六章 野球する土曜日
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「まだ、九時だよ」猪狩は眠そうな目を擦って言った。
「九時に迎えに行くって言ったろ」
藤井は約束どおり九時に猪狩の家に迎えに来た。彼は車で来ていた。彼の車はWILL VS。一人暮らしのくせに、一丁前に普通車だ。維持費が高いだろうに。大学中は軽自動車でいいと思っている猪狩だが、今のところそれすら叶っていない。そして、これからも叶う見込みはない。
猪狩は一応時間には間に合っている。九時には準備を済ませ待っていた。ただ、猪狩は朝にめっぽう弱い。休日の九時はまだ時間外である。
「眠いよ」
そう言いながら猪狩は助手席に乗り込んだ。
H大は猪狩の家から三十分ほどで着く距離である。街の中心に程よい距離にあり、敷地は国内トップレベルである。
H大のグラウンドに着き、そのすぐ横に車を停める。H大はかなり広いので、構内を車で移動しても何らおかしくはない。学生たちも、ほとんど自転車に乗って移動している。そうでないと講義に間に合わないこともあるらしい。
ここに来る前に藤井が、免許を取ってから初めて巻き込み確認の必要性を感じた、と言い出したほど容赦なく自転車が車のすぐ横を走っていた。
グラウンドは構内の端にあり、外野の奥は木が生い茂っているため、ボールが入っていったらまず探すのは難しいだろうな、などと眠い頭で猪狩は考えた。
「まだ、試合前じゃん」
「ああ、十時プレーボールだから」
「……あと三十分寝られた」
「そのくらい気にするな」
猪狩は辺りを見渡した。野球部員がウォーミングアップをしていた。ベンチではマネージャーが試合の準備をしている。その中に頭に包帯を巻いた南原が目に付いた。
「南原」藤井も彼に気がついて声をかける。
「おう、藤井か。えっと……猪狩、も」
「大丈夫なのか?」
「ああ、普通にしてる分にはな。試合には間に合わなかったけど。ま、見ていってくれよ」
グラウンドでは、選手たちが一直線に並び、掛け声とともに各ポジションに走っていった。
そこに監督らしき人物が歩いてバッターボックスの方に歩いていく。
「なあ、何が始まるんだ?」猪狩は尋ねた。
「ああ、シートノックだよ。試合前に感覚を慣らすための練習……ってわけじゃないけど、ウォーミングアップみたいなもんだよ」
「試合前にそんなのやって、疲れないの?」
「あのなあ」呆れた様子で藤井が言う。「この程度で疲れてたら野球やってられねえよ。それ以上に、球を取る感覚っていうのは繊細だから、試合前にやっておかないと大変な目に合うんだよ!」
「ふーん。そうなの」
南原がベンチから出てこちらにやってきた。
「今回、ベンチ外なんだ」
シートノックが終わり、両校の選手がベンチ前に集まる。作戦ミーティングをしているようだ。
そのあと、審判がグラウンドに入ってくると、先ほどと同じようにベンチの前に一直線に並んだ。審判の合図で一斉に走り出し、バッターボックスからピッチャーマウンドにかけて平行に整列した。
キャプテンが握手をかわし、審判の「礼!!」の言葉で全選手が頭を下げ、声を張る。
「しゃーす!!」
そのあと、両チームのキャプテンが何か叫び、チームメイトがそれに応えたようだったが、猪狩には聞き取れなかった。だが、藤井や南原はわかるのだろう。野球人にだけわかるような掛け声がいくつもあるようだ。
O大の先攻で、H工大の選手が守備に着く。O大のベンチ前では円陣が組まれている。
「あれが監督か」
先ほどノックを打っていた、三十代くらいの男が円陣に混じって選手に檄を飛ばしている。長身で穏やかな表情をしている。顔と檄の言葉にギャップを感じる。
「あれで、キレたら恐いんだぜ」南原はおどけて、わざと身震いした。
O大の攻撃が始まる。一番はセカンドの本田。
「あいつは嫌なバッターだぜ。粘り強いし足が速い」
南原の言うとおり、ツーストライクに追い込まれたあとから三球連続でファール。ボールをはさんだ後、レフト前に流し打ちでヒット。ベンチの後ろでベンチ外のマネージャーが歓声を上げた。
「な?」南原が満足そうに言った。
次の打者は猪狩の知らない人だった。南原が言うには三年生らしい。
その初球、いきなり本田が盗塁を試みた。結果はセーフ。
