第二十二話 九月二日 妖しの風音
いつの間にか、日は落ち、既に世界には闇に満たされている。
意外と長居してしまったみたいで、そろそろ帰らないと、母に小言をぐちぐちと言われてしまうだろう。
けれど、そんなことは裏腹に僕の足は、家へと向かっていない。
帰りたくない。
心のどこかでそう思っているのだろう。
僕は夜道を一人で歩く。
途中まで、志穂が送るとは言ってくれたけど、それは断っておいた。
今は一人になりたかった。
彼女のお父さんは、あの後、続けてこう言った。
「主人、従属。そう言うと、なんだか仰々しく聞こえるが、簡単に言えば、守護霊のようなものにする事。もちろん、君には、既に守護霊はいるし、それに何より、守護霊では、彼女を縛る事はできない。あくまでも、守護霊は任意の存在であって、強制力はない。だから、より強い束縛と強制力を持たせるために、君と彼女を魂で繋ぐ。君の魂で作った鎖で彼女を絡み取り、逃げられないように、楔を打つ。そうすれば、君は彼女に対する強制力を持ち、抑圧する事が出来る」
それは、彼女に手錠をかけるようなもの。
彼女の完全な自由意志を奪うようなもの。
マリオネットに仕立て上げようとするもの。
「ただ、その代わり、そうする事で、君もまた、普通ではいられなくなる。一度繋いでしまったものは、もう二度と引き離す事は出来ず、彼女と死ぬまで一緒にいなくてはならない。そして、魂を繋いでしまえば、お互い、完全な他人ではいられず、影響を受け合い、変質してしまう。今の君は、霊を引き寄せやすい体質であるだけで、それ以外は、普通の人とは何も変わらない。ただ、もし変質してしまえば、君は、私たちと同じような属性を持つ事になり、私たちと同じような生活を送らざるをえなくなる可能性もある」
そして、逆に、僕自身もまた、見えない鎖で縛られる。
普通に生活をして、普通に恋をして、普通の家庭を築く。
それができなくなる。
それどころか、僕は、一般社会にいながらも、その世界で生きる事すら出来なくなる。
自分を隠し、誰にも何も言えず、ただただ、一人となる。
「本来、こんな事は、君ではなく、私たちのような人間の仕事だが、私たちでは彼女が頷くまい。だいたい、主従の関係を築くのであれば、よっぽどの力の差がなければ、無理やり押さえつける事は出来ない。それに、君の事を考えて、祓わないのだから、君が責任の一端を担うべきでもあるしね。だから、すまないと思うが、君にお願いするしかない」
彼の言う事は最もなのだ。
僕の気持ちを配慮して、彼女を祓わない。
ならば、僕が彼女に対する責任を負わなくてはいけない。
当然の事だ。
「もちろん、それは君にとっては、あまりにも大きすぎる責任だ。それを君に押し付ける気もない。だから、君に決めて欲しい。彼女をどうするか。君はどうしたいのか。その事を決めて欲しい」
そして、彼は最後にそう言った。
つまり、全ては僕任せ。
彼女を祓うか、それとも、お互いがお互いを縛り付けるのか、それを決めるのは僕なのだ。
だけど、僕はそれに答えられなかった。
周りを見回す。
気が付くと、いつの間にか、山の中にいた。
良く来る、あの納涼には最適な場所。
僕は、知らず知らずのうちに、一人でいられる場所を、誰にも邪魔されない場所を求めて、ここに来てしまっていたみたいだ。
いつも、座っている場所まで行くと、そこに腰掛ける。
上を見上げても、枝や葉で隠されて、空は見えない。
そのため、辺りは暗く、不気味な雰囲気をしている。
そう言えば、夜にここに来るのは初めてだった。
ここに来る時はいつも、昼間で、夜になると帰っていた。
だから、こんな時間に来た事なんてないのだが、夜になったと言うだけでこれだけ印象が変わるとは思わなかった。
いつもの穏やかで優しく包み込んでくれるような雰囲気はなく、怪しく今にも闇に飲み込まれてしまいそうになる。
いや、もしかすると、ここの雰囲気は何も変わっていないのかもしれない。
