あの日の真実
白石の怪我への治療は外来の処置だけですぐに終了し、時間的にまだ授業中の二人はすぐにバスで学校に引き返す事になった。バスに揺られ、白石と二人並んで座る結希の表情は申し訳なさげではあったものの、白石の怪我がそれほど重くなかった事で、少しは明るさを取り戻してはいた。
一方の白石はまだ痛んでいるであろう傷の事は何も言わず、横に座る結希を元気づけようとしてなのか、ひたすら喋りまくっているので、結希が言いたい言葉を言う暇を与えないでいた。
「いやあ、さっきの病院はきれいだったね。
いつできたんだろう?」
「あ、あ、あのね」
結希が意を決し、白石の言葉を遮って、白石をじっと見つめると、どきっとした表情で、白石の話が止まった。
「ごめんね。白石君」
結希が白石を見つめながら、もう一度頭を下げた。
「何を言ってるんだよ。
悪いのは早川さんじゃないだろう」
そう言って、返された白石の笑顔に、どきりと自分の心が揺れたのを結希は感じた。
「ありがとう」
そう言った時、結希の視界に学校につながる道路が映った。この道をまっすぐ進めば、しばらくして学校に着く。
「早川さん。もう着くよ」
先に言ったのは白石だった。
「うん。今日は本当にありがとう。ごめんなさい」
「いいよ。早川さんに殴られた訳じゃないしね」
そう言う白石の腫れた頬が痛々しげで、結希はついつい手を伸ばし、そっと白石の頬に触れた。
「早川さん」
結希がその声で現実に戻り、あわてて手をひっこめると真っ赤に頬を染めて、どぎまぎしながら言った。
「あ、ごめんなさい。つい、かわいそうにと」
「あ、もしかして、早川さん俺に惚れた?」
白石が真面目な顔で、結希をじっと見つめながら言った。
「はい?」
今までの結希なら、そう冷たく言い放ったかも知れないが、今は言うべき言葉を見つけられず、ますます赤面し、顔が熱くなっているのを感じながら、黙り込んでしまった。
「ちゃうか」
そんな結希に白石が今度は笑い顔を作り、冗談ぽく話をそう終わらせた頃、バスは学校近くのバス停に停車した。
学校と道路との間に設けられているコンクリートの壁は、胸のあたりの高さから上は金網になっており、校庭の様子が見える構造になっている。二人がバス停を降りた頃、校庭では体育の授業が始まったばかりなのか、多くの生徒たちが準備運動をしていた。
その壁に沿って歩く二人の右側の片側2車線の道路は昼間の交通量は少なく、路肩に不法駐車していても、交通が滞る事はなく、近くの住民関係と思われる不法駐車がちらほらと止まっているのはいつもの事だった。二人の視界の先、校門の手前に大きなワンボックスカーが停車していたが、二人にとってはそれは普段の光景と変わりないものだった。
結希たちには聞こえるはずもないその車の中では、男たちが結希たちの姿に会話が始まっていた。
「おい。どう言う事だ?
あれがターゲットだろう?
今頃、バスから降りて来たぞ」
「ああ、そのようだな」
「男と二人? 朝帰りでもあるまいし」
「男は怪我をしているみたいだな。何かあったんだろう。
今は人通りが少ない。下校を狙うより、今の方がやりやすいだろう。
行くぞ」
停車しているワンボックスカーに結希たちが数mの距離に近づいた時、そのスライドドアが開き、30代くらいの男が降りてきた。昨日の事が脳裏によみがえった結希が足を止めた。車からは他にも男たちが降りて来て、結希たちのところに駆けよって来た。
男たちの狙いは私。そう思った結希が、慌てて怪我をしている白石を自分の背後に回したが、その異常事態に気づいた白石がすぐに結希の手を持って引き戻し、自分が男たちの前に立った。
白石は怪我をしている。
大人の男たちを相手に勝てる訳はないのに、どうしてそんな事をするの!
白石がこれ以上怪我をする姿を見たくなかった結希の脳裏に、昨日の助けを求める由依の姿が浮かび上がった。すぐに結希が大声で助けを求めた。
「きゃあー。助けて!」
叫びを上げる結希の視界に白石に向けられた男の拳が映った。
助けなきゃ。そんな思いから、結希は白石の腕を掴み、思いっきり引いた。予想外の後方からの力に、白石がよろめきながら後退した時、結希の目の前には男の拳が迫っていた。
「殴られる」
殴られる恐怖に包まれた結希の脳裏に、あの日のフラッシュバックが起きた。
それは私が8歳の下校途中の事だった。
街の大通りを通って、自宅を目指していた私の耳に怒気を含んだ男と哀願気味の男の声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。許して下さい。もう勘弁してください」
「ざけんじゃねぇ。これっぽっちで、俺を納得させられるとでも、思ってんのか?」
何だろう?
