男の腕を握り潰した少女
近づく初夏の気配が感じられる日差しと風の中、大和境川高校のグランドの片隅にある木陰の涼しげなベンチに腰掛け、さわさわと木の葉を揺らす風にその濃い茶色の艶ある長い髪をなびかせているのは万年体育見学と一部の男子たちから揶揄されることもある早川結希と言う少女で、今も眩しい日差しの下、校庭に描かれたトラックを何周も走っているクラスメートたちに目を向けていた。
結希は小学校の頃からずっと健康上の問題と言う理由で、体育の授業を受けたことがないのだが、決して体型的に何かあると言う訳でもなく、少し低めではあるが150cm半ばの細くも太くもない体に、ふっくらとした胸と引き締まったウェストを備えていて、はっきり言ってスタイル的にはいい方だ。しかも、大きな瞳にほんの少し下がり気味の目じりと、通った鼻筋を有していて、顔立ちの方も一般的にかわいい部類に入るのだが、ずっと体育の授業を見学しているだけあって、健康上の問題があるからなのか、その表情にはどこか影があるようにも見える。
「ねえ、早川さん。
こうしていると暇だよね」
突然背後から声をかけられ、振り向いた先には同じクラスの男子生徒の白石卓也の姿があった。白石が浮かべているにこやかな表情には裏が無く、万年体育見学の結希をからかおうと言う意図は無さげだが、男子は体育館でバスケをしているはずであり、なんで男子である白石がここにいるのか、と言う疑念が結希の心の奥に警戒感を抱かせずにいられなかった。
そんな心情を映し出しているのか、白石の笑顔とは対照的に結希は固い表情で、一言だけ白石に返した。
「私はいつもこうだから、別に何ともないんです」
「そうなんだ。僕は暇で」
結希の言葉を受けて、白石が言葉を続けた時には、すでに結希は視線を校庭のクラスメートたちに戻していた。そんな結希が座っているベンチの横に、一人分の間隔を空けて、白石が座った。結希はそんな白石の様子を少し訝しげに眺めた後、少し横にずれてさらに白石との距離をとった。
「ねっ、早川さんって、休みの日は何をしているの?」
はっきり言って、避けるような態度をとられたと言う事に気づいているのか、気づいていなのかは分からないが、白石が言葉を続けた。白石の突然の言葉の真意を量れない結希は、白石に直接たずねるしかなかった。少し離れた距離のまま、白石に視線を向けると、結希が言った。
「どうして、そんな事を聞くの?」
「実は入学式の時から気になっていて、同じクラスだったから喜んでいたんだ。
でも、なかなか、早川さんと話しする機会がないじゃない。今日はゆっくり話したくて、体育見学にしたんだ」
はにかんだ表情で頭をかきながら、結希をしっかりと見つめている白石の態度と言葉に、結希は戸惑っていた。
この子の言っている事はどう言う意味なの?
私に好意を持っていると言う事なの?
それとも私をからかっているの?
どれも、直接言葉に出して聞く訳にはいかないと考えた結希は、白石のお誘いのようにもとれる質問に答えることなく、この話を終わらせる事にした。
「私は一人が好きだから」
結希はそう言い終えると、再び拒絶の意味も込めて、視線をグラウンドのクラスメートたちに戻した。
「そうなの?
ここで話しかけると、お邪魔?」
まだ話しかけてくる白石への答えとして、言葉ではなく、正面の校庭に視線を固定させたままこくり頷くと言う仕草で返した。
「うっ!