「な?」南原がまたも満足そうに言った。
打者が送りバントを成功させ、一死三塁。「三番レフト片山くん」とコールがかかる。
「あいつは一年でセンスはあるんだけどな……」
片山は初球を打ち上げサードフライ。二死三塁となった。
「零点かな」藤井がつぶやいた。
「まさか」南原は首を振った。
打者のコールがかかる。「四番ファースト大西くん」
彼は左打席に入った。
「キャプテンは誰よりもバットを振ってるんだ」
一球目、外の変化球、ボール。
「自分が振らないと他の部員に示しがつかないってさ」
二球目、内角のストレート、ファール。
「何か青春野球漫画みたいだけど」そう言って軽く笑った。
三球目。
「とにかくあの人は打つよ」
ストレートを引っ張り打球はライトへ。鋭いライナーで、ライトの頭上を越えた。三塁にいた本田が生還した。
「っしゃ!!」藤井が叫んだ。ベンチでも歓喜の声が聞こえる。
「な?」南原が言った。三度目である。
四番大西の二塁打の後、五番打者が倒れ、O大の得点は一点。
「なあ」藤井が遠慮がちに言った。「エースって高木だったんだろ?」
「まあな、今日は山本だな」
山本がマウンドへ上がり、投球練習を始める。右手にはめられた真っ赤なグローブが目立っていた。
「どうなの?」今度は猪狩が聞いた。
同じ中学ということもあり、多少気になった。
「まあ、見てな」
H工大の先頭打者に対しての初球、右打者に対するインコースのストレート。
「そんなに球、速くないな」藤井が言う。
二球目、今度はアウトコースへのストレート。打者はそれを強引に引っ張り、レフト前へ。無死一塁となった。
「ここからだ」南原が言った。
二番打者は素直に送りバントで、一死二塁。三番打者が左打席に入る。
「あいつは左打者には強いんだ」
「そりゃサウスポーだからな」藤井が当たりまえだと言わんばかりに言った。
「あそこまで左に強い左腕もめずらしいぜ」
あれこれと言っている間に打者は外のスライダーで三振していた。二死二塁。
「高木はいいピッチャーだった」南原がふと口にする。
次は四番打者、右打席に入る。
「一四〇キロは出なかったけど、いい所までいってた」
外のスライダー。ストライク。
「コントロールがいい訳じゃないけど、崩れなかった」
外のストレート。ボール。
「山本は精々一二五だろうな」
インコース、ストレート。引っ張って大きなファール。
「けど、俺は山本に魅力を感じてるんだ」
「左だから?」藤井が首を傾げる。
「それだけじゃない」
山本の四球目、カーブ。それは大きな弧を描き、いつまでも届かないようにさえ思えた。結局打者はタイミングが合わず、打ち上げてファーストフライ。O大は無失点で初回を切り抜けた。
「あいつのカーブはメチャクチャ遅いんだ。八〇キロあるか疑わしい」南原はけらけら笑っている。
「遅え……」藤井も苦笑した。
ただ、猪狩は、あのくらいのスピードなら打てそうだと思った。だが、おそらく思い上がりなのだろう。
その後は膠着した展開となった。打ちつ打たれつ、それでいて得点に繋がらない。試合が動いたのは五回裏のH工大の攻撃だった。九番打者がエラーで出塁し無死一塁。そこからランナーが盗塁を試み、捕手が送球をやや逸らしセーフ。
「俺ならアウトなのに……。何やってんだよ」南原が顔をしかめつぶやく。
無死二塁。一番打者は送りバント成功。一死三塁。捕手がタイムを掛け、山本に駆け寄る。
「ここだな」藤井がつぶやく。
二番打者が右打席に入る。
「スクイズだな」と南原。
果たして、結果は本当にスクイズだった。山本が大きく外して失敗したが、ランナーは上手く戻ってセーフとなった。結局この打者はサードゴロで二死三塁。次は左の三番打者。
「ここで抑えろ!」藤井は必死になっている。
初球、大きく外れてボール。二球目は変化球でストライク。そして、三球目。
「あっ!!」誰かの叫び声が聞こえた。
山本の投じたボールは、打者の背中を直撃した。デッドボールだ。
「あちゃー!」南原は額に手を当て、天を仰ぐ。
そして四番打者。一球目だった。あのスローカーブ。だが、今度はうまく引き付けてボールは一塁線へと飛んでいった。ファーストは捕れない。
