第十七話 九月一日 ひとまずの決着、一時停戦とも言う
階段を降りて、キッチンにはいると、そこには、料理をしている母の姿がある。
どうやら、今日は焼きそばらしく、キャベツなどの野菜や肉が置いてあり、母は、やっぱり面倒臭そうに、キャベツを切っている。
一瞬、そのまま回れ右をして、キッチンから出たくなった。
この状況で、僕の姿を見つけた母はきっと、僕にパスをするはずだ。
「あ、ちょうど、良かったわ。ちょっと今疲れてるから、後よろしく」
けれど、足を一歩引き、そのまま回れ右をしようとしたところで、見つかってしまった。
その母は、僕の姿を見つけるや否や、着ていたエプロンを脱ぐと、それを僕に押し付けて、さっさとリビングに行ってしまう。
本当に、わが道を付き進む人だ。
家事なんて知ったこっちゃない、と言わんばかりだ。
「あー、今、友達が来てるんだけど、その子も一緒に食べさせてもいいよね?」
「別にいいわよ。その代わり、由貴が全部作りなさいよ」
本当は、それでも主婦か、そう言ってやりたいところだが、言ったところで無駄なので諦める。
一度、そう言った時は、
『お弁当に、晩御飯、掃除洗濯。それだけやってもらってるんだから、十分でしょう』
なんて言い返されてしまった。
確かに、それだけやってもらっているのだから、十分と言えば十分なのかも知れない。
それ以上を期待するのは、もしかするとたんなるわがままなのかもしれない。
だけど、それをさも当然そうに、しかも、自慢げに言うのは、少しおかしいんじゃないか、と思うのは、僕だけだろうか。
いや、できれば、僕だけであってほしくない。
蛇口を捻って水を出し、手を洗うと、包丁を握って、きりかけの野菜を切る。
ただ、出ているのは三人分なので、足りない志穂の分は、冷蔵庫から新しく出すと、それも合わせて、切り、ガスコンロのスイッチを入れ、フライパンを温める。
十分に温まったのを確認すると、キャベツ、ニンジン、タマネギ、豚肉の順に入れて、火をしっかりと通すと、最後に中華そばを入れ、塩コショウで、軽く下味をつけてから、しばらく熱したところで、最後に焼きそば用のソースをかけて、更に麺と具になじませながら、芳ばしい匂いがして来るまで、更に、熱する。
「ふーん、少しは手際が良くなってきたわね」
「母さんのおかげでね」
「しっかりと感謝しなさいよ」
いつの間にか、キッチンに戻ってきていた母が、後ろからフライパンを覗きこみながらそういってきた母に、皮肉を言ってみたが、あっさりと返されてしまった。
まあ、亀の甲より年の功、ということわざがあるように、年輪を重ねた分だけ、母の方が口達者なのだろう。
「はい、完成。呼んでくるから、皿は自分で用意して」
最後に青海苔と鰹節を散らして出来上がり。
コンロの火を消すと、母にそう言うと、キッチンを出て、二階に上る。
その際、また面倒臭そうに文句を言う母の声がしたけれど、それは無視する。
いちいち、相手にしていたら、せっかく出来上がった焼きそばが、冷めてしまう。
階段を上りきり、部屋の前に立つ。
相変わらず、ドアの向こうでは口論は続いているみたいで、部屋から声が漏れ出ている。
いったい、どうしたら、そこまで口論を続けられるのか、本当に不思議だが、聞いたところで答えは帰ってこないだろう。
内心でため息を付きながら、ドアを開けると中に入る。
途端に、先ほどまでドア越しで聞こえていた声が、直接耳に届く。
その大きさと言ったら、思わず、顔をしかめてしまうほどだ。
さっさと逃げ出しておいて正解だったようだ。
「あー、えっと、志穂、昼飯食っていかないか?」
こんな大声での口論の最中に、そんな事を言ったところで、聞いてもらえないと分かりつつも、一応形式的に、言うが