何か困っている人がいるのなら、話を聞いてあげたい。子供の自分にできる事があるのか? なんて事は考えもせず、純粋にそんな思いだけで、声がする方向に向かって、歩き始めた。
「痛い! 痛い!
やめてください」
どすっと言う何かがぶつかるような鈍い音も何度となく、男の声に交じって聞こえてきていた。その声と音がしているのは、もうすぐそこの大通りの店と店の隙間の細く暗い路地裏。
私は路地裏に足を踏み入れながら、声をかけた。
「どうしたの?」
そこにいたのは男の人が二人。一人の男の人は胸ぐらを掴まれた状態で、もう一人の男の人にお腹の辺りにひざ蹴りを食らわされていた。
これは悪い大人とその人に絡まれて困っている人に違いない。そこまでは分かった。でも、子供だった事と目の前の光景に恐怖を感じた私の思考回路は迷走していて、次に取るべき行動の選択肢すら思い浮かべる事ができず、呆然とその光景を見ていた。
そんな時、胸倉をつかまれて怯えた表情をしている男の人が、私に選択肢をくれた。
「助けを呼んで来てくれ」
「うん、分かった!」
そう言って、路地裏を抜けようとした私に怒鳴り声が降り注いだ。
「待たんかい!
このガキ!」
その怒声に恐れをなした私の思考回路は再び停止し、振り返って男の人に目を向けた。そこには鬼のような形相で、私を睨み付けている悪い男の人の姿があった。
「クソガキ、誰にも言うんじゃねぇぞ。
分かったな!
分かったら、黙って、とっとと立ち去りやがれ!」
私に与えられた新たな選択肢。黙って立ち去る。その選択肢を選んでいいのか? 胸倉をつかまれている男の人に目を向けた。
恐怖に引き攣った顔の目には涙が浮かび、口元から血が流れている事に気づいた。
悪い人が完全な弱い者いじめをしている。
そう思った私の頭の中に、新たな選択肢が浮かんだ。それは与えられたものではなく、私自身が考えたものであって、それが正しい選択肢だと小学生だった私は思った。
「だ、だ、だめだよ。そんな事しちゃ。それは悪い事だよ」
口に出すのは勇気が言ったので、ちょっとどもったし、足もがくがく震えていた。でも言った後はちょっとすっきりした気分を感じたけど、男の人をかなり怒らせる結果になってしまっていた。
「何だと。このくそガキが。死にてぇのか、こらっ!」
初めて見る大人の男の人の怒った恐ろしい形相と大きな声に、私の足はいっそう激しく震え始め、動くこともできなくなっていた。男の人は私に向かって、一歩を踏み出す素振りを見せ、それが私をさらに恐怖に追い込んだ。
「来ないでぇぇ。
悪い事はしちゃだめなの!」
私がそう言い終えた時、胸ぐらをつかんでいた男の人を振り飛ばすと、男の人が私に右拳を振り上げて、向かってきていた。
「ぶっ殺されてぇのか!」
殴られる!
殴られるのが怖くて、その拳を止めようと思った。
ゆっくりと私に向かって振り下ろされてくる男の人の拳。
まるでスローモーションのような動き。
その事に違和感を覚えたのは、ほんの一瞬の事で、その拳を止めるため、慌ててその男の人の腕を思いっきり掴んだ。
その瞬間、私の視界に映る男の腕は私の両手の中で潰れて行き、それにふさわしい何かが潰れる感触が手から伝わってきた。
えっ?
そんな思いを抱いた私の視界の中、男の人の腕は男の人の本体から離れて地上に向かって落ち始め、腕の先を失った男の腕からは真っ赤な血がゆっくりと噴出し始めた。何秒あとだったのか分からないけど、何が起きているのか分からず、呆然としている私の頬に噴き出し始めた血液の最初の一滴が、ぴちゃっとした感触で当たった。
私に伝わってくる生暖かさと、鉄っぽい臭い。
もしかして、とんでもない事が起きている?
そう思った瞬間、スローモーションのように思えていた光景が、一気に普通の世界に戻った。
私の顔に一気に、そして大量に降り注ぐ、男の真っ赤な血。
「ぎゃあああああ」
腕の先を無くした男の悲鳴と、その男の私を見つめる怯えた目。
「きゃぁぁぁぁ」
私も目の前に惨劇に悲鳴を上げて、その場に座り込んだ。
私じゃない。私じゃないよ。
知らない。知らない。私は知らない。
あまりの出来事に、私は頭の中でそれだけを繰り返していた。