料理と1匹、のち2人 〜嵐と煮付け〜
物語に出てくる名称や内容は全てフィクションです。のんびりほのぼのだけど、文乃が千尋に振り回されるお話がかけたらと思います。
鎌倉のとある場所に、人々の間で噂になっているとある小料理屋がある。
噂では、どこぞやの三ツ星レストランよりも美味しく一度食べたら病みつきになるとか、店の場所を誰も知らず定期的に場所が変わるだとか、しかも一見お断りだとか、主の認めた人しか入れないなどなど。
多くのグルメマニアがその実態を明かそうと躍起になって探しているが、いまだ詳細が明らかになっていない。
そんな謎の多い店に今日、新たな客が来店する―――
「あぁ、ほんとついてないなぁ。」
私、伊達 文乃は嵐の中、前が雨で見えない状態で駅のある方角であろう道を目指して走った挙句、道に迷い、たどり着いた古民家の雨戸で嵐が通り過ぎるのを待っている。
国内最大手の製薬会社、ファルマ株式会社のMRとして早6年目。何事も全力投球がモットーの自分についたあだ名は女版正宗(伊達だから。)。気づけば課長に就任し、二か月前から関東第一エリアへ配属となり、地元の鎌倉へ戻ってきた。
今日は、同期や知り合いの伝手をフル活用して、文乃が前から興味を持っていた、日本でも最先端のホスピスケアを行っていることで有名な竹下病院ホスピスへのファーストコンタクトの日だった。日本で多くの大病院を経営している竹下グループの病院は、非常に優秀なスタッフが揃っており、また知識の豊富さ、薬剤の提案などMRに対する要求も非常に高いことで知られている。それを成し得たものだけが、スタッフとの面会が許されるのだ。
死にもの狂いで身に着けた豊富な知識と話術、医薬品への愛情で医師と話が盛り上がった文乃は、夕方から関東を襲う台風のことなどすっかり忘れ去っていた。
「伊達さん、しばらく病院で雨風が収まるのを待っていてはどうですか。タクシーもこの嵐だといつ病院へ来れるかわからないですし。」
面会した竹下医師(中々のイケメン。さすが竹下一族。)は、病院に留まることを提案したが、文乃はそれを固辞した。
「いえ、面会時間が有意義すぎて超過させてしまった挙句、そのようなお気遣いまでいただくことはできません。幸い駅も近いですし、このまま失礼させていただきますね。」
「わかりました。でも、問題があればすぐ引き返してきてくださいね。それでは来週また今日と同じ時間にお待ちしています。」
最後に握手をして、病院をでて冒頭の状況に至る。
服はびしょびしょ、携帯は電源が入らず、場所も分からず途方にくれるが雨風は一向に止まない。しかも、雨宿りをしている古民家からは醤油のいい香りがする。
「…そういえば、朝ごはんを食べてから何も食べてない。」
納豆ごはん3杯しか食べてないというゆゆしき事態。
思い出すと現金なもので、お腹がぐぅぐぅ鳴り出した。
誰も聞いていないとわかりつつ、何とかお腹の大合唱を止めようと躍起になっていると、突然古民家の扉が空き、中から若い男性が顔を出した。
お互いがお互いにびっくりして固まる。先に動きだしたのは、男性の方だった。
「風邪をひいてしまいますから、良かったら中へどうぞ。」
タオルをお持ちしますね、と言い残し男性は一旦中に戻った。
見た目より低く落ち着いた美声。そのギャップにドキっと胸が高鳴った。
程なくして戻ってきた男性は文乃にタオルを渡すと、中へ入るよう促した。
(わぁ、素敵なオープンカウンター。)
断る間もなく、中へ通されると、木目調の落ち着いたオープンキッチンとカウンター席があった。それほど大きなものではなく、キッチンをL字に囲むよう設置された椅子の数をみると、5席しかない。
「カウンター席しかなくて申し訳ありません。濡れても構わないのでそちらへおかけください。」
「お、お邪魔します。」
濡れてもいいと言われても気になるものは気になる。なので、おしりの辺りを丹念に拭いた後、浅くそっと椅子に腰かけ髪を拭くことにした。
そんな文乃の様子をみてそっと微笑んだ男性は、キッチンにたち、コンロに乗っていたヤカンからカフェオレボウルにカフェオレを注ぎ、文乃へ差し出した。
「温まりますからどうぞ。」
差し出されたカフェオレに早速口をつけて、文乃は驚いた。今まで飲んだどのカフェオレよりも美味しい。コーヒーとミルクのバランスがとてもいいだけでなく、ほっとする優しい味がした。
「お、おいしいです!!」
ぐぅーーーー
あまりの美味しさに大きな声が出てしまった。…ついでにお腹も歓喜の雄叫びを上げた。
一瞬の沈黙。
事の恥かしさに気付き顔から火が出るかと思った。
「…す、すすすみません。」
「ふふ、余りものでも良ければ食べていかれませんか?」
コクコクと頷くと、男性はコンロに火をつけ、準備を始めた。
やはりここは飲食店なのだろうか。料理を待っている間、男性をそっと盗み見る。
清潔に整えられた艶やかな黒髪は、ツーブロックのショートで、男性によく似合っている。右斜めに前髪を流し、左眼下の泣き黒子が色気を醸し出している。同じく黒の瞳が、形の良い二重の瞼から覗いている。
文乃の第一印象は、まあなんてモテそうな男性、だった。
