第十五話 九月一日 姫 vs 志穂 熱き戦いの始まり(謎
まぁ、熱いかどうかは知りません。
知りませんが、二人の仲では熱いんでしょう。
心の中で、
『早く帰って来て』
そんな無駄とも思えるお祈りをしていると
「ただいま」
不意に声がした。
高くも低くもない、聞きなれたアルト。
おそらく、母だ。
立ち上がり、部屋から出て、階段から玄関を見てみると、そこには、母の姿がちゃんとある。
どうやら、間違いはなかったらしい。
とりあえず、母が帰って来てくれただけでもましだ。
「おかえり」
僕は、そうとだけ、返すと、また部屋に戻る。
「ご両親だったんですか?」
「うん、母さんだった。すぐ傍に買い物袋があったから、やっぱり、買い物に行ってたみたい」
部屋に戻ってくると同時に尋ねた彼女の問いに、答えると、腰をかける。
「あの、やっぱり、ご挨拶はした方がいいですよね?」
「…は?」
「お邪魔しているわけですし」
「……ああ、そう言う事」
唐突に彼女が言った言葉の真意が理解できずに、一瞬きょとんとしてしまったが、付け加えてくれた言葉で分かった。
彼女の気持ちは良く分かる。
僕も、初めて彼女の家に上がったときは、ちゃんと彼女のご両親に挨拶をした。
家に上げてもらい、いろいろとお世話をしてもらったのだから、当然の事だ。
彼女もそれと同じような気持ちなのだろう。
「うん、んじゃ、下に降りようか」
ただ、それなら、ちょうどいい。
もうそろそろお昼だ。
そのついでに、彼女の分の昼食を頼もう。
まさしく、渡りに舟、とはこの事だ。
テーブルの上に置いてあるカップとソーサーをトレイの上に載せると、立ち上がる。
目の前にいる彼女も、それに合わせて、立ち上がったので、部屋の外に出る。
……いや、出ようとした、そっちの方が正しいだろう。
ドアノブに手をかけ、ドアを開けたところで
「やっほー、おかえりー」
突貫して来た輩がいるのだ。
いきなりの攻撃に体勢を崩して、危うくトレイに載せているカップ類が落ちそうになったが、すんでのところで、体勢を整える。
「うんうん、ちゃんと約束通りいい子に、帰ってきたみたいね。そんな賢い由貴には、お姉さんからのキスをプレゼント」
けれど、すぐに姫がへばりついてきたので、またバランスを崩す。
慌てて、志穂の方へと向き直り、視線だけで助けを請うが
「え…あ…は?」
何が何やらさっぱり理解できずに、混乱してしまっているのだろう。
言葉にならない声を漏らして、あたふたとしている。
どうやら、助けは期待できないらしい。
体勢を整える事は諦め、そのまま床に倒れこむ。
そのせいで、姫に押し倒されたような体勢になってしまっているが、ショックをうまく吸収する事ができたおかげで、何とかトレイの上の物を割るような事はせずにすんだ。
「はいはい、由貴は目を閉じるの。ほら、ぶちゅー、としてあげるから」
とはいえ、トレイの上の物の安全を確保する事は出来たが、自分の身の安全の確保は出来ていない。
マウントポジションを取った彼女は、しっかりと両手で、僕の頬をがっちりと固定すると、唇を近づけてくる。
「ば、ばか、やめろ」
必死になってもがいて、姫の魔の手から逃げ出そうとするが、彼女は、器用にその衝撃を受け流す。
こんなときに、そんな無駄なスキルを発動しないで欲しい。
「大丈夫、恥ずかしいのは、最初だけだから。きっと、しばらくしたら由貴からもねだるようになるよ」
「なるか!」
「ホントに?」
「当たり前だ!」
「んじゃ、今ここで確かめてみよう?」
「いらんわ!」
何も出来ずにいるため、せめての抵抗に、そう叫ぶが、そんな叫びも虚しく、まともに動けない僕の唇に、彼女はじりじりと近づく。
口元はだらしなく緩み、その目は恍惚と輝いている。
今まで、待ちに待った時が、今ここに叶おうとしているのだ。
そんな表情になってしまうのは良く分かる。
良く分かるが、もし唇を奪われれば、その瞬間に、僕の負けだ。
今まで必死になって守ってきた物が全くの無駄に終わってしまうのだ。
とはいえ、今更、必死に抵抗したところで、それが功を奏すとは思えない。
(神様、仏様、閻魔様、サタン様、どうぞお助けくださいませ)
こうなれば、神頼みしかない。
自分の知っているあらゆる神に、祈りを捧げ、助けを請う。
サタン様は、神様どころか、悪の大王だけど、この際、そんな事は言っていられない。
溺れる者は、藁でも掴むのだ。
「ほらほら、据え膳食わぬは男の恥、て言うで……!」
果たして、本当にこのまま、唇を奪われてしまうのか、心の中でさめざめと泣きながら、悲嘆にくれていたのだが、いきなり、ガン、という鈍い音ともに、身体が軽くなった。
慌てて、目を開け、起き上がってみると、すぐ傍に、頭を抱えてうずくまっている姫の姿がある。
その目じりには軽く涙が浮かんでいる。
「とりあえず、大丈夫ですか?」
涙を流す霊なんているんだ。
そんな姫の姿を眺めて、そう思っていると、すぐ傍に、どうやらいつの間にかに、復活していた志穂の姿があった。
どうやら、その言葉からすると、助けてくれたのは、彼女のようだ。
ほっと安堵の息を吐きつつ、感謝の意を込めて、お礼を言おうと、口を開きかけたところで、彼女の手に持っている物を見えた。
トレイだ。
さっき、押し倒された時に、転がしてしまった奴だろう。
先ほどした鈍い音は、もしかしないでも、これのせいなのだろうか?
たらり、と背中に嫌な汗をかく。
いくらプラスチック製のトレイとは言え、それなりに硬いし、音からしても、きっと角で殴ったんだろうが、そうとう痛いはず。
それを何でもなさそうにやっているのだ、少々怖い。
けれど、まぁ、助かったには違いない。
背に腹は変えられまい。
感謝感謝だ。