「いっその事、誰かに揉んでもらったらどうなの?そしたら、そのちっさな胸も大きくなるんじゃないかしら」
「そんな迷信、今時、誰も信じてませんよ!」
やはり、聞いてもらえない。
本日二回目の事とは言え、やはり少々こたえるものがある。
とはいえ、だからと言って、今度も諦めるわけにもいかない。
せっかく準備をしたんだから、食べてもらいたいというのが、作った人間としての気持ちだ。
それに、姫は良いとしても、志穂は、生きてる人間だ。
何も食べないというわけにはいかないだろう。
健康的な生活を送って入る彼女だから、朝はしっかりと食べてきたんだろうとは思うけれど、それでも、昼は昼でしっかりと食べないと身体に悪いし、今食べておかないと、変な時間にお腹がすくかもしれない。
こうなれば、強硬手段しかないだろう。
とりあえず、姫の事は放っておくとして、志穂のそばまで歩み寄ると
「ああ、それとも、あなたのその無駄に大きい胸は、そうやって揉まもが…!」
彼女の口を塞ぐ。
こうしておけば、志穂の方は、口を出すことは出来ない。
「由貴、これは女と女のプライドを賭けた戦いなの、邪魔しないで」
「とりあえず、ご飯食べてくるから、姫はそこで待っている事」
姫の方は、突然の介入で、ちょっと怒っているみたいだが、適当に流す。
真正面から相手していると、いつまでたっても、前に進まない。
そのまま、志穂を引きずるようにして、部屋を出る。
相変わらず、彼女はもがもがと口をさせながら、じたばたと暴れている。
このまま、解放するのは少々怖いが、このまま口を塞いでいるうちに、窒息されてはたまらないので、
「はい、もう暴れないでよ」
そう言ってから、そこで彼女を解放する。
先ほどまでの彼女の行動を考えたら、それを素直に聞いてくれるとは、ちょっと思えなかったのだが、ようやく頭が冷えたのか、冷静さを取り戻した彼女は、恥ずかしそうに、こくん、と頷いた。
まあ、彼女にしてみれば、先ほどの姿は穴があったら入りたいほど恥ずかしい事だろう。
普段の彼女では、考えられない姿だったわけだし。
その逆に、相手の姫はいつもどおりの姿だろう。
あの人を小馬鹿にしたような態度は、いつでもそうだ。
もしかすると、単に、姫は志穂をからかっていただけなのかもしれない。
彼女は、変に大人気ないところがあるから、その可能性は十分に……
「逃げたわね!」
ないか。
やはり、からかっていたわけではなく、本当の喧嘩だったのだろう。
大人気ない、大人気ない、とは思っていたが、まさかここまで大人気ないとは思わなかった。
かなりの年を食っているはずなのだから、もう少し落ち着いて欲しい。
「これから、お昼なんだけど、志穂も食べるよね?」
とりあえず、姫の事はいいとして、さっさと腹ごなしをしたい。
昼食を自分で作っていたせいか、すっかりお腹がすいてしまった。
「え?いや、それは悪いですよ」
「というか、食べてもらわないと困るんだけどね。もう作っちゃったわけだし」
とんとん、と小気味良く、階段を降りる。
彼女はいきなりの誘いにちょっと驚き、申し訳なさそうにするが、今言っている通り、食べてもらわないと困る。
彼女が食べなければ、誰も食べる人がおらず、余ってしまうのだ。
「とりあえず、由貴特製焼きそばなんだけど、食べ……」
「いただきます」
なので、できれば食べてもらいたいので、どうにか説得しようと試みたのだが、あっさりと僕の言葉をさえぎって、頷いてくれた。
先ほどまで、申し訳なさそうにしていた彼女の顔が、今は、どこか嬉しそうに笑みを浮かべている。
いったい、何がそんなに嬉しいのか、全く分からない。
昼食が浮いたのが嬉しいのか、はたまた、焼きそばが好物なのか、どちらにしろ、僕にはさっぱりだ。
「うん、ありがと」
でも、とりあえず、食べてくれるに越した事はない。