぐことに疲れ始めていたノノコは、
少額とはいえ結婚して家族を養っている2人の兄からの金銭的支援も肩身が狭いので、
独身女子の最も有望な選択肢である結婚をして専業主婦になることが頭をもたげていた。
ノノコは12歳で死に別れるまで母べったりの甘えん坊でたくさんのことを母から聞いていた。
医者の家系なので将来は医者と結婚するか看護婦になるのも良い、とか、
父はゲンショウという医者で若くして流行り病がうつって亡くなってしまったことが残念だということ、
自分も小さい頃に日本舞踊を習っていたのでノノコにも習わせている、他人は信用できない、
お金の前では人は平気で裏切って嘘をつくものだ、
などということなどなど。
もっともっと長生きしてたくさんの事を話してほしかったので、
ずっと母ノブオのお墓がある八坂さんの大谷廟界隈に住まい、
仕事も育児もこの界隈から決して離れず見守ってもらってきた。
月に一度の墓参りの今日の相談は、今度の結婚の相手について、だった。
5歳年上のツノダは、
大学を出て家業を継いでいる落ち着いた男で有力な候補者だったが、
外見が今一つ好きになれないのとキヨコのことを自分の親が死ぬまで隠してもらいたいと頼んできたことでノノコの気に入らない。
年配のタナカは、
とにかく年配なので話が会わないしせっかちな話し方やご飯の食べ方がノノコの気に入らない。
2歳年上のノモトは、
貧乏な家庭から京都に丁稚にきて暖簾分けされたばかりの呉服屋で妻になったら激しく手伝わなければならないのが決まってくるのでノノコの気に入らない。
7歳年下のナカムラは、
ついこの前までほんの21歳で世間を知らない室町の呉服問屋の八男坊で思慮が浅くヒトに容易に騙されやすそうな思い込みの激しい若者でノノコの気に入らない。
その時は母の墓前で手を合わせても答えはでなかったが、
キヨコのことも気にせず愛想良くしなくてもしつこく待ち伏せをしたり写真を撮ってアルバムを作ったり自分に気を遣ってくれるナカムラが、ノノコの部屋に住み込んでしまうのに3ヶ月もかからなかった。
ナカムラの母チヨが彼を迎えにきて兄たちが引きずり出してお金を置いて行ったので終わりにしようとしたが、
ナカムラがねばって相変わらずノノコの部屋に居座って住み込みながら仕事を探して家を出て就職してしまい、
なんとなく夫婦ごっこをしているうちに世間体の悪い駆け落ちでもされかねないと、
ナカムラ家の結婚の許しが出てしまい、ノノコは入籍してしまった。
そして次の年にはレイコが産まれ、さらに2年後にはヨシエが産まれて家族は4人になった。
レイコが産まれたころ、
キヨコの父がキヨコより5歳年上の女と再婚してキヨコと仲がうまくいかなくて家出をしたりしているのを兄のツネオから聴いたノノコは、
毎週金曜日の午後3時になるとキヨコの通っていた私立の女子高の校長室にレイコをおんぶして出掛けた。
学校長とは、
自分が産みの母であるのでキヨコのことは見守りたいのだと涙ながらに打ち明けて何度か通っているうちに大変仲良くなり、
ノノコが着くと学内放送で校長室に呼び出されたキヨコがもう半ば呆れながら照れ笑いしてやってきて、
時にはそのまま早退するということも許されたりした。
ナカムラには元々キヨコと会うことを結婚の条件として決めてあるので、
金曜日から日曜日の夜までキヨコはノノコのうちに泊まってご飯を作ったりレイコのオムツを替えたり母子らしく過ごしていたが、
キヨコの方でも若い後妻に男の子が2人産まれていたので気にもされなかった。
ナカムラは良く働いたが、
自分との間の2人の娘にはキヨコのことは遠縁の娘だとしてくれれば度々出入りしても良いとノノコに申し出た。
結婚生活ではナカムラはカラーテレビ、電話、洗濯機、ツードア冷蔵庫などすぐに飛び付いて買ってきてくれたが、
ノノコに渡すお金には細かくケチだったので多少のお小遣いのために、
近所の奥さん仲間からパートに誘われてパン工場や着物染め物などをやってみたが、
真面目にやりすぎて家事ができなくなってしまいナカムラに辞めることを余儀なくされたりして、
ずっと専業主婦の生活をしていた。
ナカムラは娘たちが成長するにつれキヨコからの電話を繋がなかったり手紙を隠して捨てたり会いに行くのを嫌がるようになった。
ノノコが40代でナカムラが30代の頃、
ナカムラには愛人ができて近所の奥さんが見かけたという辺りにキヨコの車で張り込みごっこをしてみたところ案の定、
ホテルから女とナカムラが出てくるところと出くわしてしまった。
ノノコは離婚すると泣いたが、
キヨコの方が「また、私みたいに2人の娘を捨てるの?子供のために我慢するしかないよね?」
と諭され、
その後は夫にはもう愛情が感じられぬまま、
それでも友だちのように子供たちの母親として過ごすようにしていった。
キヨコの父は酒好きで浮気を繰り返して育児を手伝うことがなかったし、
ナカムラは金に細かく思い込みが激しいままで外面ばかり良くて妻への暖かみがなかったし。
ノノコは娘たちが大人になると度々言っていた。
「結婚は誰としても良いとこも悪いとこもある。お金に困るような相手でなければそれで良い、期待はしないこと。夫婦はどこまでも他人で、自分が産んだ子供だけは大事に。」
結果的に人生でお金に困ることはなかったが、
皆に頼られて恰幅の良かった父(実は祖父)のような頼もしい男には関われぬままノノコは歳を重ね、
シェアハウスの同居人のような気が利かないナカムラと暮らし続けることを選んだまま、
88歳で下肢の浮腫みで玄関先で転倒してそのまま旅立った。
数週間前に電話で娘2人と数分話して「(コロナが落ち着いたらきっと)温泉にでも行きたい」と言っていた矢先だった。
亡くなったノノコの戸籍の父の欄はゲンショウ、
母の欄には「ジュミ」というノブオと同い年生まれの女の名前が書かれていたが、
ついぞノノコから聴いたことはなかった名前だった。