闇を纏った笑み
朝の教室の中は、まばゆいばかりの陽光とエネルギーいっぱいの私語で満され、輝いている。それは日々のいつもと変わりないひと時だったが、結希の顔に少し影が浮かんでいたのは、今日がいつもと違う日になる事を知っていたからだった。
少し重い物が摩擦しながら滑るような音を立て、教室の扉が開くと、生徒たちはぴたりと私語をやめ、開いたドアに目を向けた。その次の瞬間、教室の中が歓声に轟いた
「おぉー」
何人かの生徒はその興奮を抑えきれず、立ちあがっている者もいた。
みなが視線を向けた先には、理乃が初めてやって来たあの日と同じように、担任と理乃の二人の姿がそこにあった。ただ、あの時とは違い、理乃は車いすではなく、自分の足で歩いていた。
「静かに」
教壇に立った先生がそう言うと、教室に静寂が戻ってきたが、生徒たちの心の中は静まってはいなかったようで、多くの生徒たちが驚きの表情のまま理乃を見つめていた。
「ええっと。言わなくても、もうお分かりだと思いますが、治療のため夏休み前から休んでいた大西理乃さんは怪我が完治しました」
その言葉に教室中に拍手が巻き起こり、理乃がにこりとしながら、頭を下げた。
「ありがとうございます。
長い治療でしたが、無事治り、自分の足で再び立てるようになりました」
理乃はそう言いながら、教室の中を見渡し、結希と目が合った時、そこで視線を止め、理乃は再び少し頭を下げた。そんな理乃に、結希が微笑みで応えた。
「えー、今日はいいニュースと、残念なニュースがあります」
教室が一旦静まった頃合いを見計らって、先生が言った。
いいニュースは大西の怪我が完治した事。それはここにいる誰にも分かっていた。
では、残念なニュースとは?
表情がかたまったクラスメートたちの中、事情を知っていた結希だけは寂しそうな表情をしていた。
「大西さんは再びフィギュアで世界を目指すための練習を開始するそうです。
そのため、急ではありますが、元いた街に戻ることになり、今日で転校することになりました」
「えぇー」
今度は教室の中に落胆の声の嵐が起きた。
その日、体育の授業が二時間目にあった。
理乃はもう見学する理由は無いはずだったが、今日も見学だった。
結希と理乃が二人、校庭の片隅に座って、クラスメートたちの姿に目をやる。これが結希が理乃と一緒に見学する最後の体育の授業である。
結希には寂しさとうれしさが、大西には感謝とさみしさが入り混じっていた。
「本当に治るなんて、夢みたい。
本当にありがとう」
理乃が結希の横でグラウンドを見ながら言った。その言葉に振り向いた結希が理乃に顔を向けると、理乃が今までの中で最高の笑顔で返した。その笑顔に結希は思った。
そうなんだ。
この技術はこんな時のために作られたものなんだ。
人を殺めるためでも、人より優位な力を得るためのものでもない。
人を幸せにするため。本当にそのためのものなんだ。
そう思うと、時折恨みたくもなっていた自分の叔父に、感謝の気持ちを抱いた。
「ううん。良くなってよかったね。
フィギュア頑張ってね。私ずっと応援しているから」
「ありがとう。ブランクが長かった分、取り戻すのにちょっと時間がかかるかもだけど、頑張るね」
結希には理乃の瞳に希望が映っているように見えた。
きっと、この子ならやってくれるだろう。
結希がそう確信し、約束だよと言う意味を込め、力強く頷きながら言う。
「うん」
しかし、その言葉の裏で結希は心の奥底から込み上げてくるもう一つの本音を抑えきれなかった。
「でも、こうして並んで体育を見学するのがもう無いのかと思うと、少し寂しいんだよね」
結希は理乃を見ながら言う事ができず、視点も定まらないままグランドに目を向けたまま、まるで独り言かのように言った。
「それは私も。私が元の学校に戻っても、ずっと友達でいてくれる?」
理乃が手を伸ばし、結希の手を握りしめながら言った。
理乃の暖かい手に包まれながら、結希は理乃に視線を戻した。
「もちろん」
「ありがとう」
「じゃ、これが最後になっちゃうけど、前のようにお話しながら、体育見よっか?」
「うん」
その頃、結希の祖父は結希の指の中に埋め込まれたマイクロチップのコピーを持って、小出の下を訪れていた。小田と小出はいつもの研究室のソファで、向かい合って座っている。
