傷だらけの白石
白いカーテンで仕切られた空間。あたりに人の気配はあるが、ほとんど会話は聞こえず、時々人がうごめく気配がする程度である。そんな静けさのせいか、意識の覚醒が遅れ、ずっとベッドの上で深い眠りについたままの結希を真がその横の椅子で心配そうに見つめている。
真っ白な記憶の靄の中。
悲鳴を上げる男の顔が浮かび上がってくる。
死を恐怖し、青ざめた顔に赤い斑点が広がっていく。
右腕の一部が欠落した空間からのぞく、肉と骨。
それを覆い隠そうとするかのように吹き出す大量の血。
自分の手の中に、何か異物を掴んでいる気配にその手を広げて見る。
手のひらにまとわりつく真っ赤な血と肉片。
「きゃー」
声を上げて、結希が体を起こした。
突然の出来事に、真が慌てて立ち上がり、結希の手を包み込むようにして握りしめた。
「大丈夫だから、落ち着いて」
「はぁ、はぁ、はぁ。ここは?」
荒い息を繰り返し、きょろきょろと辺りを見渡しながら結希が言った。
「病院だよ」
結希の問いに答えた真の言葉を確かめるかのように、結希がゆっくりと辺りに視線を向けた。
白いカーテン、かすかににおう薬品っぽい臭いの中、まだ怯えたような硬い表情のまま真を見つめながら、震えるような声で言った。
「怖い」
「結希ちゃん。もう大丈夫だから」
そして、真が結希の手を包み込んでいる手に力を込めた。
「ち、違うの」
結希の声は小さくて、やはり震えている。
「何が?」
「思い出したの。
私、普通じゃなかったの。人と違っていたの」
そこまで言うと結希は黙り込み、言葉に代わって、その大きな瞳から涙があふれ始めた。俯き肩を小さく震わせ、嗚咽する結希の姿と言葉から、真は全てを悟ったが、かける言葉を見つけられず、ただ黙って見守るしかなかった。
やがて、結希は落ち着きを取り戻していき、顔を上げたかと思うと、真にたずねた。
「そう言えば、白石君は?」
「ああ。あいつの怪我はちょっと大変みたいだ。
しばらくは入院じゃないかな?」
「病院はどこなの?
ここ?」
「ああ」
「連れて行って。白石君のところへ」
結希の少し動揺気味の表情と言葉に、真は単に友達の怪我を心配している以上のものを感じはしたが、断るだけの真っ当な理由がないので黙って立ち上がり、結希を誘った。
アルコールの匂いが立ち込める入院病棟。パジャマ姿の入院患者と白衣の看護士たちが行き会う廊下の中、白石が入院している病室を目指す結希の顔には心配の一字だけが浮かんでいた。
真が一つの病室の前で立ち止まると、顔を一度横に振って、ここだと合図を結希に送った。
居ても立っても居られない結希が病室に駆け込み、中を見渡すと、そこは大部屋で6つのベッドがあり、2つのベッドの主はどこかに行っているのか、今はそのベッドの上には誰もいない。他の3つのベッドに横たわる患者は明らかに白石ではない。
あえて目を向けるのを避けていた残る一番奥のベッドには、足をギブスで固定され、顔や腕にも包帯が巻かれた痛々しい患者が横たわっていた。
あれが白石君?
それとも、今、白石君はいないの?
そんな表情で結希が顔を真に向けると、真は一番奥のベッドを指さした。
「あれが、本当に白石君なの?」
真は言葉ではなく、黙ってうなずくと、結希に背を向けて、立ち去り始めた。
結希は真の後ろ姿を見送る事もなく、一番奥のベッドに目を戻して、つぶやいた。
「ごめんね」
入院病棟の大部屋の入り口に立ち止まったままの結希の頬を一筋の涙が伝った。
駆けよりたい気持ちと、合わす顔が無い気持ちが揺れ動く中、ようやく白石のベットの横で、心配そうに寄り添う中年女性がいる事に気づいた。
白石君のおかあさん?