ショック」
白石はそう言いながら、大げさに胸が痛むような仕草をしていたが、正面に視線を向けたままの結希の視界には映ってはいなかった。
取りつく島も無い。そんな感じの結希の態度に、白石はようやく黙り込んでおとなしくなったが、相変わらず結希が座っているベンチに座り続けたまま体育の授業を終了した。
校舎の廊下を楽しそうに私語をかわしながら、結希やそのクラスメートたちが体育の授業を終え、教室を目指している。結希の横を並んで歩いているのは、結希の唯一の友達と言っていい川嶋由依である。
「マジであれだけ走らされたら、汗ぐっしょりだよ」
由依がそう言いながら、汗のにおいが気になるのか、自分の肩の辺りに鼻を近づけて、臭いを嗅いでいる。そんな仕草の由依に、にこやかな笑みを結希が向けている時だった。背後から、からかい口調の男子の声がした。
「よっ。早川。
今日も見学か?」
「仕方ないでしょ。結希ちゃんは身体が弱いんだから」
どちらかと言うと大人しめで、からかわれても反論できない結希に代わって、由依が怒りを含んだ口調で、その男子を睨み付けながら言った。
「おお、怖っ!」
由依の口調に、そう言っておどけている男子に別の男子生徒 遠藤が口をはさんできた。
「お前、早川をからかうなんて、恐れ知らずだな。
お前はよその中学だったから、知らないのかも知れないが、こいつはこんな大人しそうな顔して、男の腕を潰して殺した事があるんだぞ」
「マジかよ?」
「ああ。
いい加減にしておかないと、お前も早川に腕を潰されるぞ!」
男の腕を潰して殺した少女。
結希に向けられるその言葉。
そのきっかけは、小学校二年の時に起きたある事件にあった。右腕の手首部分を圧潰させられ、手首から先を失ったやくざ者の男が腕を小学生の結希に握り潰されたと言って、消防に助けを求める電話をかけてきた。救急車が駆けつけた時には、すでに男は失血が激しく意識を失っており、結局そのまま他界した。
男が襲われた場所には血まみれで放心状態の結希がいたが、小学二年の女の子が男の腕を握り潰せる訳もなく、結希本人も当然自分がやったんじゃないとは言うものの、精神が混乱状態で、何があったのか聞き出すこともでず、その事件の真相は分からないままだった。
が、結希が男の腕を握り潰して殺したと言う話は、同じ小学校の男子生徒を中心に面白おかしく脚色され広まって行き、からかわれ続けてきた。
高校に来れば、その話を聞くこともなくなるのではないかと言う淡い期待を抱いていた結希だったが、見事に裏切られてしまった。あとは、この噂が広がり、みんなからそんな目を向けられてしまう地獄の日々がまたやって来る。そう思うと、胸が痛み、止めようのない涙が溢れ出した。
「違う! あれは私がやったんじゃない!」
結希にできるのはそう言い返す事と、その場から逃げ出す事だけだった。絶叫気味にそう言い残して走り出すと、結希はクラスメートたちを縫うように走り抜け、廊下の先を目指す。特に目指す場所がある訳じゃない。この場から逃げたい気持ちと、溢れる涙が止まるまで、一人でいられる場所を求める気持ちに追われて、当てもなく駆けだしただけである。
「何を馬鹿な事を言ってるの!
しつこいよ」
遠藤に言っているのであろう由依の声が結希の背後でした。
そして、すぐに結希を呼び止める由依の声がした。
「結希。待って」
その由依の言葉は届いてはいたが、生徒たちで溢れる廊下で止まる事はできず、視線の先に見えたトイレに結希は駆け込んだ。並ぶ個室の扉はどれも閉じていて、駆けこむべき場所を探し求めて、ドアノブに視線を向けながら奥に進もうとした時、由依が駆け込んできた。
由依の心配そうな表情を見た時、結希は逃げ込む場所を探すのを止める事を決め、その場で立ち尽くしたまま激しく首を振り、嗚咽しながら、言葉を振り絞った。
「違う。違う。あれは私がやったんじゃない」
「分かってるよ。結希」
そう言いながら、由依が結希に近づいて行き、結希をぎゅっと抱きしめながら、優しく、ゆっくりと言葉を続ける。
「結希、あんな馬鹿男子の言う事なんか、気にしちゃだめ。
みんな分かっているんだから。大丈夫。ねっ」
由依は完全に泣きやむまで、結希を抱きしめていた。