だが、料理の支度をしている男性の真摯な姿は 、何事も全力投球をモットーとする彼女にとってとても好ましい。
ぼーっとそんな事を考えていると、突然文乃の腿の上に何かが乗った。
「きゃっ」
にゃーん
膝の上に乗った暖かいものの正体は、真っ白な猫だった。
首元には水色のリボンをしており、動くたびに小さな鈴がチリンチリンと鳴っている。
リボンと同じ水色の瞳がじっと文乃を見つめ、一通り見終わって満足したといわんばかりに膝上で丸くなった。
「猫ちゃん、濡れちゃうよ。」
そっと降ろそうにも全く動く気配がない。ふわふわとした柔らかい毛並みをなでると、気持ちよさそうにゴロゴロと鳴いた。
…かわいすぎる。
そんな猫の仕草に1人悶えていると。盛り付けを終えて、カウンターに料理を並べ終わった男性が、膝の猫を見て驚いた。
「ましろさん、邪魔したらダメだよ。」
そう言い、ましろと呼んだ猫を抱き上げ、文乃の隣の椅子へ座らせた。
ましろは不満そうにしていたが、渋々といった感じで大人しく座っている。
「この猫、ましろって言うんですが、極度の人見知りで、普段は全く人前にでて来ないんですよ。ましろさんも貴方の事が気に入ったようです。」
冷めないうちにどうぞと言われて、少々ましろさんを名残惜しく思いつつも。いい匂いにつられて端を手にとった。
「今日はとても活きのいい赤カレイが手に入ったので煮つけにしています。副菜はほうれん草のお浸し、だし巻き卵、蕪の漬物、ひらたけと油揚げのお味噌汁です。」
一通り紹介してもらったあと、早速お味噌汁に手を伸ばす。
そっと香りを嗅ぐと、かつおだしのいい香りがする。
一口飲むと、お味噌の濃さもちょうどよく、ひらたけの風味も消していない。
こんなお味噌汁なら、毎日飛んで家に帰るのに、と思う。
つやつやとして芯の立つごはんは土鍋で炊いたそう。趣のある茶碗に盛られている。
ごはんを噛み締めたのち、メインの煮つけを頬張った。
「?! なにこれすっごくおいしい!!」
全く煮崩れしていないカレイの煮つけだったので、割と身が固めかもしくは煮つけたばかりかと思って食べたら、あまりの身の柔らかさにびっくりした。味も薄すぎず、だけど置きすぎで濃くなってもいなく、ちょうどいい。
あまりの感動に、イケメンの前なので食欲を抑えておこうという、ちょっとした乙女心はどこかに行ってしまったようだ。
気づけば、男性が空っぽになった茶碗にごはんを盛ってくれていた。
ほうれん草のおひたしもだし巻き卵も、文乃の口に本当によく合って、もくもくと食べ続けてしまい、再度ごはんをお代わりして完食した。
「あの、本当にすっごくすっごくおいしかったです!それと…すみません、ごはんを食べすぎてしまって。」
「ありがとうございます。いえいえ、あんなにおいしそうに食べていただけてとても嬉しいです。」
食べ終わってから食べ過ぎた事に気づき。ああまたやってしまったと思ったけど、男性が嬉しそうに微笑んだので良しとしよう。うん。
すっかり長いしてしまったようで、外は暗くなっていた。雨風の音も、来た時に比べればだいぶ収まったようだ。
名残おしいけれど、そろそろ帰らないと明日の仕事に影響が出るかもしれない。
「あの、ごちそう様でした。そろそろ帰るのでお会計をお願いします。」
「いえ、今日は残り物をお出ししてしまいましたから、お代は結構です。今度はちゃんとしたものをお出ししたいので、またいらっしゃっていただけますか?」
お代はいらないという男性と払うという自分とでしばし押し問答したけれど、結局またくるということで折り合いがついた。彼は、顔に似合わず以外に押しが強い。
席を立ち、男性が見送るといって一緒に出口へ向かうと、ましろも席を降りてついてきた。
「ありがとうございます。絶対また来ますね。営業時間とかが書かれたショップカードとかはありますか?」
そう聞いてみたが、男性は何も答えずカウンターの上に置いてあったノートから一枚切り離して、何かを書き、文乃に渡した。
これまた上品な字で書かれていたのは、千尋という言葉と電話番号だった。
「千尋っていうお店の名前ですか?」
ふと疑問に思って聞くと、ふっと男性が笑う。先ほどまでとは違い、やや艶を含んだ笑みだった。
「いえ、千尋は私の名前です。ここは名のない店なので。」
それと、といい彼はぐっと文乃に近づき、右耳元でささやいた。
「ここはしがない小料理屋ですので、どうか他の人には内密に。」
ね?といい男性―――千尋さんが耳元から離れる時に、彼の唇が耳に触れた
や、妄想じゃないはず。触れていった耳から火がでそうだもの。
「は、はい」
満足に返事もできないまま店を飛び出した。ましろが寂しそうに鳴いていたがそれどころではない。動転しながらも走り続けると、見知った道に戻ったようで、何とか電車に乗り、横浜のマンションへたどり着き、玄関でずるずると腰を落とした。あの料理の腕前と美声、そして引き込まれる妖艶な笑みを思い出す。
「彼は―――危険だわ。」
そう思うも、きっと料理が忘れられずまたそう遠くない日に訪れてしまうだろう。
仕事では感じることのなかった感情に振り回されていると感じながらも、それを悪くないと思った。