撃退
結希にナイフごときで何かができるものではないと頭の中で分かってはいても、男が結希の鼻先にナイフの切っ先を向けた光景を前にして、結希の祖父は叫ばずにいられなかった。
「止めろ。
結希に手を出すな!」
「だったら、お前があの技術の事を話せばいいだろ。
Pandoraの箱ってなんだ?」
祖父の横に立つ男が祖父に向かって怒鳴った瞬間、結希の決意は固まった。
悪人は退治する。
力を解放すると、静寂の世界が結希を包み込んだ。
結希は掴まれていた胸倉を外し、祖父に銃をむけている男の横に行くと、銃口の先を祖父から少しずらし、引き鉄にかけている男の人さし指を自分の親指と人さし指でつまみ、伝わってくる感触に注意しながら、ゆっくりと押しつぶした。伝わってくるぽきぽき、ごりごり感から指の骨が粉々に折れたと感じた結希が元の場所に戻り、力を封印した瞬間、時の流れが戻り、男の醜い悲鳴が響いた。
「ぎゃあああ」
男が銃を左手に持ち替えて、自分の右手に目を移した。背後から起きた突然の仲間の悲鳴に、結希にナイフを突きつけていた男は掴んでいたはずの結希の胸倉が外れている事にも気づく事も無く、慌てて振り返った。
が、そこにはさっきまでと変わらず、椅子に縛られた結希の祖父と仲間の男がいるだけだった。何者かが現れたと言う展開でなさげな事に男の表情から緊張感が一気に消え去り、苛立ちが浮き上がって来た。
「大きな声だすなよ!」
ナイフを手にしていた男が怒気混じりに言った。
「見ろよ、これ」
そう言って、手を差し出した男の人さし指は赤と紫が混じりあったような色で腫れ上がりながら、ぶらりと力なく揺れていた。
「それって、銃なんか持ってるから、天罰が当たったんじゃないかな?」
痴れっとそう言う結希からは、相変わらず怯えどころか緊張感すら感じられず、ナイフを手にしている男はさらに苛立ちの声を上げた。
「お前はなんで、そんな平然としていられるんだ!」
その苛立ちの奥に潜むものが、理解できない結希の態度に対する本能的な怯えだと、その男はまだ自分で理解できていなかった
「きっと、あなたも手が腐っちゃうよ。
そんな人を傷つけるナイフなんて持っていたら」
「なんだと!」
怒鳴った男が震え気味のナイフを持つ手を振り上げた瞬間、結希は再び力を解放した。
男の横に立つと、ナイフを握りしめている右手の腕を掴みかけて止めた。視線を右の親指に移すと、さっきと同じようにその指をつまんで、骨を粉々に砕くと、元いた場所近くに戻り、力を封印した。
「うっ、うっ、うぉぉぉぉぉ。痛ってぇぇぇぇぇ」
ナイフの男は叫ぶと手にしていたナイフを床に落とした。その刃先はフローリングの床に跳ね返され、ゴトリと言う鈍い音を立てて、足元に転がった。
「ほらね」
「お前も力があるのか?」
黙って、結希の祖父の横に立っていた男が言った。この男だけが無傷であり、苦痛に思考回路を乱された他の二人とは違い、論理的な仮定を立てていた。
「何の事かな?」
結希がそう言い終えた時、椅子に縛られていた祖父の姿が消え、そこは別の人影に入れ替わっていた。結希と男が視線を向けた先にあるその人影は、怒りのオーラを放った真だった。
「お、お、お前は!
この化け物め。これはお前の仕業か!」
無傷な男は動揺した口調でそう言ったかと思うと、一歩後ずさりしたが、指の骨を潰された二人の男は顔面蒼白で、一歩で止まることなく、じりじりと後ずさりを続けている。
「あなた、今、面白い事を言ったね。
僕の事を化け物って言ったって事は、僕の事を知っているって事だよね?」
その真の言葉は純粋に疑問を口にしただけだったが、男たちにはそれが脅しに聞こえたらしく、真たちに背を向け、慌てて逃げ出し始めた。
「追う?」
真がたずねたのは結希の祖父にだった。
「いや。国家機関の者たちだったら、後々厄介な事になる」
「なんで、そんな人たちが真の事を知ってるの?」
「真が最初に遺伝子の複数組み換えをしたと言うデータは、あの研究所にはあっただろうからな。
当時からあの技術に目をつけていた者たちなら、知っているだろうな」
「て言うかさ、真。なんで、ここにいるのよ?」
「あ?
危険な感じがしたから、体調よくないからって口実で教室抜け出して来た」
「って、それで、保健室じゃなく、家に帰ってくるなんて変じゃん!」
「いいだろ。
二人の事が心配だったんだから。
そんな事より、じっちゃん。
これから、どうするんだよ?
俺が学校に行っている時に、襲われたら」
「そうだな。まあ、私自身の命はそう惜しくはないのだが、人質にとられたら困るだろうしな」
結希の祖父はどこに身を潜めようかと思案気な顔つきで目を閉じたが、あの情報を奪取する目的で彼らが襲われる事は二度と無かった。その原因は、その日の夜の大統領官邸で出来事にあった。
不機嫌そうな顔で、革張りの大きな椅子にどかっと座っているのは松下である。重厚そうな木製の机を挟んで、彼と向き合って立っているのは高山と杉本だ。
「何も得られず、撃退されてのこのこと逃げ帰って来るとはいい恥さらしだ」
松下はそう言い放ちながら、目の前の机の上を右の拳で、忌々し気に叩いた。
「手の者たちが言うには、あの河原と言う者が学校から戻って来るとは予想外だったようで」
「高山さん。
ともかく、力押しは止めた方がいいだろうな」
「ほぉ、杉本くん。
なら、君はどんな手を?」
「出さぬなら、出させてみよう、ホトトギス。ですかな」
「手の内は私に明かせないと?」
「すでに手筈を整えておりますので、逐次報告させていただきますよ」
「分かった。
下がれ」
松下が右の手のひらを軽く数回振って、小動物を追い払うかのような仕草をしながら言うと、高山と杉本が一礼して松下の下を去って行った。
松下以外誰もいなくなった部屋の中、椅子から立ちあがると松下は机の脚を蹴った。その怒りが向けられていた先は、事がうまく運ばなかった報告に対してなのか、二人の態度になのかは分からなかったが。