もうひとつの始まりの夜
その家に暮らしていたのは、小鳥遊未来と優の兄妹だった。
姉の未来は農業技術総合試験センターと言う仮の名を持つ遺伝子改変に関する国家の研究所に勤める研究者であり、弟の優は高3の男子生徒だった。
その日、午後六時過ぎには勉強を中断し、キッチンに降りてきて、姉を驚かそうと、不慣れな夕食の準備を一人で始めていた。ほのかなお酒と甘さを感じさせる香りを含んだ湯気を、コンロの上のお鍋が放っている。
浮かび上がってくる灰汁を取り除いている優の背後で、ごはんが炊き上がった事を知らせる電子音が鳴った。
優がキッチンのカウンター越しにリビングの壁にかかっている時計に目を向けると、もうすぐ姉が帰宅してくる午後七時だった。
優がコンロの火を止めて、お風呂の「自動」のボタンを押してから、ダイニングに向かって行った。食器棚の引き出しにおさめてある箸と箸置きを取り出して、食卓に並べ始めた。
6人は座れる食卓。ここを利用するのが、未来と優の二人になってから、もう久しかった。
鼻歌混じりに、手際よくお箸を並べ終えた時、玄関の鍵が開く音がした。
「姉貴が帰って来た」
優がいそいそと廊下に出て、玄関に向かう。
「おかえりぃ」
「ただいま」
未来がにこやかな表情で、優を見つめた。
「いいにおいがするけど、これって、優君が晩御飯を作ってくれたの?」
「いつも、いつも姉貴に作ってもらうだけと言う訳にはいかないっしょ」
「ありがとう、優君。
こんなうれしい事はないかな」
「じゃあ、早速ご飯にする?
お風呂がいい?
それとも、わ・た・し?」
「ぷっ!」
新婚さんの奥さん風の態度に、未来が吹きだした。
「いやぁ、優君は遠慮しとくわぁ」
そんな明るい会話を交わしながら、二人が廊下を抜けて、ダイニングにたどり着いた時、ガラスの割れる音が耳に響いた。
何が起きたの?
そう二人が思った瞬間、優は体を背後から誰かに羽交い絞めにされている感覚に襲われた。
一瞬の出来事。
そんな事が起きる訳がない。
そう思い直し、現状を把握しようとした時、確かに自分の体に何者かの腕が背後から巻き付いている事を視認した。
何?
どうして?
超人?
優がたどり着いた結論は誤っていなかった。
リビングに背を向けていた優の体を造作も無く、反転させリビングに向けさせた。
そこには喉元にナイフが突きつけられ、恐怖におびえた未来の姿があった。
「姉貴」
助けようにも、自分自身が動けないでいる優にできるのはそう名を呼ぶことだけだった。
窓際付近のリビングの床には、破壊されて歪んだアルミサッシの残骸とガラスの破片が散らばっていて、その残骸を土足で踏みつぶしながら、新たな男が侵入してきた。
「小鳥遊未来さんだね。
我々に協力してくれたら、君たちには何もしないよ。
いや、それ以上に、謝礼を払ってもいい」
入ってきた男が言った。
「な、な、何をしたらいいんですか?」
未来の声は上ずって、細かく震えていた。
「治安維持特殊部隊の超人に適用された、攻撃力を増強する遺伝子は、君の開発品だろ?」
未来は侵入者たちの意図を読み取ったらしく、大きく目を見開いたかと思うと、男から視線を逸らすように横を向いた。
男が未来に歩み寄って、喉元のナイフに気を付けながら、未来の頬のあたりを右手でかじっと掴むと、無理やり未来の顔を自分の方に向けさせた。
「遺伝子の情報をくれ」
「い、い、嫌です」
「なら、痛い目に遭ってもらう事になるが」
「どんな事になっても、私は協力しません」
未来が望むのは平穏な生活。
騒乱に溢れた社会は受け入れられない。
今襲ってきたのはテロリスト側の超人たちに違いない。
きっと、未来は死んでも協力はしない。
優は未来の気持ちが分かっていた。
「ははは。何か勘違いしてないか?」
男はいやらしい笑みを浮かべた。
超人が浮かべた笑みは、当然友好的なものである訳がない。
犯罪者がその目的を達しようとする笑み。
自己の欲求を満たす瞬間を喜び、他社に対する歪んだ優越感に浸り醜く歪んだ口元。
未来だけでなく、優もその笑顔にぞくっとした。
とんでもない凄惨な事が起きるのではないか。
二人の心に動揺が起きていた。
「何のために、ここに押しかけてきたと思っているんだ。
君にたずねるだけなら、途中で君を拉致ればすんでいたんだよ」
その言葉の意味に二人は気づいた。
「あの子は関係ない。
優君に手出しはしないで」
「俺はどうなってもいい。姉貴、気にしないでくれ」
二人の言葉が重なった。
「うーん。美しい、姉弟愛。
その姉弟愛があればこそ、俺たちの望みが叶えられると言うものだ」
男が優の方に視線を向け、「やれ!」と言う風に顎を振って見せた瞬間、優の右腕に激痛が走った。
「ぎゃあー」
声を上げて叫びたかったが、きつく口を押さえつけられていて、その声は言葉にならない鈍く低い空気の振動だけを夜の空間に響かせた。
「まずは右腕だ。折れちゃったみたいだね
まだもぎ取っちゃいないけど、その内、もぎとっちゃうよ。
協力する気になった?」
男は未来に視線を向けて言った。
未来の瞳から涙があふれ続けているのとは対照的に、優は激痛に耐え、冷や汗を流しながらも、涙をぐっとこらえていた。
その姿がよけいに未来の心を突き刺すしていた。
「お願い。優君は関係ないの。優君は助けて。
情報以外の事なら、何だってするから」
未来の言葉に「ふん」と言う表情を浮かべ、再び超人に合図を送った。
今度は優の左腕に激痛が走った。
遠くなりそうな意識を、優はこらえた。ここで、自分が未来の足を引っ張ってはならない。
「大丈夫だから」
そう言葉に出したいが、口を押えられていて、出せない。
目に力を入れて、未来に大丈夫だからと、合図を送る。
「まだ協力する気にならない?」
涙を流しながらも、「うん」とは言わない未来に、男は見下した視線を向けながら、言葉を続けた。
「そうだね。俺たちも時間が惜しいんだ。
すぐにでも協力する気になるようにしてあげよう。
その子の命が一刻を争うようになれば、すぐに協力してくれる気になるよね?」
男がそう言って、超人に合図を送った。
その直後、右手の指に激痛が走り、そこから血がほとばしるのを見たのを最後に、優は意識を失った。
小鳥遊優。それが目の前にいる中島聡史の正体。
そして、その優が意識を失ったところで、話は全てが終わった。
そう感じた柏木が言葉をはさんだ。
「それがあなただって事ね」
「ああ。俺の体はやつらに痛めつけられた。
失血死の危機だってあった。
そんな俺の命をつなぎ留め、体を元に戻すために、超人の技術を使った。
そう言う事だ」
「それでは小鳥遊さんは、政府を裏切ったの?
テロリストたちに、技術を渡したの?」
柏木はそこまで言ってから、言いなおした。
「だったら、テロリスト側の超人たちが弱いままって事は変よね。
どう言う事なの?」
柏木が聡史を見つめた。
「後の話は姉貴から聞いた話だ」
優が意識を失ってからのその日の出来事を聡史が、語り始めた。




