四章 拡大する木曜日
1
「まあ、正直言うとみんなそうだな」本田が言った。
木曜日のの食堂。火曜日に次いで食堂の争奪率が高い日ではあったが、この日は運よく席を取ることができた。いつもの四人に本田が混じって五人で昼食を食べていた。事件の話になり、奈美香が、高木と仲の悪かった者を聞いた所である。
「あのバッテリーには多少なりみんなイラついてたな」
本田が多少大きな声で言った。それは機嫌とは無関係で、食堂があまりにも騒がしいからだ。物騒な話をしていても聞かれる心配はほとんどないと言ってよい。
「南原にも?」藤井が驚いたように言った。
彼こそ機嫌が悪い。猪狩には彼の心情がとても奇妙に思えた。猪狩自身も事件には積極的になろうとは思えなかったが、藤井が事件に関して嫌悪するような性格とは思えなかったし、実際にある程度の積極性を見せた経験がある。
藤井の機嫌になど本田は気づいていないようで、彼は説明を続けた。
「高木はI高の二番手ピッチャーだったんだ」
I高と言えば、S市内有数の野球校であり、何度か甲子園にも出場している名門である。それでいて、進学校としても有名で、特進クラスの進学先は、周辺地域でトップの偏差値であるH大や、ここO大なども入る。
ただ、普通クラスの学力は並で、O大に進学できるほどのものではない。それに、野球部に特進クラスの者が少ないのは容易に想像がつく。高木は野球部であり特進クラスという、稀有な存在だったのだろう。
「で、調子に乗ってたわけ。練習しないし、そのくせ俺らに文句ばっかり言うし。そんなわけだからキャッチャーの南原ともめてたな。南原は南原でうるさいんだ。真面目なのはいいんだけど、見境なしに高木と喧嘩するからさ」
「みんな彼らのこと煙たがってたわけね」奈美香が頷きながら言った。
「おい、俺らを疑ってんのか!? 勘弁してくれよ! それくらいで殺すわけねえだろ! 言っとくけどな、俺はアリバイあるからな。駅前の本屋でバイトしてたからな!」
「わかってるわよ。ごめんなさい」そう言って奈美香は考え込む。
だが、何かを考え付いたわけではないようで、その証拠にかぶりを振ってため息をついた。
「何時から?」猪狩は聞いた。
「え? あ、ああ。五時半から。警察が五時から七時って言ってたろ? 移動時間考えたら、無理だろ?」
「ああ、そう」
「あ、そう言えば、高木君って結構いい車に乗ってたのね」奈美香がふと口にした。
「そうなの?」そう聞いたのは意外にも本田だった。
「学生にしては、ね。車の事よく知らないから車種とかは分からないけど、凄く格好良さそうな車だったわよ。知らなかったの?」
「あいつ、駐車場の許可証持ってないんだ。だから、車は見た事ないよ」
O大の駐車場は許可制である。正式に認可されずに駐車しておくと、警告のビラが貼られ、ナンバーが控えられる。何度も続けると、タイヤロックやレッカー移動などの措置を取られるなど、本格的な取り締まりが行われている。
猪狩は、一度藤井がタイヤロックの警告まで到達して焦っていたのを聞いていたので知っていた。
「誰か知ってたやつはいる?」猪狩は聞いた。
「いないんじゃない? あいつが車持ってたなんて話、聞いたことないから」
野球部が知り得ない事を、なぜ奈美香が知っているのだろうか。猪狩は奈美香の情報収集力の恐ろしさを思うと背筋がぞっとした。やはり、矢式奈美香を敵に回すべきではないと改めて思った。
ふと、食堂では普通見ることのない人物が視界に入った。視線の先には、学食の会計をしている伊勢の姿があった。どうやら、捜査の合間を縫って食堂に来たようだ。
「あ、伊勢さん」奈美香も気が付いたようで、指を差しながら言った。
それにつられて、残る三人も伊勢に視線を注いだ。
「誰?」本田が尋ねた。
「警察」猪狩は短く答える。
「えと、南原君のお見舞いのときに来てたよね」
