第一話 八月三十一日 前篇
カレンダーを見てみる。
日めくり式のそれは、しっかりと八月三十一日と示している。
つまり、高校生である僕にとっては、夏休み最後の日を表していると言う事になる。
それを見て、僕は心の奥底から思う。
あっという間の事だった、と。
もちろん休みなんて物は学生にとってはあっという間の物で、すぐに過ぎ去ってしまう物だって事ぐらいは僕だって分かっている。
実際昨年の夏休みだって、その過ぎて行く日々の早さに驚いたものだ。
けれど、今回の夏休みに関しては、そんな理由じゃない。
別に楽しい事がたくさんで充実していたから、なんていうありきたりな理由ではない。
むしろ騒動が多すぎて心休まる暇がなかったから、と言うのが正しいところだろう。
もちろん、その原因となるものは一人しかいない。
今思えば、きっとあの時から全てが始まってしまったのだろう。
そんな事を考えながら、隣で呑気に漫画を読んでいる少女を見る。
彼女の名前は姫。
とは言っても、本名ではない。
どれだけ聞いても、教えてくれなかったのだ。
だから、仕方なく、僕が付けた。
たっぷりとした色艶のある長い髪に、黒曜石を埋め込んだかのように、綺麗に透き通った黒瞳。絶妙なバランスの上で整った顔。服の上でも分かるすらりとした肢体。その姿が、まるで絵本から出てきたお姫様のようだから、姫。
まぁ、世間知らずで、天然で、どこか抜けたようなところがあるから、なんていう理由もあったりするけど。
とはいえ、それで姫と言うのも、かなり安直なようにも思えた。つけた僕自身だって、そのセンスのなさに辟易したものだ。ただ、彼女がそれを嫌がらなかったから、結局、それになったわけだけど。
まぁ、大して自分の呼び方に興味がなかったと言うのが正しいんだろうけど。
僕が必死になって名前を考えているときも、彼女は今と同じように漫画を読んでいた。
それを考えると、自分のしていた事が無意味にも思えるけど、それはこの際、記憶の奥底に押し込んでおく。
そんな自分が可哀想だから。
それに、今考えるべき問題は、僕が置かれている状況だ。
とりあえず、この呑気に漫画を読んでいる少女は、何を思ったか、僕の家に住みついている。
しかも、せめて、もう少し、殊勝な態度でいてくれれば、まだ、我慢できると言うのに、さも当然そうに、堂々と居座っている。
だいたい、自覚があるのだろうか。
地元の高校に通う僕は、当然家族と暮らしている。
だから、もし、この状態が家族にばれでもしたら、それこそ惨事だ。
知らない少女を、無断で居候させているのだ、騒ぎにならないほうがおかしい。
よって、当然、本来なら、こそこそとしないといけないというのに、視線の先にいる彼女は、相変わらず、呑気に漫画を読んでいる。
それが、いつも続いているのだ。
おかげで、気を使うのはいつも僕で、気が休まる暇がなく、平穏だったはずの僕の生活があっさりと音を立てて崩れ去ったのだ。
もちろんその原因は、忘れもしない、あの夏休みの出来事だ。
あの時、振り返った僕の目の前にいたのは彼女だった。
彼女はどこか悪戯っぽい笑みを瞳に浮かべて、僕の事をじっと見つめていた。
その視線は、どこか僕の事を値踏みしているかのようにも思えて、居心地が悪くて、身体中がむず痒く、今すぐにでも逃げ出したかった。
幸い、相手は女の子なのだ、振りほどく事ぐらい簡単に出来るかもしれない。
だけど、僕はそれをしなかった。
いや、できなかった、というのが、正しいか。
今まで見た事のない、まさに完璧と言うべき、美貌を前にして、僕は動く事が出来なかったのだ。
なんとも悲しい男の性と言うものだろう。
けれど、そんな僕を置いてきぼりにした彼女は、しばらくじっくりと僕を吟味した後、
『決めた。今日から、私は君に憑く』
そう言ったのだ。
その言葉に、僕はようやく我を取り戻したけど、時、既に遅し。
彼女は、すっと僕の腕を引くと、そっとキスをしたのだ。
一瞬何事だと思って、驚いたし、恥ずかしながら、彼女居ない暦が実年齢と言う恥ずかしい記録を持ってしまっているほど、全くもてないので、これがファーストキス。
別に大事に取っていた分けじゃないけど、それでもこんな望まぬ形となり、ショックを受けていた。
けれど、身体中の力が抜けた事で遅まきながら現状に気がついた。
魂を抜かれたのだ。
しかも、身体の力の抜け方が半端じゃないという事は、かなりの量を抜かれていると言う事。
下手したら、死にかねない量だ。
だけど、だからと言って、何をされたのかが分かったからと言って、それに対する対応策なんて物は知らない。霊感の類は少なからずあるとは言っても、それに対する対応策なんてしらない。
あくまでも、僕は一般庶民なのだ。
『うん、ごちそうさま。これで、憑依完了ね』
結果、何も出来ずに、なすがままの状態で、かなりの量を抜かれた。
なんとか、意識が残っている分、致死量ではないのだろう。まぁ、憑くと言ってたからには、すぐには殺すつもりはなかったのだろうが、それでも、手違いで抜き過ぎた、なんて事も十分ありえる。
まぁ、実際は、無事に死んだりはしなかった。とりあえず、しばらくひどい脱力感に苛まれてまともに動く事も叶わなかったけど。
そして、その日から、僕は迷惑千万な彼女との共同生活が始まってしまったのだ。