涙を拭うと、結希は一歩を踏み出して、白石の下に向かって行った。
「すみません。
白石君のお母さんでしょうか?」
結希が近づきながら、そう声をかけると、その女性は結希に視線を向けて、立ちあがった。
「そうですが。
どちら様で?」
「同級生の早川と言います。白石君の具合は?」
「今、眠ってます。
あなたでしたか。
卓也と一緒に襲われた女の子と言うのは」
ここで非難の言葉を浴びせられても仕方がない。そう覚悟を決めた結希は頭を下げた。
「白石君に助けていただいて、ありがとうございました。
なのに、こんな事になってしまって、私、何て言ったらいいのか」
続ける言葉を見つけられず、頭を上げる事もできないまま、ぬぐったはずの涙が再び頬を伝い、ぽとりと床に落ちた。
「ううん。あなたが無事でよかったわね」
白石の母の言葉に、はっとした表情で結希は顔を上げた。
「でも、白石くんが」
「この子はあなたを守ろうとしたって、聞きました。
やっぱり男の子だなって、思っています。
これであなたにもしもの事があったら、この子の怪我は無駄になってしまいますが、あなたが無事ならこの子の怪我も報われるってもんじゃないでしょうか。
こっちに来てやってくれませんか」
「はい」
白石の母親の招きに応じ、結希は白石のベッドの横に立って、白石を眺めた。顔を覆う白い包帯から覗いているのは、閉じられている瞼や口のあたりだけである。元々結希の事で遠藤に殴られて、傷ついていたところに、結希を守るために男たちに暴行を受けた結果の痛々しい姿。すべてが自分のためになった事と思うと、結希は心が痛み、涙が止まらなくなった。
「白石君」
結希が包帯の上から白石をそっと触れた。決して、そんな事で治る訳はないと分かっていても、その痛々しさを少しでも和らげられないものなのか。そんな気持ちで、白石に触れたまま動けないでいると、白石が目を覚ました。
「お母さん? あれ、早川さんも?」
結希に気付いて、そう言った白石の包帯の隙間からのぞく口元は、うれしそうだった。
「ごめんね。ごめんね」
身体が固定されて自由に動けない白石に近寄って、結希が涙声で言った。
「怪我は無かったんだ。よかった。
何も早川さんが謝る事はないだろう」
「ううん。私をかばってこんな事になったんだもん。
ありがとう。
でも、もう私にはかまわないで」
「どうして、そんな事言うの?」
「だって、私、白石君が怪我をするのをもう見たくないの。
私に関わっていると、また怪我するかも知れない」
そう言った結希の瞳からは大きな涙がさっきまで以上に溢れ出している。
「何を言ってるんだい。早川さんは分かってないな。
たとえ、僕が怪我をしなかったとしても、早川さんがいなくなったり、もしもの事があったら、そんな世界の僕はもう死んだに等しいんだよ。
どんな怪我をしても、早川さんが無事な世界でこそ、僕は生きているんだ」
「馬鹿。白石君の馬鹿。
こんなになっても、私は何もしてあげられないのに?」
「あるよ。出来る事」
「何?」
「僕の事を白石君ではなく、卓也って、呼んでくれない?」
「馬鹿」
そう言って、結希は少し間をおいてから、白石に呼びかけた。
「卓也」
その声は涙声の名残で少し震え気味ではあったが、優しさの中に愛おしさが隠されたような声音だった。
「聞こえなかった」
うれしそうに、そして少し意地悪そうに白石が言う。
「卓也」
結希が顔を少し赤らめながら、さっきよりも大きな声で言った。
「結希」
祖父と真以外の異性から、初めて下の名前で呼ばれ、頬をさらに赤く染めて行く結希の心の中には、白石は大変な状態だと言うのに、うれしい気分が混じっていた。
そして、ふと結希が気づいた時、二人に気を利かしたのか、呆れたのかは分からないが、白石の母親はいなくなっていた。
その日の夜、暗闇に輝く夜景が広がる高層ビルの窓を背に、顔を寄せ合う男たちがいた。
「それは間違いないのか?」
そう耳打ちして来た男に言ったのは杉本だった。
「はい。
その者たちの背後にいたのは、間違いないようです」
「高山たちは気づいているのか?」
「いいえ。それは大丈夫です」
「大統領はもちろん、高山にもその事実をつかませるな」
「承知しております。
しかし、どう言う事なのでしょうか?」
「事情は私の方で確認しておくが、心当たりがある。
その事情を逆手にとって、向こうから出してもらうと言うのもありかもしれん。
が、その前に、その男たちが高山たちの手に落ちて、全てを語る事があっては困る。
組織ごと消しておけ!」
「はい。ただちに」
男が杉本の部屋を後にすると、杉本は背後に広がる輝くばかりの夜景に目を向けながら、ぽそりと言った。
「かわいい孫娘のためとは言え、困った事をしてくれたもんだ」