退院の日
退院した白石が久しぶりに登校してくる。その事が結希を少しでも早く学校に行きたい気分にさせていたし、たとえ真はただの同居人にすぎないとして、一緒に登校と言う姿を見られたくなかった結希は家でまだ眠りこけている真を出し抜き、一人早く登校してきていた。
結希以外には誰一人いない廊下。結希が自分の教室のドアに手をかけて開くと、ドアが滑る音がしんと静まり返っていた廊下に響いた。誰も来ていない教室が広がる視界の中、結希の視線は白石の机に向かった。もちろん、そこに白石はまだ来ていないが、結希の頭の中にはそこに座る白石の姿が浮かび上がっていた。
愛しい。
早く会いたい。
そんな思いが結希を白石の席に向かわせた。白石が使っている机。それだけの事でしかないのに、結希にはその机がいとおしく思え、積み重ねた時の重さを語るかのようにくすみ、所々には傷と落書きの痕が残っている机の表面に、そっと手のひらを置いた。
「卓也。
早く会いたい」
そう呟きながら結希が机の上をさすり始めた時、廊下を歩く足音に気付き、結希は現実に引き戻された。
「私って、変かも」
結希はさっきまでの自分の行動に頬を赤らめ、恥ずかしそうに自分の席に戻ろうとした時、教室のドアが開いた。
卓也だったらいいな?
そんな少しの期待を抱きながら視線を向けた先にいたのは真だった。汗を噴出し、息を切らしている姿に、結希は黒板の上に設けられている時計に目を向けた。八時になっていない。
知性的でいて、かっこいい感じの真が放つちょっとよれっとした疲労感満載の姿は、あの力を使って、全速力で学校まで駆けてきた事を物語っている。
それが自分の事を心配してだと感じた結希が、申し訳なさそうに顔の前で手のひらを合わせて、軽く頭を下げた。
「ごめん」
「無事ならいいよ」
そう言い残すと、真は自分の席に鞄置かず、教室を出て行った。
なんで? どこに行くの?
そう思った結希だったが、怒っているのかもと思うと、その言葉を口にできなかった。
「おはよう」
時間と共に、ドアを抜けて教室に入って来るクラスメートたちの数が増えてきた。
ドアに近づく人の気配がするたびに、視線を向けては、それが白石でないと分かるたびに、結希はその表情に落胆を浮かばせている。なかなか姿を現さない白石に、本当に登校してくるのだろうかと、不安をよぎらせながら、結希は時々ちらりと時計に目をやる。そんな時計の針は、壊れて止まっているのではと思うほど進まない。
やきもきした時が続いたが、ついに教室に白石が松葉づえをつきながらやって来た。白石の姿を視界にとらえた結希が慌てて立ち上がり、ドアを抜けたばかりの白石のところに駆け寄った。
「おはよう」
そう言いながら、結希が白石の腕を抱え込むようにして、歩く手伝いをしようとした。
「あ、いいよ。早川さん」
上の名前で呼ばれた事が結希には、ちょっと寂しかった。もちろん、教室の中と言うことで、遠慮したのだろうと言う事くらい、結希にも分かってはいたが、結希にとっては、そんな遠慮は不要で、下の名前で呼んでほしかった。ここで、このまま何も言わなかったなら、ずっと学校では上の名前でしか、呼ばれないだろう。
「卓也、だめ。手伝う」
結希は自らが白石を下の名前で呼ぶことで、そのきっかけを作ろうとした。しかし、それは勇気のいる事でもあり、結希の顔は熱くなっていた。
そんな結希の行動の真意はクラスメートたちに当然伝わった。
「何? 何?」
「あんたたち、できちゃったの?」
聞いていた周りの同級生達が騒ぎ始めた。
「そう」
結希が勇気を振り絞って、そう答える。
「結希!」
予想外の結希の行動に慌てた白石が戸惑った声を上げたが、すぐに教室内に起きたどよめきでかき消された。
「おお!」
結希は周りの反応など、もう気にしていなかった。
白石がそばにいる。
そう感じるだけで、結希は幸せだった。
その日の下校のバスの中、最後尾に座る結希と由依たちの数席前で、ここのところいつも結希とストーカー的な距離を保って登下校している真の後ろ姿が揺れていた。
白石はまだ松葉づえ状態で完治していないとは言え、学校で同じ時を過ごせるうれしさから、結希は一日中少し浮かれていた。
そんな結希を由依がバスの中で冷やかしていたが、由依が下りるバス停が近づいて来た時、今まで明るくしゃべっていた由依が少し黙り込んだ後、口調を変えて、小さな声で話し始めた。
「私さ。実は本心では結希も河原君の事が好きなんじゃないかとか、河原君は結希の事好きなんじゃないかって、心配していたんだ」
「はあ? 何で、私があいつと」
「だって、昔から、一緒にいた訳でしょ。しかも、河原君は人気の男子生徒なんだから、結希がその気になっていてもおかしくないし。結希だってそうだよ。はっきり言って、かわいい方じゃない。
それに、結希が襲われた時、授業中だと言うのに、何の迷いなく教室を抜け出して、助けに行ったんだよ。結希の事よほど好きなんだと思ったわよ」
「ない、ない、それは。
あいつはただの正義馬鹿なんだよ」
それは結希の本心だった。真との関係は幼馴染の男女と言うより、兄妹に近いものにしか感じていなかった。
しかも、結希が知る限り、真は曲がったことが嫌いな性格なのだ。
「そんな言い方は悪いわよ」
「そうかなぁ」
「でもまあ、結希は白石君にぞっこんみたいだし、そんな二人を見ている河原君を見ていると、結希の事をそう言う風には見ていなさそうだし、安心したよ。
でさ、今度ダブルデートしよ!」
「は?」
「ね! 協力してよ」
「はいはい」
「じゃ、きっとだよ」
そう言い残して、由依が席をたってバスの降車口に向かい始めた。
「河原君、またね」
「おう!」
数席前の真に由依が見せた笑顔は輝いているように結希は感じた。
好きな人に見せる最高の笑顔。由依はかわいい。
卓也の前で、私もあんな笑顔ができるんだろうか?
結希はそんな事を思いながらバスに揺られていた。