五章 脱線する金曜日
1
昼の食堂。金曜日は月曜日に次いで空席の目立つ曜日である。だが、それでも席の八割ほどは埋まっている状態である。常時この程度になっているのが理想ではないだろうか。
そんな中で、奈美香が猪狩の方を見て手招きしているのを彼は見つけた。
近づいていくと、見慣れない女性が彼女の向かい側の席に座っていた。
「あ、康平。野球部のマネージャーの結城さん。三年生で南原君の彼女」
すらっとした体型で女性にしては背が高い。ショートカットがよく似合っている。こういう人を魅力的な女性と呼ぶのだろう。だが、化粧が濃いのが残念だった。
猪狩は黙って頭を下げる。彼は奈美香の隣に座った。
「奈美香ちゃんの彼氏?」彼女は微笑んで言った。
「ちょっと里美さん?」
奈美香が低い声で言った。慌てる様子もなく、根っから否定しているようである。むしろ慌てられても困る。そんな対応をする奈美香は想像できなかった。
「なんだ、違うのか」
「事件を解く探偵役ってとこですかね」
不本意ながら、とつぶやくのが聞こえた。不満があるならば、自分がやればいいだろう、と猪狩は思う。だが、奈美香は目を細めて猪狩を見ている。もっとやる気を出せ、という威嚇のようだ。
「うっそー」彼女は口を大きく開け、それを右手で隠すようにして言った。
「嘘です」猪狩はきっぱりと言った。
奈美香が猪狩を横目で睨む。それをできる限り視界に入れないように猪狩は努めた。
「そんな、漫画みたくうまくいくの?」
「いきません」
「いきます」
猪狩と奈美香の声が重なった。奈美香は苛々したように猪狩を睨んだが、結城がいる手前、いつもほどの威圧はなかった。
「まあ、いいや。私は警察だろうと探偵だろうと犯人が捕まってくれればいいんだけどね。何が聞きたいの?」
「事件の日。何か変わった事なかったですか?」
奈美香が尋ねた。猪狩は聞くに徹することにした。
「って言われてもねえ……。あの二人、監督にこっぴどく怒られてたけど」
「らしいですね。二人が話し合うこと、知ってました?」
「いや、全然知らなかったの。出かけるときも、いつの間にかいなくなってたし」
猪狩は彼女が何を言っているのかわからなかった。その様子を察したのか、奈美香が「南原くんと里美さん、同棲してるのよ」と耳打ちしてきた。
「ただ、監督がすっごい怒ってて『おまえら、一回腹割って話し合え!!』って言ってたから」
「じゃあ、誰か聞いていたかもしれないですね」
「まあね。あとは特にないなあ。ごめんね」
「いえ、いいですよ」
「南原は携帯持って行きました?」猪狩は聞いた。
すると結城は驚いたように猪狩を見た。本田のときもそうだったが、自分はそんなに話しかける間が悪いのだろうか。
「え? ああ、忘れていったのよ。なかなか帰らないから電話掛けたっけ、すぐそこのテーブルで鳴るんだもん。びっくりしちゃった」
「監督って、ここの教授ですか?」猪狩は質問を続ける。
「いや、野球部のOBなの。キャプテンだったんだって。自営業で土日の融通が利くから、やってもらってるの」
「何年卒ですか?」
「いつだったかなあ? 十年くらい前だったと思うけど」
急に質問攻めになった猪狩に対して、少し困惑気味に彼女は答えた。
「ありがとうございます。もういいです」
そう言うと猪狩は立ち上がって食堂を出て行った。
2
奈美香は猪狩のあとを追っていった。
まだ、次の授業には時間がある。なぜか猪狩は授業棟とは反対の方向に歩いていた。
「ねえ、携帯がどうしたの?」
なぜ急に猪狩が質問攻めするようになったのかが奈美香は気になった。
「どうも。あ、そうだ。カジノ・ロワイヤルって見た?」
「何それ?」急な話題転換に奈美香は困惑する。
「007だよ。何年か前の映画なんだけど」
「そんな、おじさんが見るようなの見ないわよ」
そのシリーズについては知っていたが、父がよく見るというだけで、ほとんど知らなかった。接着剤の名前のようなスパイが主人公だということだけ知っている。
「ああ、そう? てか、それ偏見だろ。面白いと思うぞ。今回はいろいろ新しい試みがあってマンネリ化してたシリーズから抜け出してるっていうか、批判が多かった新ボンドもかなりの評価を受けたし。特に印象に残ってるのは、最後にボンドがヒロインを追っかけていく所かな。ポーカーの所とかって言う人もいるだろうけど。とにかくいい作品だよ。と言っても実は前の俳優の作品の方が好きなんだけど」
「で?」
「いや、それで終わり」
「事件との関係は?」内容のない彼の話に彼女は苛立ってきた。
「ないんじゃない?」
「あっそ」
奈美香は呆れて物も言えずにそっぽを向いた。すると、遠くから藤井が近づいてくるのが見えてさらに気が落ちた。今回、彼は事件に関して極度に消極的で、事件の話をすると不機嫌になる。正直言って、扱いに困っていた。
「康平。明日、暇か?」
「暇だけど、何?」
「野球部の試合見に行こうぜ」
「何だよ、急に。別にいいけど」
「オッケー。じゃあ、明日九時に迎えに行くわ」
藤井は奈美香などいないように振る舞って、そのまま食堂の方へと向かって行った。
