転校生
地方都市の長閑な町に鋼鬼が突如現れた事実は、鋼鬼なんてものが現れるのは大統領のいる首都近郊と他人事に考えていた町の人たちに大きな衝撃を与えた。
次の日の朝。明るい光に包まれた教室の中を満たしている話題も、普段とは一変し、鋼鬼出現に対するのばかりだった。
誰もが不安げな表情で語り合う中、教室の片隅に悪意を含んだ低い声音がした。
「見た? 昨日のニュース」
結希の前までやって来て、その言葉を投げかけた遠藤の顔はにやついていた。
「鋼鬼が現れたのって、お前んち近くで、目を潰されたらしいじゃん。
あれって、お前がやったんじゃないの?
子供の時に腕を潰された男の敵討ち! なんちゃってね」
結希にとって、また聞きたくないあの話である。気配を察して立ち上がった真と由依を結希が右手を差し出して、待ってと言うような仕草をして見せた。
今の結希にはもうその言葉に涙する必要はなかった。
あれは濡れ衣でなんでなく真実だった訳だし、涙していたのは濡れ衣で責められたり、信じてもらえなかったりした悲しみなんかじゃなく、自分がやったんじゃないと言う嘘で塗り固めた幻にほころびが生じそうな予感に、心の奥底が震えていたのだ。
今の結希は全てを認め、全てを受け入れていたし、白石があんなことになった発端は遠藤であると言う事が、結希の心の奥に敵意を抱かせていた。
すくっと立ち上がると、結希は椅子の横に立って、遠藤を睨み付けながら言った。
「あんた、馬鹿じゃないの?」
「はあ?
意味わかんないんだけど!」
結希の予想外の挑発気味の言葉に、遠藤の口調が強まった。
一触即発の気配に教室中の視線が二人に集まった。結希に制止された真は、結希の真実を知っているため、自分の席から遠目に見守るだけにしていたが、由依は結希の背後にまでやって来ていた。
「だってそうでしょ?
私が腕をつぶしたんだとしたら、あんたも私に腕を潰されるわよ。
あ。潰されたいんだ」
さらに挑発しているとしか思えない結希の表情と言葉に、遠藤の表情は怒りに変わっていた。
「潰せるのなら、潰してみろよ!
お前、殴られたいのか?」
「あらま。男のくせに、女を殴るの? 最低」
「黙れ!」
そう言い終えるか、言い終えないかの内に、遠藤は本当に結希に拳を向けてきた。怒ってはいても、相手が女の子と言う事で、少し手加減していたとは思われるが、結希にとって、遠藤の動作はあくびが出るほどの緩慢な動作に映っていた。
一撃で一気にと言う最強の選択肢も無い訳じゃない。が、それをやったが最後、人を超え過ぎた力を皆に見せつけてしまう事になる。そんな自分の姿を見せたくはなかったし、祖父から、極力その力を衆目監視の中で使うのは避けるよう言われてもいたので、疲れるほどのゆっくりとした緩慢な動作で結希は戦う事にした。
遠藤が繰り出す拳をゆっくりとかわしながら、自分の左腕をあてがい、その軌道をそらす。
そして潜り込んだ遠藤の間合いで、鳩尾に右の拳をゆっくりとねじ込む。
結希の視界の中で、自分の右拳が遠藤の制服の上からお腹の中にめり込んでいくのが見えた。
あまり奥まで入れると、遠藤に死を与えてしまう事になる。注意深く見つめていると、遠藤のお腹が反発し、ゆっくりと後退し始めた。
きっと遠藤の体は後ろによろめくか何かするものと考えた結希が力を絞った瞬間、遠藤が後方に数mほど吹き飛んで行った。
アニメほど異様な吹き飛び方ではなかったが、それなりに激しく飛んで行った遠藤の姿に、クラスメートたちは何が起きたのか分からず、呆然としていた。
吹き飛ばされた遠藤も何が起きたのか理解しきれていなかったが、おなかと吹き飛ばされ打ち付けた体中の痛みで、自分が負けたことだけは理解し、戦意を喪失していた。
