第七話 九月一日 学校へ行こう!
階下に降りて、玄関にカバンを置いておくと、リビングに入る。
壁にかけてある時計を見ると、時刻は、七時半前。
家を出るにはまだまだ早い。
内心でため息を吐きつつも、とりあえず、テレビを付けてみるが、興味の惹かれるような物はなく、むしろ、朝から萎えてしまいそうなニュースばかりが流れている。
政治家の汚職やら、凶悪犯罪、異常気象など、明らかにマイナスのニュースなんて流さずに、もう少し、元気の沸いてくるような明るい物を流して欲しいものだ。
「あ、お兄ちゃん、もう起きてたんだ?」
テレビを消して、新聞でも取りに行こうかと、立ち上がろうとしたところで、声がした。
突然の事で、思わずびくりと反応して、そのままの勢いで振り返ったのだが、そこには妹の美樹の姿があった。
まぁ、この家に、僕の事を『お兄ちゃん』なんて呼ぶのは一人しかいないから、すぐに分かるといえば分かるのだが。
「眼が覚めちまったからな」
「ふーん。いつもは冬眠中の熊よろしく惰眠をむさぼっているのに、珍しい事もあるんだね」
とはいえ、この妹が本当に可愛くない。
兄の欲目じゃないが、顔に関しては割りと整っているし、スタイルだってそんなに悪くないため、学校ではそれなりにもてるみたいではあるのだが、口を開くとがらりと印象が変わる。
少々きついところがある。
今みたいに、くすくすと笑いながらさらり皮肉を言う事なんてしょっちゅうだ。
「て、うわっ。もしかして、もうご飯食べて終わってるの?何、お兄ちゃん、槍でも降らしたいわけ?」
しかも、流し台に僕が使い終わった食器が並んであるのを見つけると、大げさに驚いて見せ、更に続けてくれる。
本当に可愛くない妹だ。
確かに僕は、美樹の言うとおり、朝に弱くて中々起きずに、布団の中でごろごろとしてしまっていたが、だからといって、そう言う言い方はないと思う。
僕だって、普通に朝早く起きる事だってある。
もちろん、今日は姫に邪魔されたから、と言うのが理由だけど、姫に憑かれる前も、起きれるときは普通に起きていたのだ。
もう少し兄を敬って欲しい。
「そりゃ、ちょうどいいな。槍なんかが降ってくれれば、学校に行かなくてもすむし」
だからと言って、そんな事を言ったところで、美樹はまともに取り合わないのは、分かっているので、適当に流しておく。
この家での力関係は、完璧に決まってしまっている。
一番強いのが、母。
財布の紐を握っているのと家事の一切を取り仕切っているのだから、逆らえない。
次に来るのが、美樹。
皮肉屋で毒舌家、かなりきつい事を言うし、何より目つきが悪い。
ややつりあがった切れ長の瞳は、強烈な威圧感を放ち、その目で睨まれでもしたら、すぐさま萎縮してしまう。
以前、母に頼まれて、美樹を起こしに部屋に行った時、まだまだ眠たかったのだろう。
軽くノックをしてから、ドアの隙間に頭だけ入れて
『そろそろ起きろ、だってよ』
背中を向けて眠っている君に向かってそう言ったのだが
『うるさい。眠い』
首だけを捻って、静かながらもずっしりとしたプレッシャーを込めた声で、言い返されたのだが、その時の目なんて、もう本当にすごかった。
修羅とか鬼とか、そういうものすら裸足で逃げ出していくような、それこそ筆舌に尽くしがたいほどの恐怖を植えつけられてしまった。
もちろん、その後は、半泣きになりながら謝って、ほうほうの体で逃げ出した。
たぶん、あれから、僕と美樹の力関係が決まってしまったんだろう。
そして、三番目が父。
普通に考えれば、悪くても二番目に来るものだろうが、仕事が忙しいため、ほとんど家にいないため、家での発言権はほとんどないに等しい。
家長であり、一家の大黒柱であるはずの人だと言うのに、少し可哀想な気もするが、それ以上に辛いのは、間違いなく一番弱い立場の僕だ。
霊を無意識の内に引き寄せてしまうという変な体質を持ち、母からは、面倒くさいからと言って家事を押し付けられ、断る食事抜きと脅される。
妹には、その恐ろしさから頭が上がらず、常に皮肉と毒舌を浴びせられる。
父には、家で肩身の狭い、と嘆く愚痴を延々と聞かされ、お酒を飲みだすと泣きながら絡まれる。
もう、家にはどこにも僕が力を発揮する場所などないのだ。
いいように周りにいじられるだけなのだ。
しかも、唯一のオアシスだった自分の部屋も姫に侵略されてしまっている。
これを、辛いといわずに何を辛いと言おうか。
とりあえず、普通の人なら家出を考えてもおかしくない。
例え、そうならなかったとしても、きっとこんな生活に耐えられるわけがない。
こうして、まともに志亜家が機能しているのは、ひとえに僕が我慢に我慢を重ね、耐え忍び、損な役回りを一手に引き受けてきたからこそだ。
そこのところをしっかりと理解して、むしろ感謝して欲しいものだ。