「何よ、あいつ……」奈美香は彼に対して猪狩以上に腹が立ってきた。
「さあ? あいつはあいつなりに何か考えてるんじゃないか? あれは行きすぎかもしれないけど、事件に対して嫌悪感を抱くのは正しいと思うけど」
「まあ、いいわ」納得はできなかったが割り切ることにした。「で?」
「で? って、何が?」
「あんたは、事件についてあんたなりに考えてるの?」奈美香は声を低くして言った。
「いや、だから何もないって。あ、そうだ。象を冷蔵庫に入れるにはどうしたらいいと思う?」
まるで、出来の悪い人工無脳のように話題を変える猪狩に奈美香は気が重くなった。頭に何かが乗っている気分だ。ふと、東南アジアの商人が思い浮かんだ。
「そんなの知らないわよ。小さく切って入れるんじゃないの?」
「違うよ。答えは冷蔵庫のドアを開けて、象を入れて、ドアを閉める。だよ」
「呆れた」奈美香は肩をすくめてため息をついた。
「じゃあ、キリンを冷蔵庫に入れるには?」
「冷蔵庫のドアを開けて、キリンを入れて、ドアを閉める」彼女はぶっきらぼうに答えた。
「残念。冷蔵庫のドアを開けて、象を出して、キリンを入れて、ドアを閉める。だ」
「何それ」奈美香は言い捨てた。
「知らないよ。それが答えなんだから。けどさ、象が入るほどの冷蔵庫を想定しているのに、なんで象とキリンが一緒に入る大きさは想定してないんだろう。どっちもありえない大きさなのに。どうして象とキリンを一緒に冷蔵庫に入れちゃいけないんだろう?」
「知らないわよ、もう」
「あ、そう。じゃあ、俺、寄る所あるから」
そう言うと彼は踝を返して坂を登って行った。行き先はどう見てもサークル会館である。これは付いて行かないわけにはいかないだろう。
「ちょっと、待ちなさい!」
彼女がついていっても猪狩は特に気に留める様子はなかった。黙ってサークル会館に入り、黙って野球部の部室まで歩いていった。黄色いテープは未だ張られているが、運よく警官はいなかった。
彼はテープを潜り抜けると部室へと入っていく。すると急に部屋の物を物色し始めた。
「何してんの?」
事件に関係することなのだろうか。いや、そうでないといろいろとまずい気がする。自ら動き出したことに関しては評価してもいい。しかし、彼の行動はどうも意味のある事には見えなかった。
「いや、別に。先帰っててもいいぞ」
「いやよ、そんなの」
不毛な会話をしている間にも猪狩は物色を続けるが、窓や扉には目もくれない。
椅子に登り、合宿用であろう料理道具の入った袋をガサゴソ。
バットの一本を取り出し、ボーっと見つめる。
冷蔵庫を開けると、二リットルのペットボトルを取り出し、すぐに戻す。
救急箱を見つけては中身を漁り、その他奇行をいくつか成していた。
奈美香は手持無沙汰になって窓際に寄った。聞いていた通り、何かが通りそうな穴はなかった。窓の向こうには、車が止まっている。
「あれよ。高木くんの車」
奈美香が言うと、猪狩が近づいてきた。
「ああ。インプレッサね。WRXかな?」
「あんた、車好きだっけ?」
「いや、免許取ったときに、少し。将来買えそうなものだけ見てたから国産しかしらない。あれは高いよ。学生じゃ、普通買えない」
車の周りには赤いコーンとそれを囲むようにして黄色いテープが張られていた。おそらく、そのうちレッカー車で運ばれていくのだろう。
突然扉が閉まる音がした。驚いて振り向くと、そこに猪狩の姿はなかった。今のは彼が扉を閉める音だったようだ。
「いやいや、おいてくって何よ?」
2
猪狩はその日の夜、O大野球部のホームページを見た。部員紹介の所をクリックすると部員の一覧が出てくる。名前をクリックすると、その人の詳細ページにリンクされている。
猪狩はまず一番上の監督の名前をクリックした。
安田久 昭和五十二年五月二十一日生 三十二歳
平成十二年卒 当時はキャプテンで四番センター。五年前から指揮を取る。
「ちょうど十年前か……」
続いて他の部員の名前もクリックしていく。ほとんどわからないので、会った事のある者だけ見ていくことにした。
高木祐介 二年生 平成元年八月五日生
S市I高校 右投右打 投手
O大が誇る二年生エース。自慢の速球で相手を手玉に。
南原信也 二年生 平成元年十月十四日生
T市H高校 右投右打 捕手
頭脳明晰、チームの司令塔。シュアなバッティングも期待。
本田圭介 二年生 平成元年四月三日生
O市C高校 右投左打 内野手
チビで俊足。とにかく足が速い。気づいたら走っている。先輩に追いかけられてだが……。
山本高志 二年生 平成二年二月十一日生
S市A高校 左投左打 投手
モットーはのらりくらり。のんびりしながらも、ちゃっかり抑えている。目標は最遅を極めることだとか。
結城里美 昭和六十四年一月七日生
K市K高校 マネージャー
チームを影で支える(支配する?)マネージャーの長。マネージャーはおろか、選手でさえも逆らえない。睨まれたが最後、手足の震えが止まらない。
一通り見終えると、猪狩はパソコンをシャットダウンして、寝ることにした。