始まりの人体実験
工作機器が金属を切刻む音と削り出す音が甲高い音を奏でている町工場が立ち並ぶ下町の中に、その建物はあった。この辺りではちょっと広めの数百坪はありそうな敷地の奥に建つ鉄骨造りの3階建て。建物から正門までは広い空間が広がっていて、正門横に設けられたインフォメーションセンターと呼ばれる十畳ほどの建物の中には、この規模には不釣り合いなほどの五名の警備会社の社員が控えていた。
安芸製作所。
正門に掲げられた社名から、何かの工場っぽいのだが、来客もほとんどなく、警備会社の社員たちも暇な様子で座っている。
そんなのんびりとした空間とは異なり、建物の中の三階のある部屋では一人の男が電話を手に殺気立っていた。
「奴らがやられた?」
「はい、山本さん。
彼らは目を撃ち抜かれて、二人とも死に絶えました」
「目は弱点だと教えていたはずだが、どうしてそんな事になった?」
「治安維持部隊に突撃し、乱戦状態になったところを狙撃手に狙われたのではないかと」
「じゃあ、向こうは最初から策を張っていたと言う事か?」
「おそらく」
「分かった。
もういい。
敵さんも馬鹿じゃないと言うことだな」
そう言うと山本と呼ばれた男は電話を切り、大きな革張りの椅子にどかっと腰かけて、天を仰ぐような仕草をしてつぶやいた。
「やはり、これだけではだめか。
全ては無理でも、超速再生だけでも開発しなければならないか。
まあ、元々スポンサーの要望はそこな訳だしな」
山本は今度は腕組みをして、目を閉じ、過去の記憶をまさぐり始めた。
今から10年ほど前の事だ。
私が勤めていた研究所内では、すでに超速治癒の遺伝子、そして損傷した部位を再生する遺伝子は確立されており、その遺伝子を生きた人間の細胞内のDNAに組み込む技術も完成していた。ただあの時まで、複数の組み換えを同時に行った事はなかった。
最初にこの人体実験に使われたのは、私の上司である研究所の所長 小田悟志が連れてきた未就学前の男の子だった。個人名は隠されていたので、どこの誰なのか分からないが、今までの人体実験に使った素材とは違い、この子はできるなら救いたいと言う思いを抱いているらしかったので、秘密警察から貰ってきた政治犯の家族とかではなく、個人的につながりのある者だったのだろう。
その子の状態はかなり悪く、運動関係の神経がやられていると言う以上に、脳にも損傷があるらしく、意識はあるものの手を動かすことも、発声する事もできず、人とのコミュニケーションをとることができていなかった。
その子の症状に合わせ、所長が招集したのは四人のリーダーだった。
一人目は脳を高度に活性化させる遺伝子とその組み変え技術を担当していた者。
次は神経活動を早める遺伝子とその組み換え技術を担当していた者。
そして残りの二名が高速治癒と再生能力の遺伝子とその組み替え技術を担当していた者だった。
私は副所長として、その実験に立ち会った。
所長は運び込まれてきたその子に最初にこう声をかけた。
「君には特別な治療を施す。
すでに君の病院の先生から聞いていると思うが、これはまだ発表していない技術なんだ。
それだけにこの事は誰にも話してはいけないだけでなく、もしかすると悪い影響が出るかも知れない。
それでもいいんだね?」
所長の説明に、その男の子が唯一できるコミュニケーション、まぶたを閉じて、Yesの意思を示した。
その合図を確認した所長が振り返って、背後に並んでいた4人のリーダーたちに頷いて見せると、リーダーたちが前に進み出て、男の子の横に立った。
「では」
所長のその言葉に、リーダーたちが次々にアンプル状の容器に入った液体と注射器を手に、男の子にその液体を注射していった。
その液体には特別なファージが入れられていて、体内に入ったファージは次々と細胞に侵入し、自身を複製しようとするのだが、ファージが複製されるだけでなく、彼らが開発した遺伝子が生み出す酵素の働きで、細胞内のDNAの特定の一部を切断し、別の遺伝子と組み替えると言う動作になっていた。
やがて免疫機構によってファージが駆逐される頃には細胞の多くがDNAを組み替えられている。そして、その新しい遺伝子が組み込まれた細胞が分裂を繰り返し、全てが入れ替わる。
その人体実験に使われた男の子は、当初大量のファージが体内に侵入した事による免疫反応などで高熱を出したが、見る見る回復し、半年後にはこれがあの患者だったのかと言うまでに回復した。
研究所に来た時には、ベッドに横たわったままで、体のほとんどの部位を自分の意志で動かす事すらままならなかったにも拘わらず、半年後には自分の足で立って、研究所を去って行った。
「本当に、ありがとう」
表情も表せるようになったその男の子は、うれしそうな顔でそう言った。
細胞内にあの高速治癒と再生の遺伝子が組み込まれておれば、傷つけられても、ほぼ時間をおかず完治するはず。
山本が目を開けて、再び現実の世界に思考を戻した。
「やはり、あの技術の全てが欲しい」
山本はそうつぶやいた。山本はこの技術がこの世界のどこかに隠されていると信じていた。その理由の一つはこの研究のスポンサーから聞かされた、松下がこの技術がどこかに隠されていて、探していたが見つけられていないと言う話だ。そして、もう一つはあの研究所が燃え落ちた日の昼の出来事であり、そこにヒントが無いかと、再び目を閉じ、記憶をまさぐり始めた。
研究所が焼け落ちた、いや所長が火を放ったあの日の昼すぎ。
所長は所員に緊急の指示を出した。
一つは研究の成果である遺伝子組み換えのためのファージが入ったアンプルを提出する事。
もう一つは提出したアンプルのファージに関する全ての最新情報をサーバーに新設されたフォルダーに格納する事。
ただし、人体での未確認ファージは対象外とする。
理由は当日、大統領令により、翌日から研究所が国家の管理下に入る事が決定されたため、最新の情報を全て提出するためとの事だった。
誰もそれを疑うものなどおらず、所員たちは状況の報告とそれぞれが担当していた遺伝子組み換え用のファージ試料を1本持って、所長室に入って来た。
私は副所長と言う立場で、所員たちがやって来るのを、所長室で迎え入れていた。
所長は所員達の報告を受けながら、持参した試料が納められたアンプルを受け取っては、所長席の上にアンプルを並べて行った。
所長席のアンプルが並ぶその横には、小さなマイクロチップが書き込み装置に組み込まれた状態で置かれていて、書き込みを示すLEDが点滅を繰り返していたし、所長席の上のパソコンからはハードディスクが動作し続けている音がしていた。
山本が目を開けて、再び現実の世界に思考を戻した。
燃やすはずだったら、アンプルを集めるはずは無い。
あのアンプルはどこに行った?
いや、使ったのか? としたら、誰に?
それに、あの時、所長はデータをマイクロチップにコピーしていたのではないのか?
なら、話があうんじゃないのか?
松下はそれがマイクロチップだと知っているのかどうかは分からないが、あの技術はマイクロチップの形で、この世界のどこかにある。
ではどこに?
山本は再び目を閉じると、その手掛かりを得るための作戦を練り始め、目を開いた時にはスマホに手をかけていた。