ただ、僕の方が、周りが見えなくなってしまうほど、悩みこんでいるだけなのかもしれない。
『彼女をどうするか。君はどうしたいのか。その事を決めて欲しい』
彼の言葉が脳裏に掠める。
自分の一生に関わる事なのだ。
自分で決めないといけないのは分かっている。
そして、自分の性格を考えると、どれを選ぶべきなのかも分かっている。
僕には、姫を祓えない。
実際に、僕が祓うわけじゃないんだけれども、それでも祓えない。
憎む事も恨む事もできない彼女を、あっさりと切り捨てられない。
けれど、だからと言って、彼女を受け入れる事も出来ない。
彼女を受け入れば、僕の一般人としての生活が終わる。
それは、きっと今まで育てて来てくれた両親を裏切る事になると思う。
なんだかんだと面倒事を押し付けてきたり、からかわれたりといろいろと嫌な事もされてきたけれど、それでも、大切にして来てくれた、好きでいてくれた両親。
その二人は、僕には当たり前の幸せを望んでいる。
特別になろうとしなくても良い。
無理なんてしなくてもいい。
ただ、僕が僕としてあり、幸せでいてくれれば、それでいい、そう思ってくれている。
なのに、僕が彼女を受けいれれば、両親が望んでいる当たり前の幸せを捨てて、二人にしたら、何がなんだか良く分からない奇妙な世界に足を踏む込む事になる。
きっと納得なんてしてくれないと思う。
それに、それ以上に、僕には、姫を受け止める覚悟がない。
今、こんな状況になって初めて、志穂の気持ちが分かるような気がする。
普通の人とは全く違う存在になってしまう。
普通の人には受け入れられない存在になってしまう。
嫌われ、排斥され、後ろ指を差され、笑われてしまうかもしれない。
それが、怖い。
初めて会った時の志穂もそんな感じがあった。
自分が人と違う事に怯えていた。
できる事なら、自分も普通でありたかった。
そして、自分が普通じゃない事がばれたらどうしよう。
そんな思いがにじみ出ていた。
僕はそれを軽く見ていた。
確かに、少しだけ人と違う。
人によっては、それを忌み嫌い、排斥しようとするかもしれない。
だけど、それでも、ただ、少しだけ人と違うだけで、何も変わらない、ちょっと人が持ってない力をもっているだけに過ぎない。
そう思っていた。
だけど、今、自分がそうなろうとしている。
もしかすると、人から忌み嫌われるかもしれない。
家族にまで迷惑をかけてしまうかもしれない。
大切な人を傷つけてしまうかもしれない。
その事が、自分の一生だけでなく、家族の一生を左右するかもしれない。
そんな事を考えたら、僕は答えが出せなかった。
彼女を切り捨てる覚悟も、受け入れる覚悟もどちらもない。
こんな中途半端な気持ちじゃ、何も決められない。
結局、僕はこうしてここに逃げてきてしまった。
ざわり、と風が吹く+。
暑い時期ではちょうど良い涼しさを保つこの場所は、暦的には秋になり、しかも夜になってしまっている今では、どこか肌寒く感じる。
そして、さらに風が吹く。
今度は先ほどよりも強く、寒い。
思わず身をすくめる。
気が付けば、身体はすっかり冷えて、震えている。
どうやら、冷やしすぎたのかもしれない。
正直言って、今の精神状態で家に帰りたくないが、だからと言って、長居しすぎて風邪を引くわけにも行かない。
おもむろに立ち上がり、来た道を戻る。
暗く、見通しの悪い場所だが、それでも通り慣れた道。
ポケットから出した携帯を明かりにして、山を降りる。
ざわり、また、風が吹く。
先ほどよりも、また強く、寒い。
心の芯まで冷えてしまいそうなほど、強い冷気。
まるで、冬の風のようで、下着とカッターシャツの薄手では、非常に寒く、身体は次第に震えだしている。
僕は、走り出した。
このまま、呑気にしてたら、本当に風を引きかねない。
それに、この風も何か嫌な予感がする。
初めて姫と会った時。
あのときに、吹いた凛と張り詰めた冷たい風。
まるで、何かに狙われているような、絡み取られているような、そんな感じのする風を一身に浴びている。