「お兄ちゃん、邪魔。テレビ見ないんだったら、テレビの前に陣取らないでよ」
そんな心からの願いをあっさり打ち砕き、僕を押しのけて、座りこむ。
しかも、蹴り倒して、だ。
我が妹ながら、本当に足癖の悪い。
だからと言って、文句を言ったところで
『邪魔だから悪いのよ』
そんな事を言わって、にらまれてしまうのがおちだ。
本当にいい性格をしている。
「……学校にでも行くか」
結局、僕には逃げる道しかない。
ため息をつきつつ、ぼやきながら、玄関に向かう。
リビングを出る途中に、一応時計を見てみたが、八時前。
ぎりぎり登校するのは、あまり好きじゃないから、家を出るのにはちょうどいい時間帯なのだが、家を出る理由はかなり情けない。
靴を履き、玄関に置き去りにしておいたカバンを手に取り
「いってきます」
そう言って、家を出る。
ただ、誰からも返事はない。
母はいまだに夢の世界だろうし、父は仕事で出張中のため不在、美樹はたぶん無視。
なんだか、本当に、やるせなくなってくる。
家族がいるはずなのに、どうして、一人暮らしの独身男性の寂しい出勤みたいな事をしないといけないのだろう。
誰でもいいから、せめて一人ぐらい
『いってらっしゃい』
そう言って欲しいものだ。
そうなれば、今日一日も頑張ろうと言う気にもなれると言うのに。
これで、今日何度目になるか分からないため息をつくと、歩を進める。
外に出ても、まだ朝のため、うだるような暑さではないが、それでも、やはり十分に暑く、学校に付く頃には汗だくとまではいかないだろうが、確実に汗で制服をぬらす事になる。
せっかく新学期が始まるというのに、これでは、爽やかさなど微塵も感じられないものになってしまう。
心機一転、高校でリフレッシュしようと思っていたのに、出鼻からくじかれてしまった。
どうやら、神様はどこまでも、残酷らしい。
しかも、更に試練をお与えになってくれるらしく、その場に立ち止まり、そのまま視線を横に変える。
登校の時は誰とも約束していない。
そのため、基本的に一人なので、隣には本来なら誰もいないはず。
だけど、家を出た時から、僕の隣にはずっと人の気配。
いや、実際は人じゃないんだから、そういういい方は間違いなんだろうけど、それ以外にうまい表現の仕方を僕は知らないから、結局そう言うしかない。
それに気にするべきはそんな事じゃなくて、隣にいる存在。
ふわふわと浮いて、僕に付いて来ている輩だ。
ある程度覚悟はしていたが、本当に付いてくるとは思わなかった。
というよりも、思いたくなかった。
「どうしたのよ、こんなところで立ち止まって」
呑気にふわふわと浮いているもの――姫は、急に立ち止まった僕を見て訝しげにそう尋ねる。家にいた間も一緒にいる事をさも当然そうにしていたんだから、僕がくっついて来ている事に対して、頭を痛めているとは全く思っていないのだろう。
「なんで付いて来るわけ?」
トラブルメイカーである彼女を学校につれていけば、きっと騒ぎを起こしてくれるだろう。
静かに僕の傍でふわふわ浮いているだけならいいだろうが、落ち着きのない彼女だ、うろちょろして、問題を起こしてくれるに違いない。
しかも、今日は退屈な式なのだ、絶対に、我慢なんて出来ないだろう。
「別にいいじゃない。家にいたって暇だし」
とはいえ、だからと言って、家に押し込んでおいたところで、また問題は起こしてくれるだろう。
昨日、昼寝をして、しっかりと休養を終えた後、自宅に帰ってきたら、本当に大変だった。
しまったはずのマンガ本をまた引っ張り出していたかと思うと、過去の再現かのように、床中に本を散乱させていたのだ。
彼女を置いて出て行った時にある程度覚悟していたのだが、まさかここまでとは、と思うような惨劇だったのだ。
もちろん、また母にそれが見つかって、こってりとしぼられてしまった。
「それとも何?私が行っちゃいけないとでも言うつもり?」
よって、まだ、家に置いて行くよりかはましだろうけど、だからと言って、素直に連れて行くわけにもいかない。
やっぱり、騒ぎを起こされるわけにはいかないし、何よりせめて学校ぐらいは安息の地にしておきたい。
「いや、別に。ただ、あんまり騒がないように」
とはいえ、言っても無駄だろう。
彼女も僕が通っている高校の事は知っている。
置いて言ったとしても、勝手に来るだろう。
そうなれば、もう彼女の独断場。
僕を探すためだとでも言って、やりたい放題やって、騒ぎを起こしてくれるに違いない。
なら、最初から、一緒にいて、彼女が暴走しないように気を配って置くほうが、まだなんとかなるかもしれない。
まぁ、抑えられる自信はあんまりないけど。
僕が嫌がる事や困る事をやるのが大好きな彼女なのだ。
嬉々として僕の事をいじってくるだろう。
結局、どうあがいても、僕に心休まる場所はないと言うわけだ。