「いい事考えた!」突然、奈美香が元気よく言った。
その唐突さに猪狩が呆気にとられていると、彼女は急に猪狩の腕をつかんだ。
「な!? ちょっと待て!」
「レッツ・ゴー!」猪狩は抵抗するが、彼女は力強く猪狩を引っ張り、伊勢の方へと向かっていく。
無理に振りほどくこともできたが、奈美香の機嫌を損ねるのは得策ではないと思い、彼は嘆息しつつも、従うことにした。
混雑する通路をかいくぐるようにして伊勢に近づく。人ごみに紛れているからか、彼はこちらに気付いていないようだ。
「伊勢さーん!」
奈美香が声をかけると伊勢が顔を上げた。
「こんにちは」奈美香は大人用の笑顔で礼儀正しくお辞儀した。
「やあ、君たちか。どうしたんだい?」
伊勢は微笑むと、窓際の一人用の席に腰かけた。この席はなぜか不人気で、いくら混雑しようとも必ず空いている。
奈美香は伊勢の隣に座った。猪狩もさらにその隣に座る。
「誰ですか?」
伊勢のあとを追うように一人の男がトレーを持ってやって来た。細身で、あどけなさの残る顔。いかにも新米刑事という印象を醸し出している。彼は奈美香とは反対側の伊勢の隣に座った。
「ああ、池田。お前、腹痛くないか?」
「へ? いえ、痛くないですけど……」彼は割り箸を割ってうどんに手をつけようとしたところで固まった。
「痛くないか? 痛いよな? トイレ行ってきていいぞ」
伊勢が池田に向けた視線はなぜか冷たい。自分は何故か怒られている。そう思ったのだろう、声を上ずらせて返事をするとその場から走り去った。
猪狩には彼がとても不憫に思えた。
「さて、と」
部下に対する仕打ちがまるでなかったかのように伊勢は微笑んでこちらと話す体勢を作った。
「捜査は進んでますか?」奈美香が尋ねた。
「いや、全然」彼は顔をしかめて手を振った。「目撃情報があるかと思ったら、からっきし。日曜のあの時間って、どの部活もたいしてやってないんだね。だから犯行が行えたんだろうけど」
「他はどんな感じですか?」
「そりゃあ、一般人には教えられないよ。教えたら面白そうだけど。ねえ、猪狩君?」
「買いかぶりすぎです」
「そうでもないさ」
「クーリングオフはご自由にどうぞ」
「ちょっと、何の話よ!」
「いや、なんでもないよ」伊勢は笑っている。
「車からは何か出てきました?」猪狩は尋ねた。
よくよく考えれば、野球部が知り得ない事を奈美香が知っているのは、警察が調べているのを目撃した以外にありえないだろう。
伊勢は車のことを知っていることに少し驚いたようだが、すぐに答えた。
「全然。まあ、これくらいなら言ってもいいか……。携帯が見つかって、彼らがあそこに集まる予定だったってことの裏が取れたってくらい」
「あそこの鍵っていつから無いんですか?」今度は奈美香が尋ねた。
「ん? えっと」そう言って手帳を見る。「ああ、平成十一年ってなってるね。今は二十一年だから、ちょうど十年前だ」
「鍵って一つしかなかったんですか?」
「そうみたいだよ。よくあるでしょ、花壇の下とか、絨毯の下とかに隠して共有するってやつ。どうやら、ドアの上にちょうど置けるようなスペースがあったみたい。これくらいしか教えられないな。そろそろ飯を食わせてもらっていいかな? この後も仕事だから」
「あ、すいません」奈美香が頭を下げて謝った。
「いいよ。それじゃ」彼は片手を挙げて挨拶した。
二人は藤井たちのところに戻ることにした。
「……池田、遅えな」彼がつぶやくのが聞こえた。
2
「もう、全然わからない」奈美香は落胆の声を漏らした。
講義が終わり、猪狩と奈美香は帰るために坂を下りようとしていた。駅まで歩いて二、三十分。そこから電車に揺られて四十分。さらに地下鉄に乗り換えて十分。それから歩いて二十分。実際は自転車があるので十分かからないくらいだ。それらを合計、さらに待ち時間を合わせると、考えただけで憂鬱になる通学時間である。