「遺伝子を元に戻すのも、上手く行ったようですね」
小田がにこやかに言った。
「はい。お陰さまで。しかし、これほど劇的な効果を出すとは驚きです。
これは抗生物質発見以上の医療の革命ではないでしょうか」
「おそらく、かなりインパクトのあるものだとは思っております」
「大統領が狙っているとは言っておられましたが、どうして隠し続けてこられたのですか?」
「私の娘は治安部隊のデモ隊鎮圧の巻き添えで亡くなっておりましてな。
息子にとっては妹になる訳ですが、そのような事を平気で許す大統領がこの技術を手に入れれば、我々の未来は無くなってしまいます。それを避けたかったんですよ」
そう言い終えると、小田はポケットから帯電防止クッションにくるまれた小さなチップを取り出し、それを目の前のテーブルの上に置くと、小出に差し出した。
「どうぞ。
マイクロチップです。
ここに全てが記憶されております」
小田の言葉に小出が手を伸ばし、マイクロチップを手にした。
小出がマイクロチップを包んでいる封筒状のクッションのテープをほどき、開いた穴を掌に向けると、重力に引っ張られた小さなマイクロチップが、小出の掌の上に転がり落ちた。
小田は再びポケットに手を入れると、今度は少し大きめのものを取り出し、テーブルに置いた。
「そして、これがそのマイクロチップを読みだす装置です。USBでパソコンに接続してください。
電源もデータ伝送も全て無線で行われますので、この装置の上にそのチップを置くだけです」
「分かりました。
ちょっと、やってみます」
小出はそう言うと、早速机に戻り、机の上のパソコンにリーダーをつないだ。パソコンはつながれたリーダーを認識すると自動的にドライバをインストールしたばかりか、アプリまでが自動で起動した。
アプリが起動した事を確認した小出がリーダーの上にマイクロチップを置くと、アプリ画面にデータが表示され始めた。
小出が興味深そうにマイクロチップの中のデータを確認し始めた。その場に小田がいる事を忘れているかのように、しばらくの間、小出はパソコン画面に熱中していた。それだけ、興味深いデータだった。
「小田先生。確かに、受け取りました。
もう一度だけ、確認したいのですが、このデータはもう他には無いのですか?」
小田がいる事をようやく思い出したかのように、小出が言たった。
「ええ。これだけです。
危険なので、コピーはありません」
「分かりました。ところで、お孫さんは力をどうされているんですか?」
「普段はその力は抑え込まれていますので、普通に暮らしています」
「抑え込めるのですか?」
「ええ。その遺伝子の中に、特別な遺伝子があります。その遺伝子が働くと、神経細胞の異常な活動が抑え込まれます。
その結果、神経活動が伴った能力は強化されていても、その力は相殺され、普通の人間と同じになるのです」
「なぜ? そのようなものが?」
「想像してみてください。
たとえば、聴力が発達したとしたら、聞き取れる範囲が格段に広がります。その多くの音や声の中から、目的の物だけを聞きとろうとしたら、どれだけの負担か。
おそらく脳はその情報を処理する負担に疲弊し、いずれは精神に破綻をきたすでしょう。その先に待っているのは廃人です」
「なるほど。でも、それなら、強化した意味が無いのでは?」
「その抑制効果は興奮物質の分泌量が増えると、抑えられるようになっているんです。
なので、本人次第で制御できるようになっているのです」
「なるほど。よく考えておられる。素晴らしい研究です。
分かりました。お孫さんを元に戻す準備ができれば、ご連絡しますよ」
「よろしくお願いします」
小田はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、小出の研究室を出て行った。小出は小田が出ていく姿を見送ると、電話をかけ始めた。
「小出です。例の件、お願いします。
はい。そうです。今、出ました。
はい。はい。よろしくお願いします」
一人、電話の向こうの相手に喋っている小出の顔はこらえきれない笑いをぐっとこらえているかのようだった。それは小田が見込んだかつての小出の表情とは違い、闇を纏った笑みだった。




