事件の翌朝
朝の陽ざしが差し込む教室の開いた窓からは、朝の涼しさを残した風が入って来ていた。すでに教室の中には多くの生徒たちが登校してきていて、私語が飛び交う様はいつも通りの朝の光景だったが、その生徒たちの表情の多くに緊張感が漂っていて、普段の楽し気な雰囲気とは全く異なっていた。
「早川さんたち、襲われたんだって?」
「なんで襲われたんだろ?」
「目的は何だったの?」
穏やかな地方都市には珍しい帰宅途中の女子高生を拉致ろうとしたと言う凶悪事件だけに、噂が駆け巡るのは早かった。そして、そんな噂はいつの事だが、尾ひれがついて面白おかしく脚色が重ねられていた。
「連れ込まれた車の中から逃げ出したって聞いたけど」
「本当に何もされなかったのかな?」
「制服破れてたらしいぞ」
「今日、二人とも学校に来るのかな?」
そう言ったクラスメートはちらりと、黒板の上に設置されている時計に目を向けた。今のところ、噂の中心人物である結希と由依の二人はまだ登校してきていないが、普段、結希が登校してくる時間はもうすぐに迫っていた。
「あっ! 早川さん、来たよ!」
教室に入って来る結希を見つけたクラスメートのその声で、一瞬教室内は静まり返った。教室の中の視線が結希に集中する。
怪我とかはないのか?
ショックとかは受けていないのか?
クラスメートの観察が始まる。それは全員が心配してと言う訳じゃない。中には興味本位の視線も混じっている。
が、それもすぐに終わった。普段は一人でもう少し遅く登校して来る真が結希の背後に現れた。女生徒たちの視線と興味は真に向かった。
偶然?
一緒に登校?
そんな疑問を抱きながら、真を見つめている内に、結希はさっさと自分の席を目指し始めていた。
「早川さん、大丈夫だったの?」
教室の静けさを打ち破ったのは白石だった。ダダダッ的な急いだテンポで、結希に駆け寄って来た。
「えっ? あ、うん」
至近距離にまで迫って来ていた白石に、一歩後ずさり気味になって結希が言った。
「話を聞いて、心配で仕方なかったんだ」
少し照れ気味のようでもあるが、真剣なまなざしを結希に向けながら、そう言った白石の横に遠藤が現れたかと思うと、白石の肩に手をかけ、力任せに押しのけた。
「心配なんかいらねぇよ。
無事だったんだろ?」
白石の横から現れた遠藤に、その言葉に悪意が込められている事を感じ取った結希の顔に、警戒感が浮かんだ。
「小学校の時にも、男に襲われたのに腕を握り潰して撃退したんだから。
なあ」
またあの言葉が自分に向けられた。結希が小さく震えながら、拳を握りしめている。
「違う」
小さく消え入りそうな声で、結希が言った。
「はい?
何だって?」
右耳に右の手のひらを当てながら、挑発気味に言った遠藤の言葉に耐えきれず、結希が椅子から立ち上がり、今度は絶叫気味に叫んだ。
「違う。
私はそんな事をした事は無い!」
結希が叫び終わった時、遠藤の顔面にパンチが命中していた。
誰?
真?
結希が焦点を合わせた先に映ったのは、怒り形相で遠藤に立ち向かっている白石の姿だった。
殴られた遠藤は一瞬後退したが、怒声をあげ、白石を殴り返そうとしている。
白石もまた拳を振り上げて、遠藤に殴りかかった。
白石が繰り出した二度目のパンチを遠藤はかわすと、自分の右拳を白石めがけて放った。
遠藤が放ったパンチは白石の顔面を完全にとらえ、白石は顔を歪めながら、結希の横の机にぶつかり、床に倒れこんだ。
白石は口の中を切ったのか、口から血を流しながらも、立ち上がりながら叫んだ。
「俺はお前を許さない!」
そう叫んだ白石に遠藤が怒りの形相で、蹴りを入れようと右足を上げた。
「止めろ」
別の大きな声がして、遠藤と白石の動きが止まった。
言ったのは真だった。
「これ以上は俺が許さない」
真は遠藤と白石の間に割って入って、遠藤を睨み付けながら言った。真は運動神経がいいと言っても、勉強ができるタイプで、喧嘩は滅多にしたりはしない。どちらかと言えば、ワルに属する遠藤にとってみれば、自分が真に負けるとは思っていないどころか、そもそも真のようなタイプを快くは思ってはいなかった。
「お前には関係ないだろ!」
遠藤が恫喝するように言いながら、一歩真に近づいた。
「ある。勝手な喧嘩は許さない。それにそもそも、早川をからかおうとしたお前が悪い」
「かっこつけんじゃねぇ!」
遠藤はそう言うと、いきなり真に右腕で殴り掛かった。
真が自分に向かってきた遠藤の腕を左腕ではねのけてかわすと、ずいっと前に出て遠藤の腹部に右拳を打ち込んだ。
「げほっ」
遠藤はそううめくと、お腹を抱え込んでうずくまった。
「俺はお前のような弱い者をからかう奴は嫌いだ」
真はうずくまる遠藤を見下ろしながら、そう言った。
全ては一瞬の内に終わった。真の完勝だった。
白石と遠藤の喧嘩に騒然としていた教室は、真への熱い視線が渦巻く空間に変わっていた。
勉強、スポーツができるだけでなく、正義感があり、しかも喧嘩も強い事を真は新たに示したのである。男子生徒の中にも心の中で喝采を送る者もいたが、女生徒たちのそれはそれ以上の熱いものになっていた。
そんな事に気も留めず、真は白石に顔を向けて言った。
「大丈夫か?」
「あ、ああ。大丈夫だ。ありがとう」
結希が白石のところに行って、頭を下げながら言った。
「ありがとう。白石君」
「いや、何にもできなかったね。ごめん」
結希の言葉に、恥ずかしそうな表情で白石が返した。
「ううん。ありがとう。とても、格好よかったよ」
結希は本当にそう思っていた。付き合いの長い結希は真が本当は恐ろしいほど強い事を知っていて、遠藤なんて真の敵でない事は分かっていた。喧嘩しても絶対に勝つ相手なのである。しかし、白石では遠藤に勝てるはずもない。にもかかわらず、自分のために白石は遠藤に戦いを挑んだ。
そのことで、結希の中では真ではなく、白石の方が格好良くなっていた。
「よかったな。早川」
真が結希の肩をぽんと叩き、自分の机に向かって行く。そんな真の姿の後ろで、結希が小さく頷いた。
遠藤の拳を顔面に受けた白石は痛々しい青あざだけでなく、口の中を切って血を流していたため、結希の勧めもあって、結希に付き添われて保健室に向かった。
保健室で怪我の具合を診てもらった白石は口の中を切っていただけでなく、歯にひびが入っているとの事で、病院での診察をすすめられ、そのまま授業を抜けて二人で病院に行く事になった。