彼らは講義棟の中で一番高い位置にある五号館から出てきた。
「何が?」猪狩は尋ねた。
「事件のことに決まってるでしょ!」
奈美香は強い口調で言った。かなり苛立っているようだ。漫画だったら青筋が立つか頭から湯気が出ているだろう。それでお湯が沸かせるかもしれない。
そもそも、事件のことと決まっているはずがない。小説の登場人物でさえ、四六時中事件のことを考えているとは限らない。ならば、猪狩が事件のことをいつも考えているということはそれ以上にありえないし、奈美香だってそのはずである。
おまけに、伊勢との会話のあと、講義を挟んでいたため、事件のことなど頭からほとんど抜けていた。なので怒られるのは猪狩にとって心外であった。
「どこまで知りたいの?」猪狩は仕方なく事件に思考を向けた。
「え?」
「密室の謎が解ければいいのか、犯人がわかればいいのか。犯人の動機まで知りたいのか。犯人やその動機が知りたいんだったら、今の状態じゃ無理だろ。野球部のことを知らないんだから」
「あんたじゃないんだから、野球部の事くらいわかるわよ」憤慨したように彼女は言った。「でも、そうね。明日からは野球部の人たちに話を聞いてこようかしら」
「いってらっしゃい」猪狩はわざとらしく手を振った。
「あんたも行くのよ!」
猪狩は深いため息をついた。
そのとき、一台の原付が彼らの横を通り過ぎて行った。
「あれ、本田だ」
「いいなあ、あれなら駅まで十分もかからないのに」
「七、八分ってところだろうな」
「いいなあ。私も欲しいなあ」
「そもそも、免許持ってないだろ」
3
その夜、猪狩は家の近くのコンビニへ出かけた。課題レポートをやっていたら眠くなってきたので、コーヒーを買いに行くところだった。その途中で、ジャージ姿で走っている見知った人物を見かけた。
「あれ、山本?」
猪狩が声をかけると彼は足を止めた。
「あ、猪狩か」
山本高志。O大の二年生で野球部。猪狩と中学が一緒で、本田、南原と会うまでは猪狩の知っている唯一の野球部員であった。
だが、たいして仲が良いわけではなく、あまり話した事はない。今回の事件がなければ気がついても話しかけなかっただろう。
「何やってるんだ?」
「見てわかんない? ランニングだよ。大会近いしさ。三年生にピッチャーいないんだよ」
「ふーん」
「ほら、高木があんな事になっちゃっただろ?」そう言う山本の表情は暗い。「大会辞退しようかって話もあったんだけど、高木の分も頑張ろうって……」
「高木と仲良かったの?」
我ながら滑稽な質問だと猪狩は思った。同じ野球部なのにその質問はいかがなものか。ただ、昼間の本田の話を聞いていたので、つい尋ねてしまった。
山本はしばらく黙りこんだ。難しく考えているようだったが、やがて言った。
「あいつは、俺の手本だよ。そりゃ、性格は悪かったし、嫌ってたやつも多いだろうけど。あいつ、I高なんだ。エースじゃなかったけど、二番手で投げてて。高校も練習試合で見たけど凄かった。大学に入って同じチームになっても、やっぱり凄いって改めて思った。いっぱい学ぶ所があってさ」
「なるほど、ね……」
「もういいかな? 汗で冷えちゃう」
「ああ、悪かったな引き止めて。頑張れよ」
そのまま山本は走っていった。猪狩も歩き出した。
どうやら、山本に関しては高木に対して、そこまで否定的ではないようだ。もちろん、性格が悪いとも言っていたし、全面肯定ではないようではある。
やはり、動機に関しては情報量が少なすぎる。何かを判断するには足りない。
「あほくさ……」
猪狩は思考するのを止めた。
どうしても、気になることはある程度考えてしまう。実際に事件を目撃したのだからそこは致し方ないだろう。
だが、深く考える必要はない。なぜならば、警察の仕事だからだ。
猪狩は家の前まで戻ってきた。
「あ」
猪狩は、コンビニに行っていないことに気がついた。