そして、結希自身もちょっと呆然としていた。ただ、みんなは結希が遠藤を倒した事が信じられないと言う理由だったのに対し、結希の場合は最大限の手加減をしたにかかわらず、遠藤が吹き飛ぶほどの威力だった事に驚いていたのだった。
「結希!」
ちょっと呆けていた結希の背後から、由依の声がした。
「結希がやったんだよね?」
振り返った結希の瞳に映った由依の表情は、まだ目が点で呆け気味だった。
「ぐ、ぐ、偶然?」
ちょっと小首を傾げながら結希が返してみた時、みんなが思考を取り戻したのか、一斉に声が上がった。
「すっげぇぇ」
「結希ちゃん、強いんだ」
どちらかと言うと好意的な反応。結希としては想像していなかったみんなの反応に、ちょっと戸惑い気味に教室の中を見渡した。
クラスメートたちの笑顔に、照れながら笑みを返した時、始業のチャイムが鳴った。
皆が急いで自分の席に座り始める中、遠藤も体のあちこちが痛むのか、緩慢な動作とぎこちない足取りで、自分の席に向かい始めた。
次々にクラスメートたちは席に着き、教室の中で立っている生徒の姿は無くなったが、完全な静けさはまだ訪れてはいない。席の周りの友人たちと小声でかわす私語が止んだのは、教室のドアが開いた時だった。
開けたドアを抜けて、担任が教室の中に足を踏み入れると、みんなの視線がその背後に集中した。先生に続いて教室の中に現れたのは、車いすに乗った長いストレートの髪をした丸く大きな瞳の女の子だった。
新学期はすでに始まってしまっているこの時期に、転校生?
そう感じた生徒たちの小さなざわめきの中、別のざわめきも起き始めた。
「あの子ってさ、ほら、あのフィギュアの子じゃないの?」
「そうそう。そうなんじゃない?」
結希はその女の子を知らなかったが、クラスの一部の生徒たちはこの子を知っているようだった。
ざわつく教室の中、先生が教壇に立つと、日直が号令をかけた。
「起立! 礼!」
「おはようございます」
「着席」
みんなが着席するのを見届けると、先生は結希に視線を向けた。
「早川。
すぐ家に帰れ。おじいちゃんが倒れたらしい」
先生の言葉に、結希に向けられたクラスメートたちの表情のほとんどは心配げだったが、中でも一番大きく目を見開いて、動揺気味なのは結希ではなく真だった。
結希も真も、元気な祖父の姿を見て家を出てきているだけに、信じられない気分と心配な気分が入り混じった表情で固まっていた。
「結希ちゃん」
由依の言葉に正気を取り戻した結希が、慌てて立ち上がった。
「か、か、帰ります!」
結希はせわしなく鞄の中に机の中の教科書とノート類を詰め込むと、教室のドアを目指した。
机が並ぶ隙間を縫って、教壇近くまで進むと、向きをドアの方向に変えて速足で進み、車いすの少女の前を横切ろうとした時、少女が結希ににこりと笑みを向けた。
予想していなかった少女の微笑みに、結希も笑みを作ると、少女は手を差し出して来た。
「早川さん。私は大西理乃。
よろしくね」
一瞬、なんで私の名前を知っているの? と思ってはみたものの、さっき担任に名前を呼ばれた事を思い出し、差し出された手を握って、結希も改めて名乗った。
「早川です。
よろしくね」
大西は結希にさらに微笑んだが、結希の言葉は教室内の騒然とした空気にほとんどかき消されていた。
「やっぱ、そうなんだ」
「あの大西か?」
「すっげぇぇぇ」
興奮気味の声に振り返った結希の目には、興奮気味の表情で立ち上がっている多くの生徒たちの姿が映った。どうやら目の前の少女が有名人らしいと言う事を理解した結希が、再び視線を目の前の少女に戻した。少女は興奮気味の教室のクラスメートたちではなく、結希ににこりとした視線を向けたままだった。
「静かにしろ!」
担任の言葉で、教室の中を覆っていた興奮が静まりかけると、結希は自分のすべき事を追い出したかのように、目の前の少女に軽く一礼して、足早に教室を出て行った。