ライトも必死に追っているが、あまりにも外側を飛んでいったため、なかなか追いつけない。その間にバッターは一塁を蹴り、二塁に到達。三塁にいたランナーはもちろん、一塁にいたランナーまで本塁へと還ってきた。
「あらら」藤井はため息を漏らした。
なんとか後続を抑えるも、逆転を許し一対二。
選手たちがベンチに引き揚げると、他のチームのユニフォームを着た者たちが先に板がついた棒を持ってグラウンドに入ってきた。どうやら、それで地面を均すらしい。
その間、両チームは円陣を組んでいる。
「落ち着いていこう」O大のベンチ前でそう言ったのは監督だった。
「まだ一点だから。焦らずに少しずつ返していこう。流れが悪いからこの整備で一回切り替えてな。ちょうど一番からだ、初回のつもりでいこう!」
「はい!!」一斉に部員が返事をする。
一時解散すると、本田がヘルメットをかぶり、待機し始めた。彼はベンチの横で何者かと話している。パイプ椅子に座って「H」の帽子を被っているがH工大の物とは違う。
「あれ、誰? 何してるの?」猪狩は南原に聞いた。
「ああ、ボールボーイだよ。ファールボールとかを捕りに行くやつ。H大が当番校だからな。あいつは本田の友達って言ってたかな? 工学部とか言ってた気がするけど、忘れた」
その後、何度かチャンスを作るも得点には繋がらず。山本も好投するも、さらに一点を失い、一対三でO大の負けとなった。
「まあ、いい試合だったな」と藤井。
「いや、でも勝ちたかった」南原は悔しがっている。自分は怪我で出ていないのだからなおさらだろう。
「帰るか」猪狩が提案する。
「おう、今日はありがとうな」南原は笑顔で応じる。
猪狩と藤井の二人は駐車場へと歩き出した。
駐車場に行くとスーツを着た、グラウンドにふさわしくないような男がいた。もうこの一週間で見慣れてしまった。伊勢である。
「何してるんですか?」猪狩が尋ねる。
「野球しているように見えるかい?」伊勢は苛立たしく言った。
「捜査、進んでないみたいですね」
「もう、訳がわからんよ」
「睡眠薬でも出てきました?」猪狩がそう言うと伊勢は目を丸くした。
「あ、本当に?」
予想はしていたが、伊勢の反応を見る限り、本当に出てきたようだ。猪狩は驚いた。
「本当に出てきたよ。意味がわからん。どこをどうやったらあの状況で睡眠薬が出てくるんだ? もしかして、何かわかったのかい?」
「いえ、全然」
伊勢は猪狩を訝しげに見た。しかし、ため息をつくとそのままグラウンドの方へと向かった。
「苛立ってるな、あの刑事さん」
「そのうち何とかなるだろ」
「なあ、お前、何かわかったのか?」
「さあね」
藤井は猪狩を見た。その目はいつものおちゃらけたようなものではなく真剣なものだ。ここ数日その傾向はあったが、今は特に強い目をしている。
彼はため息をついて、視線を猪狩から外した。
「俺さ。高校時代にI高と何回か試合してるんだよ」
「I高って、高木の?」
「そう。公式戦一回と練習試合二回かな? 高木は公式戦にちょっとと、練習試合で丸一試合投げてきたんだ」
「意外な接点だな」
「完璧に抑えられた。正直、呆れるくらいだった。これで二番手かよ、って。やっぱ私立は違うなあって。で、南原のことも知ってた」
「そんなに他校のやつと知り合いになるのか?」
「知り合いってわけじゃねえよ。ただ、目につく選手は覚えるよ、自然とな。南原は練習試合でホームラン打たれたのを覚えてる。センターから見てたんだけど、外に逃げるスライダーをライトに持ってったんだぜ? プロかよ、って思ったよ。
そんなだからさ、今回、こんなことがあってさ、びっくりしたんだよ。あいつらか、って。しかも、高木は死んじまったんだぜ? 信じらんねえよ。すげえ嫌な気持ちになった。矢式には実際、引いちまった。何でそんなに他人事みたいに考えられるんだろうって。まあ、本当にあいつに取ってみりゃ他人事だし、俺も前の事件のときは他人事みたいに野次馬やってたけどさ。
けど、俺にとってはやっぱ他人事じゃないんだよな。野球部じゃねえし、たいして仲良くもねえし、けど、身近に感じるんだよ」
「だから、許せない?」
「わかんない……。何が言いてえんだろうな、俺。とりあえず、さっさと終わってほしいんだよ。だからさ、康平。お前、何かわかってんならさ……」
猪狩は何も言えなかった。それは警察の仕事だ、とは言えなかった。