ノノコ、88年のキャリアデザイン(昭和7年~令和2年)京都-前編
レイコの母のノノコは「昭和一桁生まれ」という世代にあたる。
日本ではラジオ放送が始まり、私鉄の路線が増え、商店街が賑わい、映画や流行歌も楽しめるが、
政治への軍の勢いが日に日に強まってきていたり、
共産主義や社会主義を厳しく取り締まる特別警察が設置されたりしている監視社会でもある。
戦争はこれまでもいくつか勃発していたけれど一般人にとっては国内ではないどこか遠くでやっている感じでしかなく、
軍人を信じて日本は世界の中でもっとも強い大国になるのだと夢を見たりしている国民が主流である。
ノノコの母のノブオは、
子供が無かったため30歳で熊本県の嫁ぎ先から離縁されバツイチとなって博多の実家に戻ったまま、
父の部下にあたる若い医師と事実婚という状況で暮らしながら、
2人目の子供のノノコを産んでいた。
七五三のお宮参りに合わせる着物の話が出始めていたノノコが2歳の秋の頃、
患者から感染した(と、母のノブオから聞かされることになる)病でまだ30代の父があっけなく亡くなってしまった。
医師の妻が夫に先立たれたときに推奨される一般的選択肢のいくつかを、
手に職の無い母が2人の子供を抱えて生きていくために模索し、
結局は実家の父の支援を受けて料理屋を始めることになった。
料理屋は父の知人の紹介で集まった調理師や仲居を雇いいれ、
銀閣寺に80坪程の小さい店を構えて2階に住むことになったのは、
ノノコが4歳になる少し前だった。
驚くほど紅葉が美しいことで有名なお寺が経営する幼稚園に入ったノノコは、
キューピー人形が全面に張り付けてある大きな車に乗れるのが嬉しくて仕方がなく、
「キューピーさんのクルマ」が幼い頃の記憶としていつまでも残ることになった。
第二次世界大戦がおきる少し前の小学校にあがる頃には、
博多にいる祖父の決断でノノコとひとつ年上の兄ツネオは祖父の実子として戸籍届けが出された。
祖父のゲンシンが父ということになり、
最近佐賀から嫁いだ父の4人目の妻のジュミとかいう一緒に暮らしてはいない女性が母ということになった。
戸籍でノノコが毎日暮らしている本当の母ノブオの35歳年下の妹という位置付けとなったため、
母の稼ぐお金よりはずっと安定した養育費が、
父となった祖父からきちんと入るようになった。
小さいノノコはノブオの趣味であったのか日本舞踊のお稽古を始めさせられたものの、
一番気にしていることといえば、
教室で毎日板前さんが片手間に作ってくれるお弁当のおかずをやんちゃな男子にすっかり取られないようにするにはどうしたら良いものかということだった。
ノノコが小学校高学年になったある日の夜、
博多の祖父ゲンシンが亡くなってしまったという連絡が入った。
母のノブオはノノコとツネオを連れて、
料理屋を手伝ってくれている腹違いの姉のキクエとハツエと共に博多に向かった。
葬儀のひとつき後、
祖父ゲンシンの妻のジュミは、
戸籍上の5人の(同い年や年上もいる)子供たちに離縁を申し出て熊本の弟が家長となっていた実家に帰ってしまったが、
ノノコはまた母ノブオや兄ツネオと一緒にこれまでと同じように祖父の遺産に頼って暮らしていた。
日本中が軍人の指導に従って戦争に耐えたあげく敗戦となったが、
ノノコには母のノブオが49歳という若さで心臓脚気という病気で急死してしまったことがあまりに哀しく心細かった。
まだ14歳で伯母のキクエのお世話になったが、
兄はキクエが嫌いなようで言い争いも耐えず、
ノノコには居心地の良い日々ではなかった。
兄は16歳になり、
知り合いの割烹で板前の見習いとなり出ていってしまったが、
ノノコは女学校に入り裁縫などを学んでいた。
ノノコは駅に寝泊まりしている戦災孤児の小さい子供らに芋をあげたりしていたが、
痩せこけていったりズルくなってくる有り様を見るのが怖くなって駅に近づかなくなってしまった。
18歳になり「マリー」という洋裁店で働くことになったが、
兄のツネオは見習いとはいえすぐに腹を立てて喧嘩をして店を辞めてしまうので、勤め先はすでに7軒目、
無職の間は小銭を借りに来たりしてくる。
もちろん嫌なのだけれど、
両親の居ない心細さから伯母や兄がいるだけで勝手に戦争を決めた社会から保護してもらえない戦災孤児の子達より自分はまだ恵まれているのだ、と言い聞かせていた。
一生懸命な毎日が続いてはひと月が過ぎるばかりで、
若くて美しい年頃であるのにとくに楽しいこともないという時間が流れていた。
また、兄のツネオが店を辞めてキクエを怒らせてしまった翌日、
兄がニイサンと呼ぶ、
25~6歳の戦災孤児ですでに養子縁組みして軍に勤めているという笑顔が誠実そうなカツジを紹介してきた。
カツジは兄と起業するらしく、
キクエに預けていて使っていなかったノノコと兄の分の祖父の遺産を使おうという相談をされ、
別段起業には興味はなかったが、
自分の分のお金はいつか返してもらえるということなので断る理由もなかった。
キクエは信用できないからとかなり反対したが、
関わるのを嫌がっているツネオの分の預かっていた遺産は全て投げ出した。
実際のところ、
祖父の遺産がいくらあったのかはノノコにはまるで分からなかったが、
お金の話はいつでも嫌な顔をされるのでしたくなかった。
死んだら終わり。
ノノコが大きい姉から聴いて耳から離れなかった言葉だった。
起業したツネオとカツジの仕事は鉄鋼関係で一時は繁盛したものの、
借金が返せる程度で止めることになってツネオは再び割烹の板前見習いを始めてその店の若い仲居と結婚し、
カツジは起業してすぐ結婚した妻とは離婚して再び軍に勤めていた。
ノノコが一人暮らしをしたいとキクエに申し出て3ヶ月後、
新婚のツネオの住まうアパートの上の部屋が空いたとかで、
ノノコにとって初めての一人暮らしがスタートした。
得意な裁縫で自分の着る洋服は何着も作っていたので、
布団カバーやカーテンや椅子カバーなどを働いている洋裁店の残り布を安く売ってもらって部屋に合うように作った。
キクエと暮らしていた古くさい部屋の雰囲気が全く無い、
自分だけの新鮮な部屋が出来上がり、なんとも嬉しかった。
この女の子の部屋に、
ツネオに会いに来たカツジが職場の後輩のノリオを連れてくるようになった。
20歳になっていたノノコは同い年の背が高くて目鼻立ちの派手な美男子のノリオと恋人になり、
出会って半年もしないうちに結婚してしまった。
若い夫婦にはすぐに子供もできて、キヨコという女の子が産まれたが、
ノリオは育児を手伝うことなく繁華街に飲みに行っては浮気を繰り返すようになっていた。
21歳のノノコが一人でうまくできるほど育児は簡単ではなく、
ノリオの実家の姑に手助けしてもらいながら家事と育児に追われる毎日が過ぎていったが、
ノノコにはとうにノリオへの愛情など無くなってしまっていた…。